〈後編〉暖炉の炎
大学生になって初めての冬休みに、リカは一人暮らしをしている都会の街から実家に十日間だけ帰って来る事になった。年末だというのに、祖父母はのんびりと四泊もの旅行に出かけている。
――こんな時期の方が安く行けるのよ――
そんな事を言いながら出かけていき、旅行先から旅を満喫している様子の画像を送ってきた。夫婦で仲良く腕を組んでいる画像の祖母のうれしそうな顔とまんざらでなさそうな祖父の顔を見ていると、祖母から告白した説が濃厚になってくる。
平日は両親とも仕事で夕方まで出かけているので、中学一年生の弟の面倒をみながら、適度に片付けものをし、のんびり過ごす事にした。
「それにしてもやっぱり田舎は風景が綺麗だし落ち着くな。雪さえなければ、ね……」
クリスマスまであと二日という日、外は小雪が舞っていて、これからもしかしたら大降りになるかもしれないとテレビの天気予報で予報士が深刻そうな表情で言っていた。
そんな時、家の玄関ホールのベルが鳴った。
「誰だろう? こんな天気の日に山の中の一軒家にお客さんなんて」
リカと弟は顔を見合わせた。
リカがドアスコープを覗くと、そこには上品そうな老紳士がいた。
玄関の扉を開けると、そこにいる老紳士は、服飾に疎いリカにさえ分かるような高級そうなスーツを着ていた。
「どなたでしょう? 今、両親は留守ですけど」
「私はササモトといいます。ずっと日本を離れノルウェーで暮らしているのですが、この
「両親なら二人とも仕事に出ていますよ」
「いえ、おそらくお嬢さんのご両親なら私の年代よりお若い方でしょう。私が懇意にしていたのは、相本和孝さんという方です。日奈子さんが奥さんになられているはずですが。お二人とも私と同じ年代で」
「相本和孝は祖父で、日奈子は祖母です。あ、ちょっと待って下さいね……」
リカは、玄関の中に入り、まず祖母に電話してみたが電話に出ない。祖父は電話に関しては論外だった。それで今度は母親に電話してみた。仕事中だから出られないかと思っていたら、速攻で電話に出て話ができた。
『ちょっと。笹本さんなら、あの家の元の地主さんよ。元は別荘だったんだけどね。確かに今は、外国に移住していると聞いてたわ。私達が帰るまで丁重にもてなしてね。ほら、ちょっと高い紅茶が戸棚の奥にあったでしょ?』
そんなプレッシャーを与えられ、リカは、自由気ままな時間から一転、この家で老紳士をもてなす事となった。
***
もてなすと言っても、この家にあるものは限られている。
ふと思い付いて、屋根裏部屋から例の机とはセットになっている重い椅子を一生懸命持って降りた。
この家、というよりこの家族には不似合いなビロード張りの豪華な椅子だった。
それを応接間のテーブルの所まで持ってきて、老紳士に「こちらへどうぞ」と言うと、思いのほか相手は感激している様子だった。
「おや、この椅子はまだあったのですね。もうとっくの昔に処分されているかと思っていました」
「いえ、私達家族にはどうも不釣り合いで、屋根裏部屋に眠っていたものなんです」
「屋根裏部屋にですか?」
「ちょっと待ってて下さいね」
リカは、取っておきの紅茶を入れ、先週親戚から送られてきたばかりの林檎を剥いて硝子の
「日奈子さんも林檎が好きだったので、好みも似ているのでしょうね」
「笹本さんは、ウチのおじいちゃん、おばあちゃんの若い頃をよく知っているんですね。この椅子を知っている位ですからね」
「ええ、この椅子の座り心地も昔のままで、とてもリラックスできます」
その時、扉の向こうを乱暴に歩く足音が聞こえてきた。
「おや、どなたかご家族かな?」
「あの、その……あれは弟で」
リカは慌てて廊下に走り
弟の手を引っ張って戻ってきた。
「こちらが弟の純です」
「相本純と言います。よろしくお願いします」
「こちらこそ。和孝さんによく似ている」
純はぎこちない様子で、首を捻りながら部屋を出た。
「本当にぼーっとした子で。家族が帰って来るまで何か気を紛らすものがあるといいんですけど……」
テレビを付けるというのも考えたが、日本に戻って来たばかりのこの品の良い紳士に、日本の仰々しいバラエティ番組はそぐわない気がした。
「あ、そうだ! 祖父が大事にしている昔の外国のポップスのレコードがあります。レコードプレーヤーもあるので聴きますか?」
「それは嬉しいな。僕も外国の音楽は大好きなんだよ」
リカは、祖父の部屋のレコードが保存されてある戸棚へと向かった。
その時、廊下で弟の純が慌てたように手招きした。
「何なの?」
「姉ちゃん、あの人、どこかで見た事があると思ったら、屋根裏部屋にある写真の白いセーターを着た男の人だよね。写真の頃からだいぶ年取ってるけど」
「え? あ、そうか! そうだよね。ここの別荘の元の地主という事は……。裕雪さんて人」
ついさっきまで話していた紳士の中には、確かに白いセーターの少年の面影があった。それでもリカにとっては、白いセーターの少年のイメージが鮮烈で、年老いた紳士と同列で考える事ができなかった。ただあの素敵な子が素敵な青年に成長していく過程は写真で見ていた。そのまま年月が降り積もり、品の良い老紳士となったのだと思うと、すごく理にかなっている感じがあった。
そして、屋根裏部屋で様々に空想を広げていた子ども時代を思い出した。
***
リカの持って来た古いレコードを、老紳士は古い友人に出会ったような幸せそうな笑顔で、懐かしそうに一枚一枚眺めていた。
「あの」と、リカは切り出した。
「笹本さんの下の名前は何というのでしょうか? もしかしてヒロユキさんではないでしょうか?」
「そうですよ。ころもへんに谷のヒロに、空から降る雪で、裕雪です。でもどうしてご存知なんですか? 和孝さん、日奈子さんから聞いているのかな?」
「はい。昔、この建物が別荘だった時、クリスマスパーティーが催されたという話を、こんな小さい時から聞いてたんです」
リカは手でエア幼稚園児の子の頭を撫でているフリをした。
「そんな昔話を?」
「ええ。おばあちゃんは、裕雪お兄さんからパーティーに誘われたという話をしていました。とってもお洒落なパーティーだったって」
「そうなんですか? 和孝さんからは何か聞いてますか?」
「おじいちゃんは、自分は誘われてなくて、雇われていたみたいな話をしてました」
「ほう、そうなんですか? 僕は彼も参加者のつもりでいたんですけどね」
「そうだったんですか。おばあちゃんの話では、おじいちゃんも一緒に洋楽のレコードを聞いたり、説明したりしていて楽しそうだったとか」
「そうですよ。あなたのお祖父様は、私以上に音楽に詳しかったから」
「さぞかしうざかったでしょうね。今でも家族で話していると、すぐマウント取りたがるんですよ」
「いいえ。正直、スゴイなと尊敬してたんですよ」
「いい人ですね。やっぱり思ってた通りの人」
「え?」
「いえ、何も」
「あ、この部屋の暖炉は今も使っている様子ですね」
「ええ。おじいちゃんがいる時の限定なんですけどね。今では冷暖房器具があるから必要ないんですけど、クリスマスには、おばあちゃんが暖炉を付けないとクリスマスの気分がしないって言って、だから今も手入れしているんです。それに私も暖炉、大好きなんです」
「そうなんですね。やっぱり暖炉がお好きなんですね。昔のクリスマスパーティーの日にも暖炉に火が入っていました」
「暖炉の炎って綺麗ですよね。でもウチじゃおじいちゃんしか暖炉の火を入れられないんですよ。現代を生きる私達にはムリっていうか……」
「昔もそうでしたよ。火を入れるのは彼の役目でした」
「そうだったんですか? おじいちゃんはそんな下働きだったんですか?」
「いや、あのパーティーの日、僕がマッチを擦って火を付けようとしても、どうしても付かなくって……。そうしたら彼が『任せろよ』って言ってすーっとマッチ箱を取って器用に暖炉に火を入れたんです。生活全般に長けているんですよ」
「わ、おじいちゃんらしい。そういう所は意外とカッコいいんですよね!」
「……ええ、そうですよ」
「その時にはおばあちゃんもいたんですかね?」
「いましたよ。見ていましたから」
「誰が? 誰を?」
「僕が彼女を。彼女が彼を」
紳士は呟くように言ったので、リカはよく聞き取れなかった。
「え?」
「いえ、何でもありません。ほら、このレコードの歌詞ですよ。好きな女の子の鳶色の瞳の中に、別な青年の姿が映っていた、という決定的な失恋の瞬間の曲です」
レコードをプレーヤーに載せて針を落とすと、それは切ないというより優しい曲調だった。
それを老紳士は、目を伏せて何かを思い出すかのように聴いていた。
「昔の曲って癒されますね。裕雪さんは……あ、いえ、笹本さんはここにしばらく滞在されるんですか? 晩には両親が帰ってくるので、色々もっとこの家の事やこの地域の最近の事を聞けると思います。それに数日すれば祖父母も」
「いえ、残念ながら僕は明日にはもう飛行機に乗らないといけないのでゆっくりできないんです」
「え? じゃあ両親達にも会えないんですか?」
「はい。何れにしてもお嬢さんのご両親方とは面識ない老人です。できれば和孝さんや日奈子さんに最後にもう一度お会いしたいと思って寄ったんですが」
「最後に?」
「ええ。ノルウェーは遠いので、ここを訪れるのも、もう最後になるかと」
「それは残念過ぎます。二人がこんな時期に九州をのんびり旅行なんてしてなければよかったのに」
「いいえ、お元気でお幸せそうな様子が分かって良かった……」
「ノルウェーに帰るんですね。そこも寒くて雪が降っているんでしょう?」
「ええ。ずっと雪が降り続くんですよ。ここよりもね」
そうしてリカが子ども時代に様々な空想を広げていた白いセーターの人は、雪景色の中へと帰っていった。写真の中と同じで、まるで童話の中の人物のように。
リカと純は途中まで見送り、その人の乗ったバスがおもちゃのように小さくなるまで見ていた。
「行っちゃったね」純が言う。
「うん」
リカは、昔、書いた作文の最後を思い出していた。
「山の中の一軒家は、すき間だらけで寒いけど、暖炉を皆で囲むとぽかぽか暖かくて心の中まで温かくなります」
「そうだ。裕雪さんの今の事について、何にも聞いてなかった! ノルウェーって事しか」
リカは自分の頭をポカリと叩いた。弟があきれていた。
「最低限聞かなきゃいけない事ってあるよねー」
「うん」
「たとえばメアドとかさ」と弟が宙をみる。
「ん……」
でもリカの心の中に一番に浮かんできた事はなぜか暖炉の事だった。今住んでいるノルウェーの家にも、凍える日にその前で古いレコードを聴けるような、そんな暖炉があるのかどうか、どうしても知りたくて。
〈Fin〉
異国から来た紳士 秋色 @autumn-hue
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