第6話

 シュワシュワと身体にまとわりつく泡が、パチパチと耳元で鳴る音が、今日はひどく懐かしく思える。目を開けば、今日ずっと行きたかった場所が目に映った。

 サイダーのほどよい刺激が、僕の緊張をほぐしてくれた。


「来たんだね、奏多」


 サイダーの海に入るや否や、声が聞こえる。振り返ると、すぐ後ろでファーレが待ち構えていた。仁王立ちの姿勢で、僕と目をあわせてくる。ファーレの青い瞳は一層深みを増し、僕のことを射貫いぬいてくるようだった。

 対して僕もファーレのことをじっと見つめながら、考えて考えてようやく得た結論を口にした。


「ファーレ、やっぱり僕は君から離れたくない」


 それは現実ではあり得ないほど、感情の乗った言葉だった。

 昨夜ファーレに突き放されてから、何度もファーレのことを思い浮かべた。プラチナブロンドの髪を、淡青色の瞳を、幾度となく想像した。

 想像したうえで、気づいてしまった。

 もう僕は、ファーレのいない生活に戻りたくないのだと。

 そして手段を拒んでいるようでは、感情をひた隠しにしているようでは、ファーレと離れてしまうことになるのは避けられないと。


「……」


 ファーレのもの言いたげな視線が僕を貫いた。しかしファーレは、僕の決死の思いを否定することはしなかった。なぜならファーレも、分かっているからだ。

 僕の葛藤と、思いの強さが。

 長い時間、沈黙が続く。ファーレといられる時間が徐々に削れていく。このまま夢から覚めるようなことだけは絶対に避けたかったが、果たしてどうすればいいのか。僕は宙を掴むように策を練る。

 するとファーレが、重々しそうに口を開いた。


「……はぁ。わかった。奏多の気持ちはわかったよ」

「本当!?」

「だけど、まだ納得できないことがある」

「うっ……」


 心当たりは、あった。むしろ心当たりしかなかった。

 けれどそれはどれだけ考えても答えが出なくて、僕には解けなかった問題だった。


「『伝える相手が違う』。『現実を見て』って私、言ったよね。そっちはどうなの?」

「それは……わからなかったんだ。逃げたわけじゃない」


 正直に事実のみを摘み取り伝える。

 どうせ嘘をついたって見抜かれるため、意味がないという理由もあったが、何よりもファーレの前では嘘をつきたくなかった。

 些細な傷も、今では致命傷になりかねないから。

 ファーレは困り顔を浮かべる。それはまるで駄々をこねる我が子を見守る母親のような、収集がつかなくなった教え子を前にした教師のような表情だった。

 耳障りなほどに周囲の音が大きく響いている。一瞬のようで長い時間の末、ファーレは早口になりながらまくしたてた。


「だったら、私がヒントをあげるよ。だからヒントを元に、もう一度挑んでみて」


 ファーレは僕がアクションを起こす前に、ぴっと人差し指を立てた。


「まず、夢の中には基本的に知っている人しか登場しないということ。だから私も、そうたの知っている人がモデルになってる」

「そう、なのか……? でも、知らない人が夢に出てくる場合もあるし」

「たしかにそういう場合もある。でも私に関しては、奏多の知っている人で間違いないよ」


 強い口調で、ファーレは断定した。言われるがままに記憶を探っていく。

 うっすらとファーレの面影を感じる人が、脳裏に浮かび上がった。


「次に、私は奏多の中でどのような立ち位置にあるのか」

「それは、大切な人で、良き親友で……僕の、好きな人で」


 しどろもどろになりながら、ファーレへの気持ちを吐露とろする。ファーレはそんな僕を見守っている。

 だんだんと、ファーレの言いたいことがわかってきたような気がした。


「最後に、そもそもどうして私たちは『サイダーが満ちた海の中』にいるのか」

「……っ」

「これでもう、わかったんじゃないかな」


 はっきりと脳裏に浮かぶのは、プシュという小気味いい音と、『好きだからね』と返すあの人の姿。

 僕の深層心理に、手が届いた。


「……まあ、深層心理がすべてじゃないし、決めるのは奏多だけど。たまには現実でも正直に本音に従ってみれば?」


 パクパクと口を動かすことしかできない僕に対して、ファーレは微笑みながら付け足して言った。

 僕はファーレに身を委ねれば大丈夫だという、安心感を抱いた。そこに根拠はないけれど、信じられる後ろ盾がいることは、僕にとって大きかった。

 タイミングよく、意識が浮上していく。ファーレは僕の肩に手を置くと、そっと僕を押し出した。

 ファーレの笑顔に元気づけられる。サイダーの音が引く。

 最後にファーレが告げた言葉が、反響して聞こえてきた。


「何かあったらいつでもおいでよ、信頼できる相談相手のもとにさ」



「……ぎく……。あつぎ……ん。厚木くん。おーい」

「ん、っあぁ」


 最後に見た光景よりも、少しだけ暗くなった教室で、僕は連城さんに揺り起こされた。

 横を見やると、少し残っていたプリントも束ねられている。僕は大きく伸びをすると、連城さんに向き直った。


「残りの分、やってくれたんだ。ありがとう」

「いやいや。私の方こそほとんど厚木くんにやらせちゃったんだから、このくらいはしないとね」


 僕たちは最初と似たような会話を繰り広げる。前よりかは少し強情に、「でも助かったよ、ありがとう」と返し、僕は話を締めた。

 外では夕焼け空に夜が混じり、月が明るく輝いている。時計を確認すると、あともう少しで下校時刻というところだった。どうやらギリギリまで起こさないでいてくれたらしい。

 本当に頭が下がる思いだった。


「それじゃあ、先生のもとに行きますか。厚木くん、半分持ってくれる?」

「もちろん」


 僕たちは仕分けした書類を抱えると、職員室までの道のりを並んで歩き始めた。


「そういえば、なんでサイダーが好きなの?」

「んー、シュワシュワした感じが心地いいからからかな」

「あー、わかるかも」


 いつもなら聞かないようなことを、僕は思い切って聞いてみる。いつもなら言わないようなことまで、言ってみる。


「僕も好きだよ、サイダー」

「へぇ! そうなんだ」


 一歩づつでも距離を縮められたら。そんな思いを抱くのは初めてだった。どれもこれも、ファーレのおかげなのだろう。

 さわりと風が、僕の顔をかすめていく。

 もうちょっとだけ、このままでいいかもな。

 僕は現実で、まるで夢の中のような思いを抱いていた。

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サイダーと、恋のモラトリアム 夜野十字@NIT所属 @hoshikuzu_writer

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