あの木に花が咲く瞬間を君と

@amanohana

第1話

 あの日は落葉した銀杏がアスファルトにへばり付くような大雨だった。傘が裏返るような暴風で、傘はほとんど意味を成していない。髪から靴までずぶ濡れだった。歩道は車道よりも十センチほど高い位置にあり、雨水はその間の溝に集まりウォータースライダーを下る。私は老朽化が進行して、人影一つ無い坂道を登る。一歩、また一歩と足を進めていた。その時、右足で踏み込んだ地面の感触に違和感を感じた。袋に詰められた小麦粉を踏んだ時に感じるであろう感触で、私は思わず足を後退させた。その時に感じた感触も同じものだった。同時に身体を刺すような重い痛みを覚える。関節が特に酷い。強烈な寒さが身を突き刺したのだ。見渡すと、そこは何一つ無い銀世界だった。


 吹雪が吹く笛の音は切迫した状況を表すようで、一つ吹く度に体温を奪い、恐怖を植え付ける。迫りくる死を目前に控えながら、私には為す術が無く、その場で膝を地面につき、雪の上で身体を縮めるようにして横になる。身体の感覚はかなり麻痺していた。冷え切ったはずの身体は熱さと痛みを訴える。サウナで感じるような暑さとはまた違う、熱湯に入れられた時に感じるであろう痛みとそれに似合わない、風に吹かれているろうそくのような、どこか危なげな暖かさだった。私の温かみを感じ得ない心を物語る皮肉のようだ。流れ落ちる涙がそっと雪を溶かした。


 その時、幼い頃の記憶が眼前に広がる。私は母と父と3人で雪だるまを作った思い出だ。これを走馬灯と呼ぶのだろう。遊び疲れて寝てしまった私を母はそっと抱きかかえて、家まで帰り、温かい布団で寝かした。私を撫でる母の手と父が作る温かいスープの香りの幸せと安心感が全身を包みこむ。少し和らいだ私の意識がその瞬間、ふと途切れた。


 暖かさが私の身体を覆う。花の芳醇が感じられた。死後の世界に来たのだろうか。誰かが私の手をそっと握っている。温かく、優しい手だ。目を開くと、ぼんやりとした視界には椅子に腰掛けた人が居る。白髪の青年の年齢は私と同じ15歳くらいに見える。

「良かった。暫くの間、此処でゆっくりしていくと良い。」青年はそういうと、スープが入っている、木でできたお皿を私に手渡した。父が昔、作ってくれたスープのような香りがする。その時、目頭が熱くなり、ふと視界がぼやけた。それは頬を徐々に伝っていき、そっと白い布団を湿らせる。

「ごめんなさい。」私が謝ると、男は水色のハンカチを私に手渡した。ネモフィラと男の名前の刺繍が施されているようだ。

「謝る必要は無いよ。君の優しさがそうさせたのだから。」男はそう言うと、部屋を立ち去った。同い年とは思えない、品格のある人だ。その青年の名は、桐斗と言った。


 窓には白いカーテンが掛かっており、時間の頃は分からない。机には金庫とネモフィラの花瓶が置かれている。私はその机に食べ終えたお皿を置き、眠りに落ちた。ネモフィラの花が一枚溢れた。


 翌日外に出ると昨日の寒さが嘘のような暖かさだった。台地を覆う降雪は溶けて土を湿らせている。斗亜が嬉しそうに空気を吸う。

「鈴蘭ちゃん、この鍬で土を耕すのを手伝って貰いたい。」今朝教えた、私の名前を呼ばれ、少し嬉しい気持ちになる。そう言うと、斗亜は鍬を手渡した。「何を育てるの?」すると、斗亜が話した。「何も育てはしないさ。ただ、花が育ちやすくなる。幸せの木も芽生えるかもしれない。」

「幸せの木、、?」初めて聞く名前だ。

「幸せの木は育ちながら周りに幸せを振り撒く木なんだよ。やがて花を咲かせ、実を結ぶ。その果実を人は幸運と呼ぶ。幸せの木は、この世界の中央である此処に芽生えるんだよ。」

「外側はどうなっているの?」

「村がある。明日、行こうか。」


 村へ降りると、久しぶりの暖かさに村中が幸せで包まれて、活気付いていた。一通り観光した後、学校を見学させて貰う事になった。「あ! 桐斗兄ちゃんだ!」5人の少年、少女が桐斗を取り囲む。先生らしき人もこちらに歩いてきた。

「また、大きくなったなあ。久しぶりの学校登校か」桐斗が子供達に話しかける。

「そうだよ。ずっと休校で、オンライン授業だったからさ」子供達が答える。子供達は皆明るい髪色をしていた。

「桐斗兄ちゃん、主ってほんとにいるのかな」

「いるさ」

「主がこの世界に降りてくることがあるってほんと?」

「本当のことだよ。迷い込む事がある」

「そっかー。神様が降りてきたら、僕、主と友達になりたい」

「良い夢だな」


「桐斗、久しぶり」

桐斗は微笑む。「陽茉梨は久しぶりの子どもとの対面授業は楽しんでいるかい」

「うん、子供達の顔が見られて嬉しい。こんな天気は1年ぶりだよ。その上、今日は桐斗が会いに来てくれるなんて、僕は本当に幸せだ。村の方には顔を見せた?」薄い黄色の髪をした陽茉梨が桐斗に話しかける。

「見せてきたよ、藤吾じいとも話してきて、その際に藤の煉切を頂いたから、良かったら一緒に食べようか」

子供達と陽茉梨は目を輝かせて大喜びしていた。

「食べる!」子供達は桐斗の身体によじ登りながら応えた。

「嬉しい。藤吾じいが作る和菓子は最高に美味しいからね。昨日も早く会いたいって、大きな笑顔を浮かべていたよ」陽茉梨は大きな声でハキハキと話す。

「藤吾じいは誰をも大歓迎してくれる、この村のお父さんのような存在だ」

「本当に。藤吾じいを知らない人は村中どこを探しても見当たらないよ。そうだ、カフェテリアで食べよう。寒波が押し寄せる直前にリニューアルを終えたものだから新品同然だよ」

カフェテリアには、色とりどりの椅子が並べられており、村中の人が使えるようになっている。

「それにしても、主と友達になるなんて、残酷な話だよ。神様がこの世界に降りて来た場合、1週間でこの世界が消えてしまうんだから」

その時、私は、喉の奥が締め付けられるような感覚に襲われた。世界がモノクロに見える。私はこの世界の主という存在なのかもしれない。確証は持てないけれど、そんな気がしていたからだ。

「主が降りてきても、この世界を終わらせない方法が1つだけある」

桐斗が放つその言葉には、腹を括る時のような芯の強さが感じられる。


この数日間、私は桐斗の家でそわそわしていた。隠し扉があることに気付いていたからだ。そして

中は本棚だった。一冊手に取ってみると私の生まれた頃からの思い出が記されていた。もう一冊の本の文面はカタカナ表記だった。陽茉梨が話していた事が記されている。そして、その下に、桐斗が話していた書紀がある。

 

イケニエヲサズケレバコノセカイハスクワレカミハモトノチニモドルデアロウ

イケニエハアカトリイニサズケルベシ


生贄を授ける事を知るのは、私と桐斗のみだろう。桐斗は自身が生贄になろうとしているのではあるまいか。そんな残酷な予想は的中してしまった。その時だ。桐斗が本を閉じた私を見つけた。

「他に方法を探そうよ」穏和に言う事を心がけたのに、声は震えて、緊迫感がこの空間を突き刺していた。

「ありがとう。その言葉を聞くことが出来るだけで、僕はどれだけ救われるか」

「大丈夫。僕がしていた役割は、あの子達が担う。新しい世代に繋ぐのが僕の役目だ。鈴蘭ちゃん。君と出会えて僕は幸せだった、ありがとう。この世界は君に託す。」

なぜか、この言葉がいつまでも私の胸に焼き付いて離れない。

桐斗の笑顔は触れると壊れてしまいそうだ。

「行かないで。」

 桐斗は下を向き、唇を噛んでいた。掴もうとした私の手を振り払い、走り去る。

 桐斗を追いかけていたはずの足は、気付けばあの坂道を走っていた。


 土砂降りの大雨は数日で止んでいた。人生万事塞翁が馬。

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