九つ、祈りと詔《みことのり》

 ――ぃぃひぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃ


 ナガツカミが鳴いた。笛の音に似ているが、低く、太く、ざらついた音だった。

 ぞぞぞぞと胴体が這い出てくる。先端はまだ洞窟の奥に飲まれて見えない。

 巨体が持ち上がり、倒れ込んでくる。

 フザン達の真上に。

 慌てて跳びすさったその鼻先に、肉塊が地響きを立てて落下してきた。

 巻き上がる砂埃と腐臭。

 さらに天井の一部が割れ砕け、人の頭と大差ない岩塊まで落ちてくる。

 フザンにとっては別に脅威ではないが、抱えた花嫁に当たって死んでしまっては元も子もない。

 さらに大きく後に下がりながら、どうしたものかと思案する。


「大して素早くは無いし、一先ず洞窟の外まで逃走が叶うのなら最善ではあるが」

「馬鹿か、無理に決まってるだろ。連中はこの洞窟の事を胎道と言った。とすればここは奴の腹の中のようなもんだ。間違いなく閉じこめられている」


 間違いなくと言ったのは誇張ではない。

 この洞窟は元はと言えばフザンの領土である。であれば、閉じられている事は感覚で分かる。

 閉じた場を開くためにはまず、土地を奪い返さなくてはならない。

 力尽くで奪い返す事は無論可能だが、問題は花嫁だ。

 力の差こそあれ、この洞窟が神格同士の綱引きの綱になるのだ。引っ張り合いでかかった負荷は恐らく洞窟を大規模に滑落させるだろう。

 ザイレンはどうでもいいが、折角の花嫁までせんべいのように平べったくのしてしまうのは勿体ない。

 蛇体がのたうつ度に狙い澄ましたように落ちてくる落石を避けながら、フザンはちらりと担ぎっぱなしの花嫁の様子を伺った。逃げだそうと暴れられるのも嫌だが、あんまり弱っているなら振り回している間に死にかねない。

 呼吸はしている。上下する鳩尾の感触がある。だが意識は怪しい。目を閉じて、ぐったりと脱力している。

 しばらくは持ちそうだが、どれだけ持つかは見当もつかない。

 フザンは人間の頑強さに関しては詳しくない。個体差が大きく、本当にたいしたことの無い損傷でもあっけなく死んでしまう事があるのを知っている。そこなザイレンのような真逆もたまにはいるが、本当にごく稀だ。


「やるしか無いが、やっぱり図体がデカいな。あまり暴れさせると結局洞窟が崩れかねん。うまくねぇ話だ」

「かと言って一瞬で終わらせられる相手でもない。時間との勝負だな」

「ふむ」


 一瞬考え込む素振りを見せた後、フザンは横目でザイレンを覗き込んだ。 


「一発で仕留める大技があると言ったら、乗るかい?」

「本気か?」

「本気さ。ただし準備に少しかかるし、あんまり激しく動かれると空振りしておしまいだが」

「つまり、俺に囮と足止めをしろと?」

「ああ、無理かな。長引かせると花嫁も巻き込みそうなのが心配なんだが」


 ぐぬぅ、という低い呻き声がこぼれる。先の岩厳霊の件で懲りてはいるのだろう。フザンに対する警戒は間違いなく強まっている。

 だが、花嫁の安全には換えられないと考えるに至ったのだろう。

 低い声で了承を返す。


「……よかろう。だが準備は出来るだけ手早く頼む」

「おお、なるべくお前が喰われちまう前に間に合わせるさ」


 むぐぬ、とまた呻き声がこぼれた。


「では、互いに秩序の諸神の加護ぞあらん事を」

「……」


 フザンはただ皮肉気に笑うだけで答えない。花嫁を担いで後ろに下がっていく。

 それを黙って横目で見送った後、ザイレンはナガツカミに向き直り、その手に握った手鉾を前に突き出して構えた。

 口から、流れるように祈祷の言葉が紡がれる。


「秩序の諸神に願い奉る、事分けては火神に帰命し奉る」


 ぽう、と差し向けた矛先に灯りが灯る。

 赤い赤い、血の池地獄の色をした炎。


「其の無尽の業火もて悪業悪鬼の悉く焼き払い給え」


 炎が溢れ出た。荒れ狂う嵐の川辺のように、地を舐めて飲み込みながらナガツカミに襲い掛かる。


 ――ひぃぃぃぃあぁぁぁぁぁぁぁぁ


 熱の奔流を浴びて、神を騙った怪物が鳴く。だがその声が悲鳴ではなく、ただわずらわしさに上げた疳の虫である事を、ザイレンが一番よく分かっていた。




 ザイレンの奮闘を振り向く肩越しに眺めて、フザンが呆れ半分感心半分に呟く。


「おいおい、思ったよりも随分やるなぁ、あいつ。この後相手するのはちょっと面倒そうだ」


 ちょうどその時、炎の光と熱波に当てられたか、肩の上で身じろぎする気配があった。

 丁度いいとばかりに、フザンは自分達が先ほど潜んでいた曲がり角の傍に花嫁を降ろす。出来る限り慎重に。


「おい」


 そしてその顔を覗き込む。

 見返す花嫁の顔は、あどけない幼子のようで、何処かやつれはてた老婆のようにも見えた。

 だが元々、フザンには人の顔の見分けなどろくにつかない。

 だから気にする事無く、一方的に言いつけた。


「いいか、ここでじっとしてろ。近寄らず、離れずだ。いいな?」


 存外あっけなく、花嫁はフザンの言葉に頷いた。

 無論逃げたとてナガツカミが消えるまでは何処へも行きようがない。消えた後なら、どうせ人の逃げ足などフザンにはあまり意味もない。


「はは、いい子だ」


 だから状況を理解しているかどうかも確かめずに、フザンは笑って花嫁を撫でると、再びナガツカミの方へと向かっていく。

 無論、前で火界呪めいた法術で粘っているザイレンのところまではいかない。

 丁度花嫁とザイレンの中間ほどで脚を止めて、象と蟻の戦いを目を細めて眺める。

 見物としてはそこまで悪くはない。だが、場所と立場がいけない。


「……しばらく留守にしただけの家を空き家と勘違いして勝手に住み着くたぁ、盗人猛々しいじゃねぇか。いや、居直って元の主人に喧嘩を売ってきてんだ。空き巣猛々しいって言葉はあんのかねぇ」


 剣呑な笑みを浮かべて指で印を組み、フザンは詠唱を開始する。


「いむげん、いますげん。おおぎ、はらえ、はばかれ、そかれ」


 想定よりも素早く、ナガツカミが反応した。

 遠く遠く、未だ先の見えぬ尾の続く暗がりの中から、一抱えはあろうという岩石が物凄い勢いで飛び出した。岩はザイレンの脇をすり抜けて一直線にフザンに向かう。

 そして回し蹴りの一閃で砕け散らされた。

 フザンは笑っている。

 次いで先ほどまで影も形もなかったはずの、鍾乳石の如き尖った石柱がフザンの頭めがけて落ちてきた。何本も、しかも自由落下より明らかに速い。

 だが縫うようにかわす。それだけに飽き足らず、一本を蹴り砕いてその破片を蹴り飛ばし、ぶつけて別の一本の落下の軌道を変える。

 フザンは笑っている。


「むげんごうさつ、きらそくめつ、そくめつじざい、ざいじょりっぽうへん」


 ――ひょおおおおおおおおおお


 苛立ちナガツカミと、その背後の洞が一斉に啼いた。


「ぐ、おっ」


 至近距離で受けたザイレンが血反吐を吐いてバランスを崩す。

 風穴の咆吼。肉を腐らせ脳を煮る強力な呪詛。

 後に通すと花嫁に当たるため、フザンは咆哮を正面から受け止めた。服がほつれ、肌のあちこちが避けて黒い血を噴き出す。

 詠唱が止まる。だが。

 フザンは笑っている。

 何も無いように、変わらぬ顔で、笑っている。


「……天に秩序の諸神在りて地に律法の満つるなり。人の集い在る処に創世の摂理の照らすなり。我始原の一音もて、妖し怪しと破邪の破槌とて打ち払わん……」


 静かに、地の底から響くような祈祷の詠唱。

 その声は、フザンではない。


「あぁ!」


 裂帛の気合。そして爆音。

 体を起こしたザイレンがナガツカミに走り寄り、その地面を擦る蛇の皮に手鉾を突き立てる。

 突き刺した場所から爆発的に噴き出した炎がナガツカミの蛇身を焼き、ナガツカミが咆吼を止めて巨大な頭部を岩雪崩のようにザイレンに降り落とす。鉾を突き刺してたまま、巨大な質量に押しつぶされて視界から消えるザイレン。

 それを見届けてから、フザンが止めていた詠唱を再開し、手指の印と共に結ぶ。


「『控えおろう、禁門である』……【閉断顎紮(へだてがくし)】」


 次の瞬間、ごごん、という音を立てて、洞窟がずれた。

 分厚い岩盤の一部が輪切りになって持ち上がり、全方位の壁面にぴしりと切れ込みが入る。

 次の瞬間上下左右、四方八方から捻れながら伸びる鍬の歯のような鋭利な岩塊がナガツカミの巨大な頭部に突き刺さり、ごりごりと音を立ててすり潰し、噛み千切る。

 余りにも無数の岩盤が密集したせいで、洞窟が一瞬完全に寸断され、そして間もなく跡形も無く元に戻った。 

 後には原型を止めぬほどに挽き潰された、元の半分ほどの頭部だった肉塊だけがその場に残る。

 洞窟の奥深くに伸びていた蛇体の影も、押しつぶされていたザイレンの姿も含めて。


 印を解いて、動く物の無くなった方に向けて小首を傾げながら、フザンは遅くなってしまった返事を口にした。


「悪いが、俺は祈らねぇよ。ただ宣うだけさ」

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マンティコア・ハント 功刀 烏近 @Ukon_kunugi

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