今昔浦島

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今昔浦島

 イネハナはとある寒村に生まれた。

 周囲には田んぼと果実畑があり、家は然程小さくなく、親戚や近所の年寄りが代わる代わる顔を出しに来るような環境であった。

 生物が暮らすには十分かも知れない、しかし文明豊かな人類の一員として日々を送るには、やや不便でもあった。

 道路は草木に埋もれやすく、コンクリートが砕けても中々舗装されない。幼い頃は一人で学校へ通う事も難しかった。親の送迎に合わせると放課後は友達と遊べない。時には友人の家族が送ってくれたりで許される事もあったが、それは特別な場合でしかない。

 全てが不満だった訳ではない。家族や親戚に囲まれているのは気楽であったし、年寄りは子供に甘かった。野山を一日中歩き回るのも子供にとっては楽しい事であった。

 けれども年齢が上がるにつれ、視界は広がり周囲との環境の違いを感じる場面は多くなる。そうなれば欲求も大きくなっていく。

 自分を良く知る大人ばかりに囲まれている状態にも窮屈さを覚え始めた。誰かの些細な言動が心と価値観を変えていく。

 市町村の吸収合併が繰り返される中での村生まれ。それは若者にとってある種のコンプレックスとなった。



 大学進学となり、イネハナは都会を目指した。

 具体的にそこで学びたい何かがあった訳ではない。ただ田舎に居たくないという一心であった。幸い学力に関しては問題がなく、金銭面でもどうにか目処が付きそうであったので勢いのままに村の外へと飛び出した。


 実のある都会の忙しなさは、青年にとって悦びであった。

 不慣れによる労も多かった。しかし目新しさと一人になって得た自由はその苦痛を補ってなお余る程価値を感じさせるものであった。

 成人年齢を過ぎればやれる事は更に増え、冒険心と好奇心、また或いは欲望や野望のままにありとあらゆるものに手を出した。

 経験はイネハタを都会的に洗練させ、立ち振る舞いや言葉遣いさえも変えてみせた。かつての同級生に会えば驚かれる程であった。

 昼夜を問わず走り回り、それでもなお時間は足りない。一日はあまりにも短かった。


 そうこうする内に一年、五年、十年と時は重なりいつの間にかイネハタは青年、壮年とは呼べない年になっていた。

 経済的には良好であり、多くの友人や仕事仲間に囲まれ暮らす日々。しかし年齢を重ねたせいか、ふとした瞬間靄のようなものが心を覆う事も増えた。

 碌に顔も合わせない両親は一見元気そうに見えても年々言葉のやり取りに危うさを感じるようになった。葬式後に亡くなった事を知る親戚も多くいた。

 年近い同僚の死に目に遭い、かつて憧れた年上の芸能人がめっきり老け込んでいる事実に気付く。

 自らを生きるばかりでここまで来たが、友人は家族に囲まれ家を持ち、自分とは全く異なる社会を生きているのだと、何気ない会話の齟齬で知らされる。


 自分は自分、他人は他人。人それぞれであり決して自分は不幸ではない。そう知っていてもなお、選ばなかったものの輝きが眩しく見える事がある。


 気が籠って仕方がない。そんな日は煌びやかな店へ向かい、友人や女と共に酒を飲み騒ぐ。

 豪奢な装飾で飾られた店内、高価で旨い飯、そうそうお目にかかれない希少な酒、並ではない肩書を持った男達に着飾った美しい女達。

 カメラで切り取れば多くの人間が羨み目を見張るような写真が出来上がる。


 社会的成功者達が作り上げた楽園の中で笑い合う。その傍で不自然にはしゃぐ若い女の姿を見ていると、ふとかつての幼馴染を思い出す。

 姓名を漢字で書けないどころか、苗字そのものが思い出せない。カノと呼ばれていて、イネハタもそう呼んでいた事だけが確かだ。

 カノは恐らくここにいる誰よりも不細工であろう。目は小粒と言っても良い程で頬周りには肉があり、全体的に丸っこい印象が強かった。当時のクラス内で比べてみても痩せたり洒落たりしている部類には入らなかった。

 基本的には大人しい性格だったと思う。しかしふとした事で感情的にもなりやすく、怒りで興奮すると甲高い声を出すので聞いていて不愉快だった。

 頭が良い方でもない。酷い欠点はないが取り立てて褒められる点もない。地味で目立たたない少女だった。

 家が比較的近いと言えるが故に、自転車を転がしながら同じ道を歩く。ただそれだけの関係であった。それが何となく、周囲に付き合っているというような印象を持たれていた。雰囲気に流されて道を歩く時の距離が近くなり、一度だけでなく手や肩に触れた事もあった。


 真冬になれば寒さでカノの顔は白くなり、頬だけがいつも赤らんで見えた。

 その日は、ふと手の甲で触れようとしたのだった。

 手袋の解れがかさついた皮膚を引っ掛けてしまい、カノが小さく呟いた「痛い」という声は何故か未だ記憶に強く残っている。。そのまま惹き付けられるように唇に触れようとした時、今までに見た事がない程動揺し怒り狂ったカノの姿を見た。

 あまりの勢いに飲まれ呆然としたものの、段々と腹が立っていった。そこまで過剰な反応をする程の関係であったのかと。まるで裏切られたような気分であった。


 冷静になればただ空気に流されただけだ。お前が女で俺が男であったから、欲に目が眩んだ。それだけだ。

 許されなかった事が許し難く、カノの全てが憎たらしく思えた。

 そうして喧嘩に発展し、最終的にカノは泣いた。そして何もかもが醒めた。


 良い思い出とは言えない。

 人生の中で、あの瞬間以外カノを想う事も恐らくない。

 だが。けれども。

 一切後悔がないともまた言えないのだ。


 例えばあのままカノと付き合い続けていたならば。

 何もない田舎でカノと結婚をしていたならば。

 そうでなくとも、せめて友人として関係を維持していたのならば。


 その時の人生は一体どういうものであっただろう。

 素晴らしかっただろうか、それとも下らなかっただろうか。或いは、今の様に中途半端な想いを抱えて妄想を広げているかもしれない。


 今更言っても仕方のない話だ。分かってはいる。

 だが。けれども。


 深夜を越え、空気に疲労の色が混じり、彩っていた筈の化粧が崩れてゲジゲジの足のようになった女の目元を眺めていればあの時のカノの心情も理解は出来る。


 ただ純粋に、単純に「お前が好きだ」と言ってやれれば良かったのだ。

 それだけの事が人生を変えていたかも知れない。変えていなかったかも知れない。



 可能性の棘が刺さった心を持て余しながら煽った酒の味は濃く、ジリジリと喉を焼いた。

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