天使を見た爺

蟻喰淚雪

天使を見た爺

 ぼくの町に頭のおかしい老人が住んでいた。

 口癖のように、おれは天使を見たんだ、なんて言うもんだから、人からは「天使を見た爺」と呼ばれていた。

 ぼくが物心ついた頃には既にそう呼ばれていたのだから、つまり、ぼくが物心ついた頃には既に正気ではなかったのだろう。

 老人は売れない画家で、四六時中アトリエに篭ってキャンバスに向かっていた。

 売れない、というより、そもそも売る気などはなかったのだろう。

 なにせ、彼の絵はすべて未完成なのだから。

 ぼくも絵描きの端くれなもので、老人の絵がそれはまあ大したものだという事はわかる。

 それもそのはずで、老人は食べるも寝るも忘れたように、一日中……。

 これは決して誇張でもなんでもないんだ。

 一日中、絵筆を握っているのだから、その技の磨かれたるや、いかばかりかは推して知るべしといったところだろう。

 それでも、どんなに技巧を凝らした絵だって、未完成じゃあ価値のつくはずもない。

 老人の絵は、どれもこれも肝心要の真ん真ん中の部分が空白になったまま放り出されているのだからね。

 ぼくは一度、老人に言った事がある。

 一枚くらい、描き上げたらいかがです。きっといくらかにはなりますよ、ってね。

 彼が答えて言う事には、未完成のものなど一枚もない、ただ、全て失敗作だ、と。

 職人気質もあそこまでいくと病気だね。

 いや、そんな高尚なもんじゃない。

 ぼくに言わせりゃ、とどのつまり、彼は作品を完成させる意気地がないんだ。

 完成させてしまって、出来上がったものが実のところ大したものじゃあない、と思い知るのが怖いのさ。

 そういう気持ちは、まあ、ぼくにもわからないじゃあない。

 だから、ぼくが彼の絵について、それ以上どうのこうのと言う事はなかったし、そもそもそういう筋合いの間柄でもない。

 ただ、少しもったいないな、と思うだけだ。

 ある日、ぼくのもとに訃報が届いた。

 彼が――天使を見た爺が亡くなったそうだ。

 正直なところ、死を悼むような間柄でもないんだけどな、って思った。

 だって、ぼくはその時に初めて彼の名前を知ったくらいなんだから。

 彼の家を弔問すると、生前には乱雑に散らばっていた画材が申し訳程度には片付いていた。

 放り出されていた描きかけの作品群も、きれいに重ねられていた。

 それは今すぐにでも縛ってまとめて捨てられてしまいそうで、乱雑に打ち捨てられていた時よりも、よほど誰の興味も引かないように思えた。

 生前、老人が最後に描いていた絵は、イーゼルに載せられたまんまに布が掛けられている。

 誰もその布を取り払わないところを見ると、本当に誰一人として、彼の絵になど興味はないのだろう。

 ぼくはそれが無性に淋しくなって、その布を引っぺがしてやった。

 老人の最後の絵も相変わらずの未完成で、その真ん真ん中には、これもまた相も変わらずの空白があった。

 人生最後の作品が、これじゃあな。

 せめてぼくだけはその作品をしっかり見てやろうと思って。

 その時、はじめてぼくは気付いたんだ。

 その空白が、決して空白じゃあなかった、って事に。

 空白のように見える真っ白の部分には濃淡、何色もの絵の具が厚く塗られていたんだ。

 ぼくは目を擦って何度もその絵を見たよ。

 だって、おかしいだろう。

 何色も絵の具を重ねているのに、真っ白だなんて。

 こんなに色を重ねてちゃあ、何色になるかなんてわかったもんじゃあないけれど、真っ白なんて事は絶対にないはずだろう?

 しかも、ただ白いなんてもんじゃあない。

 眩いばかりの光に包まれて先が見えないような、この世のものとも思えないほどの白なんだ。

 お天道様をずうっと見ていたら、その目は光を結ばなくなるというけれど、そのなんにも見えなくなった世界に射す光。

 この世界のありとあらゆる色を紡いで織りなされた、極彩色の白なんだ。

 ぼくはその白から目が離せなくなってしまって、魅入られたようにその絵の前に立ちつくしていた。

 花を手向けてやってください。

 その声でぼくは、はっと我に返って。

 老人の棺に、一輪、花を手向けた。

 棺の中で眠る老人の顔は今までに見た事がないほど穏やかで、祝福されて天の国に召されるのだと思えた。

 なあ、おれは天使を見たんだ。

 成し遂げたような老人の微笑が、ぼくに語りかける。

 今なら、彼の言葉が、ぼくにはわかる。

 ぼくは今日もキャンバスに向かっている。

 何色もの絵の具を、幾重にも塗り重ねて、描き上がる事のない絵を、ずっと描いている。

 ぼくがおじいさんになるまでかかっても、この絵が描き上がるかなんてわからない。

 何度も、何度も。

 ぼくはこの絵を、描けるまで、描き直す。

 いつか誰かが言うだろう。

 一枚くらい、描き上げたらいかがです、と。

 それでもぼくは構わない。

 だって、言えやしないと思わないか。

 ぼくは天使を見たんだ、なんて。


 祝福は、きっと呪いに似ている。

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