第8章:「逆転の雷鳴」
暗く湿った下水道の通路を、サラとミアは息を殺して進んでいた。二人の足音さえ、ほとんど聞こえない。サラの完璧な記憶力と空間把握能力が、彼女たちを導いていく。
「あと300メートルで出口。警戒レベル:最大」
サラの低い声に、ミアは無言で頷いた。彼女の手には、小さな装置が握られている。それは、彼女が密かに準備していた最後の切り札だった。
突然、遠くからサイレンの音が聞こえてきた。二人は立ち止まり、耳を澄ませる。
「パトカー:3台。接近速度:時速約60キロ」
サラの分析に、ミアの表情が曇る。
「予想より早いわ。急がないと」
二人は、さらに速度を上げて進んだ。しかし、運命はそう簡単ではなかった。下水道の出口付近で、二人はついにイザベラたちに追いつかれてしまう。
「もうおしまいだよ、お前達!」
イザベラが銃を構えながら近づいてくる。その目は、完全な狂気に支配されていた。周囲には、数名の警官が配置されている。完全に包囲された形だ。
ミアは、小さく息を呑んだ。しかし、彼女の目に恐怖の色はない。むしろ、決意に満ちていた。
「サラさん、耳をふさいで!」
叫びと共にミアは持っていた装置のスイッチを押した。
周囲に仕掛けられていた「仕掛け」が次々と作動した。まず、耳をつんざくような高周波音が響き渡る。警官たちが思わず耳を押さえた瞬間、閃光弾が炸裂した。それらは先ほどミアが下水道を歩きながら「準備」していたものだった。
まばゆい光が空間を埋め尽くす。それと同時に、濃い煙幕が辺りを包み込んだ。イザベラたちの視界が完全に奪われた瞬間だった。
「対象の視界ゼロ。聴覚も一時的に無効化。行動開始」
サラの冷静な声が響く。彼女は、この混乱の中でも完全に冷静さを保っていた。煙の中を縫うように、サラは素早く動いた。その動きは、まるで煙の中に溶け込むかのようだった。
イザベラは、パニックに陥っていた。
「くそっ! どこだ! ミアはどこだ!」
彼女の叫び声が、混乱の中に響く。しかし、その声は突如として途切れた。
サラの一撃が、イザベラを捉えたのだ。完璧な精度で放たれた弾丸は、イザベラの銃を粉砕する。金属が砕ける音と共に、イザベラの悲鳴が上がった。
このサラの正確無比な狙撃は明らかな警告だった。
すなわち、この銃のように、イザベラ本体もいつでも容易に破壊できるのだ、と。
「警部!」
若手警官の声が響く。しかし、誰も状況を把握できていない。煙と閃光の中、すべてが混沌としていた。
数分後、煙が徐々に晴れてきた。そこには、イザベラが倒れており、周囲の警官たちは呆然としていた。イザベラの銃は、無残にもばらばらに床に散らばっている。
「警部! 大丈夫ですか!」
若手警官が駆け寄るが、イザベラはもはや立ち上がる力もない。彼女の目から、狂気の色が消えていった。代わりに、そこにあったのは深い虚無感だった。
彼女はただ茫然と焼け爛れている自分の右手を凝視していた。その姿はまるで人形のようだった。
一方、サラとミアは、混乱に乗じてその場を脱出していた。二人は、予め決めておいた場所で合流する。
ミアは安堵の表情を浮かべ、サラに寄り添った。
「終わったのね」
サラは静かにうなずいた。
「肯定。しかし、これは新たな始まりでもある」
二人は、夜明けの空を見上げた。新しい一日の始まりだ。サラの目に、かすかな感情の輝きが宿っていた。それは、彼女にとって初めての経験だった。
「感情の揺れ:検知。分類不能」
サラの言葉に、ミアは優しく微笑んだ。
「それは、きっと安堵と希望よ。私も同じ気持ち」
街には、まだ混乱が残っていた。パトカーのサイレンが遠くで鳴り響き、ヘリコプターの音も聞こえる。しかし、狂気の渦は過ぎ去り、人々は少しずつ冷静さを取り戻し始めていた。
「次の行動プラン:必要」
サラの言葉に、ミアは頷いた。
「ええ、まだやるべきことがたくさんあるわ。イザベラ警部の犯罪を証明して、私の潔白を晴らさないと」
サラとミアの前には、まだ多くの課題が残されている。しかし、二人ならきっと乗り越えられるはずだ。サラの卓越した能力と、ミアの天才的な頭脳。そして、二人の間に生まれた絆。
サラは、ミアの手を取った。その仕草に、もはや躊躇いはなかった。
「行こう」
サラの言葉に、ミアは笑顔で頷いた。
「ええ、一緒に」
二人の新たな旅立ちが、今始まろうとしていた。朝日が街を照らし始め、新しい一日の光が二人を包み込む。
サラは、この温かな光の中で、自分の中に芽生えた新しい感情を探ろうとしていた。それは、彼女にとって未知の領域だった。しかし、ミアと共にいることで、その探求が恐ろしいものではなく、むしろ興味深いものに感じられた。
「感情の分析:継続中。しかし、優先度は低下」
サラの言葉に、ミアは小さく笑った。
「そうね。今は、目の前のことに集中しましょう」
二人は、朝日に照らされた街を歩き始めた。その姿は、まるで光の中に溶け込んでいくようだった。
(了)
【百合アクション小説】静寂の狙撃手 ―感情を知らない女性と愛に飢えた天才少女― 藍埜佑(あいのたすく) @shirosagi_kurousagi
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