第29話

 その日は、何の変哲もない普通の日だった。

 空は雲一つない快晴でもなく、雨垂れがぽつぽつ垂れそうな曇天でもない。いつもと同じ何でもない日。

 けれど、銀虎はなぜか胸騒ぎがした。


 眺めの悪く、朝陽も全くと言っていいほど差さず、「これでは陽が見えぬな…当たることなどできようもない」とノックもせずに不意に入ってきたビビアーナが二度と入ろうとしなかった自分の部屋、昨夜急にビビアーナが二度目の来訪をしたときから、嫌な予感はしていた。

「ゴンスケに夜のいとまの挨拶をしておらなかったことを、ふいに思い出してな」

 そんなことを言って、ベッドの横のカーペットでぐーすか惰眠をこいているゴンスケのもこもこした毛をひと撫でしてすぐに去っていったビビアーナ、何か声を掛けようとも思ったが、言葉が出てこなかったのだ。


【明日、明日の朝、話せばいいか…早く、早く起きて…どうせビビはいつものように遅くまで寝てるんだろうし】

 そう思って眠りに就いたが、何故かその夜はここ数日の寝苦しさと違い、ぐっすりと深い眠りに就いてしまった。

 海に行ってはしゃいでエネルギーを使ったせいか、ビビアーナがあんなに拒否していた銀虎の血を久々に飲んだせいなのかもしれない。

 飲んだ、そう、いつもならひとなめのところを、ビビアーナは昨夜一口ほど飲んだのだ。


「お前、ずっと絶食状態だろ、苺ジャムも食わねぇし、何か知らんけどお前が吸った後の唇の切れたとこってすぐ治るしさ、遠慮すんなよ」

 銀虎のそんな言葉に、ビビアーナは珍しく従ったのだ。

「そうか、悪いな」

 そんな素直な態度も、どこかおかしいと銀虎の本能は伝えていたというのに。

 問い詰めるのが怖かったのかもしれない、自分は逃げていたのだ。

 銀虎の嫌な予感通り、いつもならごろりとベッドに大の字になって、「ほら、そろそろ学校の支度だぞ」と言っても「まだ…まだよいであろう」と起きようともしないビビアーナの姿はそこにはない。

 そして、銀虎がいくら言ってもくしゃくしゃのままだったベッドシーツが、ビビアーナなりにそれなりに綺麗に整えられていた。


「ビビ、ビビ、一体どこに行っちまったんだよ」

 慌ててリビングへと階段を駆け下りても、ソファでだらしなく寝そべりゴンスケの毛をけだるげに撫でているあの銀髪の少女の姿は、やはりない。

 ふと目をやった結露した窓ガラスに、何やら文字が書かれているのが目に入った銀虎は慌ててそこに駆け寄った。

 しかし、simulacre (まがいもの) ビビアーナの指で書かれたであろうその意味が銀虎にはさっぱりわからない。


「しみゅ…なんだこれ…どういう意味なんだよ、わけわかんねぇ…」

 あたふたとする銀虎の足元に、「くぅーん…」いつになく寂しげに鳴くゴンスケが体を摺り寄せてきた。

「何だよ、ゴンスケ…遊んでほしいのか?でも、今それどころじゃ…あれっ、何だこれ」

 家の中では外しているゴンスケの首輪、その代わりに付けられているのはビビアーナが「ピーナッツ時代につけてたやつなんだけど、うちにはもう可愛すぎちゃってね。でもずっと捨てられなくてとっておいたの。ビビちゃんに似合うから良かったらもらってやってね」とまゆに結んでもらってから愛用していたしていたピンクの天鵞絨のリボン、手に取ってよく見て見るとその端に何かが結ばれている。


「これ…ビビの仕業か?」

『まきこんですまぬ』幼い子供のようなたどたどしいひらがなで書かれたその文字、喋れてもこの地の書き文字がどうにも習得できぬと必死で練習していたひらがな、それは確かにビビアーナの筆跡だった。

 小さく小さく折りたたまれ、ゴンスケの毛に埋もれていたその手紙ともいえぬようなビビアーナの残した言葉、見つけてほしかったのか、欲しくなかったのか。


「何だよ、これ、何なんだよビビ、俺、何にも聞いてねぇ、お前から何にも聞いてねぇんだぞ…まだ」

 家を飛び出した銀虎は走った。ぜいぜいと息を切らしながらあの公園へ、彼女がじっと陽に燃えつくされ消えるのをただ待っていたあの場所へ、けれどそこにもビビアーナはいない。

「ここ、じゃねぇのか…良かった、いや、良かったのか?」

 銀虎はバイクにまたがり、あてどなく走る。


【記憶が戻ったのであろうあの日から、ビビの様子はおかしかった。でも俺は何も聞かなかった。いや、訊こうとしなかっただけだ、まだ落ち着かなくてビビが苦しいだろうから、尋常じゃねぇ、深い事情がありそうだから、いつか、そのうちに話したい時が来たらそれを黙って聞けばいい、だからあえて自分からは何も聞かない。そう思いやっているようなつもりでいた、でも、俺は知りたくなかったんだ。この穏やかな日常を、当たり前のようになった日々を壊したくなくて、失いたくなくて、目を背けた、逃げていただけだったんだ】


 烏の消えたシーンと静まり返ったお馴染みの道路、銀虎は真っすぐな道をただひたすらに走る。

 まるで太陽を追うように、真っすぐ、真っすぐに、彼女が最後に楽し気に笑うのを見たあの場所へ。


 たった数日前、一年一組の皆ではしゃいで笑いあったあの海、冷たくしめった砂に足を取られつんのめりそうになりながら前へ進むと、海の向こう側の太陽へと小さな炎が進んでいくのがかすかに見えた。

 まだ太陽は煌々と燃えて照り付けてなどいないというのに、その炎はそれを追いかけながら、静かに静かにでもその火を決して絶やすことが無い。


「やめろ!やめてくれ、燃えないでくれ!やめろー!!」

 炎に向けて声のかぎりに叫びながら、銀虎は冷たい塩水の中へとずぶずぶと足を踏み入れていく。

 泳げない、泳ぐことが出来ない。けれど、そんなこと今は考えてなどいられないのだ。

 そんな場合ではないのだから。

 先へ、先へと、手を伸ばす、けれど、まだ届かない。

 届けない、でも、あきらめるわけにはいかない。

 ごぶごぶと塩辛い水が口をいっぱいにする、息が出来ない、けれど…

 奥に見えるその背中が、炎に包まれたその小さな背中が、震えているように見えたから。

「助けて」って声にならない声で叫んでいるように見えたから。

 銀虎は水を乗り越えて、再び炎の中に飛び込んだ。


「巻き込んだのは俺の方だ!俺がお前の炎に飛び込んで身勝手にこの世界に引きずり出した!そのことを謝らなきゃいけねぇのかもしれねぇ、お前がずっとやろうとしてきたことを邪魔しちまったってことになるんだろうだからな、でもな、俺はぜってぇ謝らねぇぞ!だってちっとも後悔なんかしてねぇからな!お前をこっちに連れて来たこと、一ミリだってやめときゃ良かったなんて思ってねぇし!だから、お前も俺に謝るな!でも、悪ぃとか思うなら俺にもうちょっと付き合え!戻って来いよ!勝手に消えようとなんかするんじゃねぇぞ」

 捕まえたと思った水の中でしがみついた炎の中の背中はあのときの冷たさのない、どこかぬくもりの感じられるような、しかしやはり震えているようで、でもその震えはさっきまでよりどこか楽し気なリズムに感じられた。


 苦しかっただろう。

 消えたかっただろう。


 それでも それでも 聞きたいんだ。

 君のその瞳に、映る世界は美しかったですか ちょっとでもほんの一瞬でもそう思えましたか。

 肚の底から笑って、楽しいって、生きたいって、そう思えることは出来ましたか?


 銀虎の想いは声にならず、炎の熱のせいか少しぬるい塩水をごぶごぶと吸いながら真っ暗な意識に沈みこみこみそうになる。

 その暗闇に落ちる一瞬、からからとした笑い声が頭上に響いた。


「馬鹿じゃな」



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ビビアーナ三世は燃え尽きたい くーくー @mimimi0120

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