第4話 エピローグ

 それから9ヶ月の時が過ぎ、僕は相変わらず同じ会社に勤めていた。春間近のある日、朝のラッシュの電車のつり広告に僕は週刊誌の記事に彼女の名前を見つけた。その広告は、つり革につかまり、周囲の乗客に圧されながらもまだベッドに居るという夢の中へと落ちかけていた僕の脳を一撃した。

「奥田早紀:癌の転移で緊急入院へ」

 会社のある駅の三つ手前で電車を降り、その駅のキオスクで僕は週刊誌を買った。その記事には彼女がその前の年の六月子宮頸癌で手術をしたのだということ、そしてその癌が今になって肺に転移をしたということが淡々とした文調で書かれていた。

 つまり、あの日、あの・・・七夕の日、彼女は退院したばかりの体をおしてクラス会に顔を出したのだ。

 クラスの誰にもその事実を知られることなく。


 散々悩んだ挙句、僕は岡野に電話をすることにした。あいつなら、連絡先を知っているだろう。まさか癌を発病した同級生に悪心あくしんを抱くこともあるまい。岡野はだらしないクズだが、病気のクラスメートを踏みにじるまで腐ってはいないと僕は思った。

 その日、家に戻ったのは10時近かった。家に電話するのはちょっとはばかられ、僕は岡野の携帯に電話をした。呼び出し音が3回して電話を取る音が聞こえた。

「もしもし、岡野か?」

 問い掛けた僕の耳に

「あ、西尾君だね」

 女の声が返ってきた。西尾君?

「そうですが・・・」

「誰だと思う」

「岡野さんの・・・電話ですよね」

「朝倉だよーん」

 僕は驚いて携帯の画面を見返した。そこには確かに「岡野」と表示されている。なぜ、朝倉が出るんだ。それもこんな時間に?

「びっくりした?」

 か細い声が耳から外した送話器から漏れてきた。もう一度受話器を握り直すと、僕は

「ああ、少しね。岡野は一緒?」

 と尋ねた。

「今、ちょっとおふろ」

「・・・」

 ちょっと・・・おふろ?

「どうして、一緒にいるんだって思っているでしょ」

「・・・まあね」

「あの日、以来だよ」

「あの日?」

「うん、同窓会が終わった日。一緒にホテルへ行ったんだ」

 朝倉の言葉は得意げと言うよりサバサバしたものだった。それが結局、あるべき道だったと主張しているかのように。

「・・・」

 なるほど。あの日岡野は既にホテルを取っていたんだ。その上で蒲田佐知に「泊まっていけ」と誘ったのだ。それが不首尾に終わったから朝倉を誘った。たぶん僕がタクシーを待っている間に・・・。

 そのことを朝倉は知っているのだろうか?蒲田のために取った部屋で自分が抱かれたことを。だが、それを朝倉に言ったとして何になる?それに・・・それを言ったとしても朝倉は平然としているような気がした。彼女にとってはそれが有るべき道なのだ。例え何があろうと。

 岡野がその次の日、学校でぼやいていたことを僕は思い出した。赤字になったのはそのせいだろ?と僕は内心毒づいた。ちゃっかり前日朝倉と言い思いをしていたくせに。僕から3000円をせしめたわけだ。

 そして、その情事のためだけに僕は奥さんと1時間半、たわいもない話をさせられたことになる。

 奥さんにとってはもっと屈辱的な話だ。


 「バカ、何で人の電話に出ているんだ」

 岡野の焦った声が携帯の向こうから聞こえてきた。風呂上がりその姿を想像して僕はげんなりした。

「だって・・・西尾君だよ。携帯の画面で西尾って出ていたから取ったんだよ」

「相手が西尾だろうが誰だろうが、人の電話に出るなよ」

 岡野にしてはまともな意見だった。人間がまともじゃなくてもまともな意見は言えるときがある。

「西尾・・・」

 受話器の向こうから低い声がした。

「そうだ」

 僕は素っ気なく答えた。こちらから電話をしたのが今となってはしゃくにさわっていた。

「蒲田のことか。あいつ癌だったんだって?」

 岡野は変わらず低い声で訊ねた。

「ああ、その積もりだったが・・・もう、いい」

「すまんな。わかっただろ。そういう訳なんだ」

 そういう訳・・・か。連絡先を聞いて、一緒に見舞いに行かないか、とも誘うつもりだったが、そんな気持ちは雲散霧消していた。

「女房とは別れることにした」

「うん」

 あの日、僕に味噌汁をよそってくれた岡野の奥さんの荒れた手の肌を思い出した。

「悪かったな、邪魔して」

 儀礼上、そうは言ったが内心は早く会話を終わらせたかった。そうでないと、取り返しのつかない言葉が口をついて出そうな気がした。

「邪魔か・・・。たしかに」

 岡野は薄く笑った。微かに自嘲の色が混じった笑いだった。

「ねぇ、早くぅ」

 受話器の向こうで朝倉の甘えるような声がした。

「じゃ、また」

 そう言って僕は電話を切った。きっと「また」は永遠にやってこないだろう。


 だが、そうするべきではなかった。何としてでも僕は彼女と連絡を取るべきだった。例え、それが彼女の運命を変えることが出来なかったとしても・・・。後悔しても仕切れなかった。


 それから一月たったある月曜日、僕は朝食を用意しながら付けっぱなしにしておいたテレビの朝のニュースで「奥田早紀」という名を耳にした。焼いたパンを口に咥え、テーブルに戻る途中、テレビに映ったテロップを見て僕は衝撃の余り立ち尽くした。


 彼女が死んだ・・・。

 二日前の朝、奥田早紀は病院のスロープから墜ちた。一人で朝、車椅子で行ったスロープの高さは僅か3メートル。そこから墜ちて、意識を取り戻すことなく、彼女は天上に召された。所轄の署は「事故、自殺の両面から調査」している、とニュースは伝えていた。

 自殺?パンが床に落ち、中に挟んだハムとレタスが弾けて飛んだ。

「うそだ」

 ならば・・・事故?

「そんな筈は・・・」

 僕は呟いた。幾らなんでも病院のスロープでそんな事故が起こるはずがない。ましてや彼女の入院した病院は都内屈指の有名な病院だ。

 だが、画面は彼女が墜落した、病院のスロープを、そして生きている彼女が歌っている姿を執拗に映しだし続けた。どちらかが真実なのだ、そしてどちらかのみが真実なのだと、僕の心をえぐるように。


 それから一月が経ち、僕は妻と正式に離婚した。子供の養育費は20歳になるまで払う代わりに月に2度、会うことで合意した。

 人生の大半は誤った行動、結論に対する罰でできている。恐らく僕は誤りを犯し、周りに迷惑をかけ、その対価を払うことを要求されているのだ。辛いが、せめて犯した罪に対する罰を忍ぶくらいはするのが正しい姿なのだろう。

 細かな打ち合わせや、書類の確認で忙殺されたため日曜や休日は殆ど自由にならなかった。養育費の支払いを考えると会社を辞めることも暫くはできそうにない。その支払いが終わるか、或いは条件の合う転職先を見つけるまでの間、ナットはネジに合わせざるを得ないようだった。


 彼女が亡くなって半年が経ち、東京に初めて木枯らしが吹いた日、久しぶりに何の予定もなかった土曜日に僕は彼女が亡くなった病院に足を伸した。彼女が亡くなった場所はしばらくの間報道陣や、彼女のファンが入り込み、その対応で規制が掛っていた。その名残で病院は見舞客を入り口で選別していた。

 いや、実際はその日僕に予定がなかったわけじゃなく、僕はその病院にたまたま入院した大学の友人を見舞うことにしていたのだ。事前に予約し、カードを受け取った僕は花束と果物を手に抱え、彼の病室に向かった。

「元気か?」

 僕の問いに友人は

「入院している人間に元気か、ってきくのもなんだかなぁ」

 と笑った。でも、彼は良性腫瘍だと診断されたばかりだった。その連絡を貰った時、僕は彼が辞退するのを押して、無理矢理見舞いにくることにしたのだ。久しぶりに会いたいと言って。それは、嘘ではなかった。

「なんだか、何度も検査をされてさ。そのたびに覚悟をしなけりゃならない。そっちの方がしんどかったよ」

 そう言ってまた彼は快活に笑った。それは生き残ることの出来た人間の笑いだった。

 帰り際、僕は彼女の墜ちたスロープのすぐ脇に佇んだ。彼を見舞いたいというのは嘘ではなかったが、もしこの場所に来ることがないならば、敢て見舞いには来なかっただろう。

 スロープは閉鎖され、近くに人影はなかった。彼女の命を奪った場所は今となっては余りに平凡で、余りに寂しかった。その景色を眺めながら、僕はふと思った。

 彼女がスロープから墜ちたのが自殺なのか、事故なのか、そんなことは実はどうでもいいんだ、と。彼女がここにやってきたとき、彼女の手を取っていてあげる人が必要だっただけなんだ。もしそれができないのなら、せめて彼女が墜ちたとき両手を広げて彼女を受け止めてあげる人がいなかった事が問題なんだ。

 それが仲間であろうと、彼女と一緒に仕事をしていた人であろうと、病院の人であろうと、ファンであろうと、昔の同級生であろうと。

 そして僕もその一人なのだ。

 あんなにたくさんのファンがいて、仕事の仲間が居て、高校や大学の同級生がいて、それなのに彼女には1番必要なときに彼女の手を握っていてくれる人がいなかった。彼女の痩せた体を受け止めてくれる人が居なかった。それが彼女の悲劇だったんだ。

 耳につけたイヤフォンからは彼女の歌声が流れてくる。

「“ひとりにしないでね”って、素直に言えなくて」

 悲鳴のようなその言葉は、だけど、驚くほどに落ち着いた声で鼓膜に響いた。


 白いスロープの上には澄んだ青空が広がっていた。だだ広い青空が広がって、一つだけ浮かんだ雲が視界で滲んでいった。


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オマージュ 西尾 諒 @RNishio

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