4.成り代わり

 ソレの顔を見た瞬間、弥生は訳もわからず、その場を逃げ出していた。

 ソレを追い越し、旅館の玄関へと走るとそのまま素足で外へと飛び出す。旅館前に敷き詰められている石畳を走り抜け、旅館前の木々の間に飛び込んだところで、足がもつれてドッと前へと転んでしまった。

「は、はっ、はぁっ」

 地面に手をついて、荒く呼吸をする。

 足裏がひりひりと痛むし、転んだ際にすり切れたのか膝もじんじんとする。

 おそらく、今の弥生は泥だらけになっていることだろう。それが惨めに思え、更には今しがたこの目で見たことに対する恐怖と混乱と、どうしてこんな目に遭うのかという理不尽さで、ついに弥生の心は限界を越えた。

「はぁっ、はぁ、う、うう、ううう」

 一度涙が零れてしまえば、後は自制が効かなかった。全身から力が抜けてその場に座り込み、目からはぼろぼろと涙を流しながら、しかし泣く元気すらもない弥生はただ嗚咽を零す。


 先程見た、あの顔は、間違いなく自分自身だった。

 アレは、スマートフォンを呑み込んだ際に、弥生に繋がる縁を喰った、と言っていた。おそらく気絶した女将からも、弥生に関わった際の縁を抜き取って喰ったのだろう。あの掴んで口に放り込む動作が、きっとそうだ。あの時に弥生に関わった縁を喰ったのだ。

 そうして、アレは姉の姿から、弥生の姿へと変化した。

 つまり、アレは……姉に成り代わっていたアレは、今度は弥生に成り代わったのだ。

 弥生という存在を、喰われたのだ。


 ただただ泣いて、だんだんと体の熱が引いて、少しずつ、弥生は自分の現状を見渡す。

 すぐ目の前はすっかり日が暮れた夜の暗闇が広がっている。旅館を出てすぐの所で転けてしまったと思っていたが、怖々振り返った背後には旅館の灯りは確認できない。

 気付かない内にまた山の奥に入ってしまったのだろうか。ぶるりと身震いした弥生は、両腕で自分の体を掻き抱いた。

「うう、お姉ちゃん……お姉ちゃん、助けて……」

 無意識に零れた言葉にまた泣きそうになったところで。

 不意に、弥生は思い出した。

 そういえば、アレから逃げ出す前に、アレが何かを言っていた。


 ――千佳から何も聞いていないのか。


「お姉ちゃんから……?」

 姉。

 姉と最後にあったのは、いつだったか。

 そういえば今日、病院に駆けつけてくれたのは両親だけだった。姉本人が来ていないことに、両親は何も触れなかった。

 姉。

 姉は、どうしたのだっけ。

 姉から何か、言われたことはあったっけ。

 姉と最後に会った時、確か。確か。


 ――弥生、お守りをあげる。

 ――私に何かあっても、蛇神様が助けてくれるからね。


 その瞬間、頭から冷水を被ったかのように、頭の中の霧が晴れるのを感じた。

「ああ、そうだ……お姉ちゃん、あの時、お守りをくれた……」

 最後に会った時。

 最期に、会った時。

 姉、千佳からもらったお守りを、弥生は無くさないようにと、見つけやすいところに貼り付けたのだ。

 そう。

 そうだ。

 姉がくれたお守りは、白蛇のステッカーだった。

 スマートフォンのカバーにつけていた、あの白蛇のステッカーだ。

 白蛇。

 白い蛇。

 蛇神様――



 その時、突然、声が聞こえた。

「弥生? 弥生なの?」

 過剰にビクリと体を跳ねさせた弥生は、反射的に振り返った。

 そこにいたのは、口が裂けた巨大な化け物――では無く。

 瞬きをして見たそれは、弥生にとって見慣れたはずの人物のはず、で。

「ああ弥生、良かった! 無事だったのね!」

「……」

 駆け寄ってくるその人物は、弥生を抱きしめる。

 倉守 千佳。

 弥生の姉、のはずだった。

「弥生、大丈夫? 怪我は? ああ、こんなに震えて。待ってね、今お姉ちゃんが――」

 姉が体を離す。

 その瞬間を狙ったかのように、弥生の口が勝手に動き出した。 


「お姉ちゃん、どうして生きているの?」


 弥生が発した言葉に、目の前にいる姉は、ピクリとも動かなくなった。

 唐突な静寂が辺りを包む。

 弥生は自分で自分が言ったことに驚き、手で口を押さえる。が、それでも口は構わずに、更に動いた。


「だってお姉ちゃん、一年前に、死んじゃったじゃない」



 ――一年前。去年の、今頃のこと。

 耳を劈くような蝉の声と、線香の白檀の香り。

 祭壇に置かれた棺の蓋は締められて、中が見えないようになっていた。

 遺体が発見された時、かなり酷い状態だったのだそうだ。だからその顔を見ることもできず、葬儀の間、弥生はどうにも姉が亡くなったという事実を受け入れられずにいた。

 ずっと心がふわふわとしていて、何も考えられなくて、ただ、じっとりとした夏の熱さが身に染みていた。


 ああ、そうだ。と、弥生は思い出す。

 弥生が今年の夏休み、お盆の間に実家へ帰省したかったのは、姉の一周忌と初盆があったからだ――



 そして今。

 目の前にいて、笑顔のまま動かない姉らしきモノは。

 その笑顔のままに、声を発した。


「せっかく忘れさせてあげていたのに、どうして思い出しちゃったの?」


 これは駄目だ、と弥生は瞬時に理解した。

 脳だけでなく全身が、これは危険だと警告している。足裏と膝が痛むのも忘れて、弥生は体を引き摺りながらじりじりと後退する。

 目の前の姉らしきモノは、以前として笑顔のまま、両腕を広げた。

「お姉ちゃんが生きていてくれて嬉しいでしょう? だから、お姉ちゃんが死んだことを忘れさせてあげたの。ねぇ、お姉ちゃんに会えて嬉しかったでしょう? 夢の中でも嬉しそうにしていたじゃない」

 夢の中、というのは、あの悪夢のことだろうか。

 確かにあの悪夢で姉を見た瞬間から、弥生は「姉が亡くなっている」という事実を忘れてしまっていた。記憶から抜け落ちていたのだ。あの悪夢の中で、姉に向かって何かを言いかけても言葉にならなかったのは、その瞬間に記憶が抜け落ちてしまったからだったのか。

 姉のようなモノは更に続ける。

「それで、これで弥生と一緒になれると思っていたのに、邪魔が入っちゃった。姿を取られちゃったから、慌てて追いかけてきたのよ。でも、ほら、姿も戻って来たし、これでまたお姉ちゃんをやれるヨネ。弥生と一緒に、なれルヨネ」

 語る姉の声に、ノイズが混じりだす。

 じりじりと後退し続ける弥生の背に、木の幹がぶつかった。それ以上後ろへ逃げることができなくなり、弥生は息を詰まらせる。

「ネェ、弥生、お姉ちゃんはね、弥生のことが好きナノヨ。本当に好キナノヨ。それは、もう、食べちゃイタイぐらイ」

 姉らしきモノが、両腕を広げて近付いてくる。

 近付くにつれて、そのモノから鉄臭い、生々しい臭いは漂ってくることに気付いてしまう。姉らしきモノの背後は、いつの間にか悪夢で見たあの血の海が広がっていた。

 弥生は震えながら、首を横に振る。

「ち、違う……本当のお姉ちゃんは、そんなこと言わない……」

「何故? 弥生のお姉ちゃんは、今はワタシよ? どうして違うなんて言ウノ?」

「お姉ちゃんは、私を食べたいなんて言わない。だって、お姉ちゃんは、私にお守りをくれた……自分に何かあったときに助けてくれるって、私に、お守りを」

 そう、お守りを。

 そのお守りに描かれていたのは。

「蛇神様……蛇神様が、助けてくれる、って……」


 刹那、唐突に、目の前を何かが遮った。

 何かが風を受けてはためいている。よく目を凝らせば、それは旅館の浴衣だった。

 旅館に居た時に、弥生の肩にかけられていた、あの浴衣だ。


「やっと、オレのことを思い出したか」


 その浴衣に腕を通し、弥生の目前に立ちふさがっているのは、今は弥生と同じ顔をしているソレ、だった。

 弥生と同じ顔をしたソレが、こちらを振り返る。蛇のような黄金色の瞳が向けられ、笑うように細められた。

「でも、今のオレは、お前の存在を喰ったモノだ。つまりこの場において、倉守 弥生とは、オレのことだ」

 そして、ソレは、姉のようなモノへと向き直る。

「弥生を食べたいのだろう。食べさせてやるよ。この人食い鬼」


 え、と弥生が顔を上げてソレを見上げる。

 その直後、ドンッと、弥生は突き飛ばされた。


 旅館でも聞いた、あの咆哮が聞こえる。

 その咆哮に混じって、自分に似た声帯の笑い声が聞こえていた。

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