喰いたがりの神様
光闇 游
1.悪夢
何故こうなったのだろう。
倉守 弥生の頭の中は、その言葉で埋め尽くされていた。
弥生の目の前に広がっているのは、目に毒々しい鮮やかな赤色の海である。
たくさんの何かがその海の中に倒れ、腕を、足を、首を、内蔵を、まるで引き裂かれたかのようにぐちゃぐちゃに、その断面を曝け出している。
何故こうなったのだろう。
理解が追いつかない。
ただわかるのは、いずれは自分もこうなるのだ、という確信と絶望だけで。震える足は満足に立つことすら困難であり、彼女はその場にへたり込む。
その指先に、乾ききっていない血液の、ぬるりとした感触。
「ひっ……!!」
目の前の惨状を処理し始めた脳が悲鳴を上げろと指示を出すが、弥生の喉は引き攣った声しか発せなかった。
その時、べちゃり、と背後で音がなる。
過剰にビクリと体を跳ねさせた彼女は、反射的に振り返った。
そこにいたのは、口が裂けた巨大な化け物――では無く。
瞬きをして見たそれは、弥生にとって見慣れたはずの人物だった。
「弥生? 弥生なの?」
「あ……」
安堵からか、ほんの少し感じた違和感からか、一瞬だけ言葉がつまる。
しかし今度はすんなりと声が喉を通った。
「お姉ちゃん……?」
「ああ弥生、良かった! 無事だったのね!」
駆け寄ってくるその人物は、弥生を抱きしめる。
倉守 千佳。
弥生の姉であった。
「弥生、大丈夫? 怪我は?」
「だ、大丈夫……それより、お姉ちゃん、なんで……」
言いかけたが、言葉にはならなかった。
弥生は自分自身に問いかける。
今、自分は姉に、何を言おうとした?
「どうしたの?」
「えっ、な、なんでもない……ここ、どこ? どうしてこんなことになっているの?」
震える声で問いかけながら、視線を姉から逸らす。血の海は以前としてすぐそこに存在している。
その海の、向こう側。暗闇の奥の方から唐突に、得体の知れないモノが弥生の視界に映り込んだ。
「っ?!」
それは巨大な蛇だった。
真っ白な鱗に包まれた体をくねらせ、音もなくこちらへ這い寄ってくる。
叫ぼうとして、声が出ないことに気付く。体は石のように固まってしまい、動くことができない。
白い体躯に対してやけに目立つ黄金色の目でじぃっと見つめられ、まさに蛇に睨まれた蛙のように、弥生はただ大蛇を見つめ返すことしかできない。
「弥生? ああ、こんなに震えて。待ってね、今お姉ちゃんが――」
ふいに姉が体を離す。
その瞬間、大蛇が大きな口を開けた。
「っきゃあああああ!!」
叫び声をあげて飛び起きた。
目の前に大蛇はいない。それどころか、目の前は知らない場所だった。
白い壁にクリーム色のカーテンがぐるりと周りを囲んでいる。天井には点滴パックがぶら下がっており、その管が自分の腕へと繋がっている。ベッドの上、弥生はあきらかに入院着だとわかる服を着ており。
「……びょう、いん……?」
知らない場所ではあるが、状況と視覚情報から、ここがどこかの病院であると理解するのは簡単だった。
今までに入院経験がない弥生ではあったが、病室の仕様ぐらいは知識としてある。すぐに枕元を探り、ナースコールのボタンを見つけて押す。
看護師と医者はすぐに来てくれた。どうやら自分は丸一日ほど目を覚まさなかったらしく、自分の名前や日にちや曜日等を確認として聞かれた後、どうしてここにいるか詳細を教えてくれた。
高等学校の女子寮で、意識不明で倒れているのを発見されたのだという。
確かに弥生は高校生であり、学校指定の寮で暮らしてはいるのだが、倒れた原因についてはまったく心当たりがない。発見された場所が自室の前だったらしいが、弥生が覚えている限り、きちんと布団で就寝したことまでしか記憶に残っていないのだ。
そういうやりとりを医師と行った結果、弥生には原因不明の失神という診断が下された。体に異常は見当たらず、当の本人である弥生ですら心当たりが何も無いのだから、妥当な診断であろう。弥生は念のための検査入院としてそのまま病院にもう一泊することになり、駆けつけてくれた学校の寮長と共に入院と学校への諸々の連絡を済ませ、気が付けば時刻は夕方近くになっていた。
一息吐いたところで、弥生は考える。
結局、原因不明となってしまったが、本当に何もなかったのだったろうか。
もう一度、記憶を振り返る。昨日、いや、一昨日のことになるのか。
期末試験を乗り越え、無事に一学期を終えたところだった。後は単位が取れているかの通知を待ちつつ、田舎にある実家へ帰省する日をいつにするかと考えながら、その日は就寝したのだった。
ああ、いや……と思い出す。
就寝した後、確か夜中に一度、目を覚ましたのだ。
喉の渇きを覚えたからだったような、否、理由はよく思い出せない。とにかく、ふいに、唐突に、目が覚めたのだ。
その後のことを、よく覚えていない。
視界が赤かったような気がする。
吐き気がするほどの濃厚な臭いと。
目に毒々しい、赤色の海――
「っ……!!」
急激に思い出した光景に思わず息を飲んだところで。
「倉守さん、ご家族の方が来ていらっしゃいますよ」
偶然タイミング良く入ってきた看護師が、弥生の様子を見て目を丸くした。
看護師から見て酷い顔色だったのだろう。慌てて大丈夫だと、声には出さずに首を振って看護師に返事をする。
口を開けば叫び声が漏れ出てしまうところだった。現実味を帯びない風景を思い出して怖くなったなど到底信じて貰えないだろうし、あれはきっと、夢だ。自分は原因不明で倒れたというのだから、その時にでも見てしまった悪夢なのだろう。
そうこうしている間に、両親が病室に到着した。弥生の実家は学校から遠く、新幹線を使わないといけない距離にある。遠路はるばる病室に駆けつけてくれた両親は、弥生の姿を見て安堵の息を吐き、そして顔色が悪いことに不安そうな表情をした。
「お母さん、お父さん、心配かけちゃってごめんなさい。その……もう大丈夫だから……」
そう言うものの、何がどう大丈夫なのかは弥生ですらわかっていなかった。
とにかく両親を安心させなければと、笑顔で対応する。無理に作った笑顔だった為に強ばって引き攣ってはいたが、両親はなんとか胸をなで下ろしてくれたようだ。念を押すように弥生が無事であることを確認し、医師に話を聞いてくると言って両親は病室を後にする。
ホッと息を吐いた。
両親に心配をかけてしまった。病院から知らせを受け、ここに来るまで大変な心配をさせてしまったことだろう。早く元気になって、両親を安心させなければ。
そう考えながら顔を上げた弥生は、ふと、この病室に自分一人しかいないことに気が付いた。
四人部屋の病室であるのに、三台は空きベッドになっている。たまたま他に患者がいないだけなのか、看護師の姿も無く、廊下側からも人の気配が感じられず、なんだかとても静かだ。
だから、病室の扉を明けるガラリという音と、カツカツという足音が、やけに響くように聞こえた。
そして、よく知っているはずなのに、聞き覚えの無い声も。
「ああ、ここに居たのか。弥生」
女性の声、のようだった。
だが、こんな口調で話す女性なんて、弥生は知らない。なのに、どうにも、その声は耳に馴染みがある。
足音が近付き、弥生がいるベッドのすぐ側で止まる。
おそるおそる視線を向けた。その先には、よく知っているはずの姿があり。
「お……お姉ちゃん……?」
と、口にして。
すぐに弥生は後悔した。
どうにも、目の前に立つ姉は、姉ではないのだ。
ブラウンに染められている長い髪に、整った顔立ちと、女性らしい体躯。それだけを見ればどこにでもいる普通の女性であり、弥生にとっても馴染みのある姿だ。だというのに、彼女の瞳は黄色く、どことなく爬虫類に似ていて。
喩えるならば、得体の知れないモノが、姉の姿を真似ているだけのような。
そんな弥生の思考通りに、綺麗な顔をにやりと歪ませて、ソレは口を開いた。
「お前の姉はもういないよ。オレは姿を借りているだけ。迎えに来たぜ弥生。さぁ、オレと行こうか」
×××
あの悪夢の続きを思い出す。
「弥生? ああ、こんなに震えて。待ってね、今お姉ちゃんが――」
ふいに姉が体を離し。
その瞬間、大蛇が大きな口を開ける。
そして姉を、ばくんと、丸呑みにした。
恐怖で声すら出ない弥生の目の前で、大蛇は腹を波打たせ。
しかし、瞬きの合間に、腹を膨らませた大蛇の姿は忽然と消えていた。
代わりにいたのは、呑み込まれたはずの姉の姿。大蛇の代わりに現れた姉は、両手で顔を覆って俯き、少しよろめいた後、ゆっくりと顔を上げる。
「――……ああ、やっと」
顔を覆っていた両手を離し、振り向いた姉の瞳は、黄金色をしている。
ああ、これは、姉ではない。
「やっと取り戻せた。これで喋れる。なぁ、弥生。迎えにきたぜ」
姉の姿をした何かは、姉の声帯で、そんなことを言う。
姉とは似つかわしくない笑みで。
そうして弥生は失神した。
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