3.騙す

 手を引かれる弥生の視界はめまぐるしく変化した。

 足が動く度に景色が後方へと飛び、たった一歩だけで有り得ない距離を進む。遠くに見えていたはずの山がどんどん近くなり、山の入り口らしき山道の前へと辿り着いたと思った次の瞬間には、弥生の足はサンダル越しに柔らかい土を踏んでいた。

 そこに至ってようやく、手を引いていたソレは歩みを止めた。少しでも抵抗しようともがいていた弥生は息が切れていたが、ソレは汗の一つもかかずにぐるりと辺りを見渡す。

 四方は木々に囲まれ、空を覆うように枝を伸ばしている。その枝と葉の隙間から辛うじて見える空は、もうすぐ日が落ちてしまいそうな暗い紫色をしていた。

 そしてソレは、今度は歩いてきた方向を振り返る。

「……ここなら、少しは時間稼ぎできるか」

 ソレが何事かを呟くが、弥生は息を落ち着かせるのに必死だ。荒く息を吐き、なんとか顔を上げれば、ソレと目が合った。

「っ、は、離して」

「離す?」

「手を、離して」

「ん? ああ」

 ソレが手を離した瞬間に、弥生は弾かれたように走り出した。

 この時の弥生は、一刻も早く得体の知れないモノから離れたい気持ちによって心を支配されていた。こんな山奥で方向を確かめもせずに走り出し、遭難する可能性を冷静に判断する思考回路もなく、ただ足が動くままに我武者羅に草木をかき分ける。

 すると唐突に、視界が開けた。

 これで逃げられる、と思った。

 その矢先、前に踏み出した片足が、宙を空振りした。

「おっと」

 直後、姉に似た声が耳元で聞こえ、がしりと背後から拘束される。

 驚いた弥生は咄嗟に暴れた。

「っやだ! 離して!」

「こらこら、落ち着け。落ちるぞ」

 そう聞こえてきた言葉に、ハッとして、前を見た。

 踏み出そうとした先は、地面がなかった。

 目を見開いて見下ろせば、そこから先は崖のような急勾配になっている。あのまま一歩踏み出していれば、弥生の体はたちまち転がり落ち、只では済まなかっただろう。

 ひゅ、と息を呑んだ弥生に、ソレはやれやれといった様子で弥生の体を後方へと引き摺る。弥生は腰が抜けてしまい、その場にへたり込んだ。

「……距離を取るだけでは、やっぱり駄目か。完全に縁を全部切らないと」

 ソレが呟き、弥生を見下ろす。

 弥生は呆然としながら、ドッドッと早駆けする鼓動の音を聞いていた。

「わ……わた、し」

「オレから逃げるなら、方角が違うぞ。どうしてそっちに行こうとした」

「ど、どうして、って」

「無意識か。まぁ、いい。この様子じゃぁ、どこへ逃げようが、こうなりそうだな」

 腰が抜け、力が入らない足が震えている。

 そもそも、この山についた直後は息が切れて疲労困憊だったのに、どうして先程はあんなに走れたのか。どうして突き動かされるように我武者羅になったのか。どうして。

 冷静になればなるほどに、自分の異常性に気付いてしまって弥生は呆然となる。

 その間に、ソレは思考を巡らせ、結論を得たらしい。動けずに固まっている弥生と目を合わせるべくしゃがみ込むと、にこりと笑った。


「わかった。お前を人間がいるところに連れてってやるよ」

「え」


 次の瞬間、弥生としては瞬きの間に、また周りの景色が変わっていた。

 森の中ではなく、部屋の中にいる。畳の和室であり、まるで旅館の一室だ。

 否、実際、ここは旅館のようだった。どこからか聞こえる話し声に振り返ってみれば、姉にそっくりの後ろ姿と旅館の女将らしき人が、部屋の入り口で立ち話をしている。

「では、何かご利用でしたらお呼び下さい。お連れ様、お大事に」

 あ、と思っている間に、女将が頭を下げて部屋を出て行ってしまう。

 しまった、助けを呼び損ねてしまったと、立ち上がろうとする。が、まだ足が震えて上手く動けない。

 そうしている間に姉の姿をしたソレがこちらを向いてしまった。

「ああ、気が付いたか」

「あ、あなた、また、私を」

「唐突に意識を飛ばしていたのはお前だよ。でもまぁ、意識を無くす前に、人間がいる場所へ連れてってやると言ったのはオレだからな。オレは嘘は言わない。宣言通り、人間がいる場所へ連れてきてやったんだよ」

 そう言いながら、ソレは弥生の前まで来ると、その場に腰を降ろす。

 弥生にとっては一瞬の内に移動したように見えたが、実際は突然意識を無くし、その間に運ばれていたらしい。窓から見える空は夕方を通り越して夜になっている。

 混乱しながらも、弥生は思うように動けない体で身を乗り出した。

「ここはどこ? 旅館なの?」

「ああ。近くにあって良かったな。お前が具合悪そうだと言えば入れてくれたし」

「そんな、私……」

 もはや何から聞けばいいのかわからないが、とにかく現状を整理するのが先だろう。

 自分の意志でここへ来たわけではないが、それでも人の気配がする場所に至ることで、ある程度の冷静さを取り戻すことができた。頭を振って思考を切り替え、弥生はソレを睨み付ける。

「あなた、私に何をしたいの? どうして私を連れ回すの」

「はは、まるでオレが悪者のような言い分だなぁ。しかし、もう少しの間は我慢してくれよ。もう時期に決着がつく」

「決着? 一体、何が……」

 と。

 その時になって、弥生は自分の肩に何かが引っかけられていることに気が付いた。

 手でたぐり寄せてみれば、それは浴衣だ。おそらくこの旅館の浴衣なのだろう。近くには帯も転がっている。

「ああ、それは、そのままにしていろ」

 肩から浴衣を降ろそうとして、その手をソレに止められる。

 気が付けばすぐ側にソレが近付いていた。

 ソレの接近にまったく気が付かなかった。ビクリと肩を跳ねさせた弥生は、あっという間にその場に押し倒されてしまった。

「や、やだ、何するの?!」

「念には念を入れて、その着物にお前の匂いを移しておきたかったんだがな。どうやら、時間がないらしい」

 押し倒してきたソレは、しかし、弥生を見てはいなかった。

 蛇のような黄金の瞳は、部屋の窓へと向けられている。

 つられて、弥生もおそるおそる窓の方向へ顔を向けた。すっかり夜になり、真っ暗な空しか見えない窓ガラスには、部屋の照明が反射している。

 ソレは呟く。

「追いつかれたか」


 次の瞬間、窓の外から咆哮が聞こえた。


 何の声だとは判断できなかったが、咆哮には違いなかった。大声で叫ばれる声が窓の外から部屋の中にまで響き、ビリビリと空気を振動させている。まるで地震が来たのかと錯覚するかのような、それほどの振動だ。

 これほどの振動を起こすほどの、咆哮。

 少なくとも、人間が発せられるような声ではない。

 と、不意に、弥生は腕を引っ張られて体を起こされた。

「走るぞ」

「え? あ」

 すぐには思考が働かない弥生の足は、ソレに言われた途端に立ち上がっていた。

 そして手を引かれるままに走り出す。肩にかかっていた浴衣が何故だか腕に絡みついているが、それに構っている余裕もなく、弥生はなんとか足を動かした。

 この時ばかりは、ソレの言うとおりにしようと思ったのだ。何故だかわからないが、あの場に留まってはいけないと、本能的に体が動いたのである。

 弥生の手を引くソレは部屋の扉を開け放ち、廊下を駆ける。

 途中、騒ぎに気付いたらしい、先程の女将が曲がり角で顔を覗かせて目を丸くさせた。

「お客様?! お連れ様も、一体どうされたので――」

「ああ、丁度良い」

 走りながらもソレが呟く。

 そのまま女将の元へと駆け寄り、ソレは空いている手で、女将の顔面を儂掴んだ。

「なにしてるの?!」

 驚いた弥生が叫ぶが、ソレはそれ以上のことはしなかった。ただ、目を回したらしい女将が壁を背にして崩れ落ち、ソレは何かを掴む動作をしたかと思えば、掴んだ何かを口へと放り込む。

「……万全ではないが、これでなんとか間に合った」

 何かを呑み込んだソレは、弥生には理解できないことを呟く。

 弥生は女将の元へと足を向けようとするが、それよりも先にソレに腕を引かれてしまう。廊下の向こうに女将の姿が見えなくなり、旅館の玄関が見えてきたところで、弥生は堪えきれずに繋がれた手を振り払った。

「もういい加減にして! 本当に何がしたいのよ!」

 自分の身に降りかかる理不尽には、もう耐えられなかった。その不満が爆発して、弥生は叫ぶ。

 その拍子に、腕に絡まっていた浴衣が床に落ちた。ぱさりと浴衣が床に落ちきった頃、腕を振り払われて立ち止まりはしたが背を向けたままのソレが、肩を揺らして息を吐く。

「……本当に、千佳から何も聞いていないのか。それとも、言われたことを忘れているのか」

 ソレの口から、再び姉の名が告げられる。

 と、ソレの後ろ姿をしっかりと見た弥生は、あれ、と違和感に気が付いた。

 姉の姿だと思っていたソレの容姿が、いつの間にか変化している。

 茶髪に染められていた髪が、黒髪に。少し見上げるぐらいの背丈だったのが、弥生と同じ目線の位置にあたる背丈になり。

 なんだがその姿は、自分の。


「何をしたいか、か……そうだな、オレは……お前という存在を、喰いにきた」


 振り返ったソレの顔は、鏡に映った自分と同じ。

 弥生とまったく瓜二つの顔に、変化していた。

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