5.結末

「――ぃ、おい、君、大丈夫か?」


 ハッとして、目が覚めた。

 喧噪、雑踏、人の話声に、車の音。一気にそれらの音が聴覚を響かせる。

 瞬きをして視線を定めれば、スーツ姿の男性が驚いた様子でこちらを覗き込んでいる。その他にも制服を来た女学生が「大丈夫ですかっ?」と呼びかけてくる。

 そうしてようやく、弥生は自分が今、アスファルトの上に仰向けで倒れていることに気が付いた。

「……え?」

 声を出せば、男性も女学生もホッとしたように胸をなで下ろした顔をする。女学生に体を起こすのを手伝ってもらえば、辺りはちょっとした人集りができていた。

 遠巻きでこちらを見てくる野次馬から聞こえてきたのは、「どうしたの?」「いきなり倒れたみたい」「あの服、病院の?」という言葉たちだった。

 慌てて辺りを見渡す。

 ここは、病院前の、あの四つ辻だ。

 日は沈んでいるが街灯と隣家や周辺店舗からの照明が明るく、人通りも多い。そんな中で倒れてしまっていたらしく、辺りの野次馬が増えていっている。

 しかし、すぐには動けなかった。

 酷く混乱してしまっていた。なぜなら、自分はつい先程まで、山の中にいたはずなのに――

「弥生!」

 と、背後から名を呼ばれた。

 振り返れば、こちらに駆けてくる女性がいる。

 母だ。青白い顔をしながら駆け寄ってくると、ひし、と抱きしめられた。

「ああ良かった、見つかって……! あまりにも突然いなくなったから、誘拐されたのかと思ったのよ? もう、弥生、どこに行っていたの?!」

 心配と安堵からか声が大きくなる母に、彼女は――弥生は、呆然となりながらも口を動かした。

「お母さん……? お母さん、よね……?」

「どうしたの弥生……」

 抱きしめながら母は弥生を見下ろし。

 そして、さっと、血の気が引いたように顔色を白くした。

「弥生、あなた、もしかして……蛇神様に」


 その時、自分の手に何かが握られていることに、弥生はようやく気が付いた。

 ほぼ無意識に、視線が自分の手元へと落ちる。

 握られているのはスマートフォンだった。

 あの時、この四つ辻で、確かに喰われてしまったはずの、スマートフォンだった。

 それが、手元に戻ってきている。

 

「わ……わた、し……」


 喰われたものが、全て返ってきている。

 スマートフォンも、それに伴う縁も。

 倉守 弥生という、存在そのものも。

 しかし一つだけ、無事では無いものがあった。

 スマートフォンのカバーに貼り付けていた、姉からのお守りが、ズタズタに切り裂かれていたのだ。


「わたし……私……なんてことを」


 気が付いた。

 ようやく気が付いた。けれど、気が付いた時には。

 すでに何もかもが終わっていたのだった。


 ×××


 嗚呼、美味しイ。


 やっと、ご馳走にありつけた。縁を辿って追いかけた甲斐があった。

 このご馳走のおかげで、無くしていた力が全て戻る。そうしたら、もっと、人を喰らおう。もっともっと、力をつけるために。


 にしても、美味しイ。コンナ美味しいモノ、何百年ぶりだろう。


 けれど、なんだかおかしい。変だ。

 どうしてこの女は、ずっと笑っているのダロウ。


 美味しイ。美味シイ。ケレド。

 何故、食べるのを止められないのか。


 ばりばりと喰われている女が、笑いながら叫んでいる。


「オレの勝ちだ! ざまあみろ!」


 ×××


 ×××


「――蛇神様、どうか妹を、助けて下さい」


 彼女は。

 倉守 千佳は、そう言った。

 寂れた小さな祠に向かって手を合わせている彼女の姿は、どうにも滑稽に見えて。

 自分は、やれやれと思いながらも祠の中で息を潜める。

 自分の住処であるこの祠は、一昔前までは人の手によって綺麗に整備されていたのだが、世話をしていた者の高齢化や人手不足によって長らく放置されていた。それがここ最近、彼女、千佳がやって来るようになり、少しずつだが手入れをするようになっていた。

 なんでも、彼女の先代にあたる祖母からの遺言だそうだ。それはつまり、自分が知る婆さんが亡くなった、ということでもあった。

 婆さんは今の時代では珍しく、この自分を認識できる希有な人間だった。気まぐれに姿を見せてやっては、話相手になってやっていた。婆さんは足腰が動かなくなるまで祠に通い続けてくれていたのが、そうか、そうか……まったく、人の生は短いものだ。

 千佳は、婆さんの後釜なのだそうだ。そんな彼女が祠に向かって、すなわち、自分へ向かって、手を会わせて祈っているのである。

 彼女にまで姿を見せてやる義理はないが、話を聞くだけならばいいだろう。意識を彼女へと向けてやると、彼女はほんの少し顔を上げる。


「北の封印が、破かれました」

 嗚呼、なるほど。


 祠から北には山があり、その山には、人を喰らう鬼が封じられている。

 封じたのは倉守の一族である。何百年前だったか、当時の村人を喰らって暴れ回っていた鬼を、とある僧侶が山に封じ込めた。後に僧侶は倉守と名乗ってこの地に定住し、封印を管理しつづけることになった。

 そして本来の自分は、その封印の一端を担っている。

 もしも封印が破れて鬼が顕現してしまった際の、保険として。

「先日の大雨で、山で土砂崩れがありました。その時に封印の要石が巻き込まれて……私の力では、元に戻すことができませんでした。このままだと封印が完全に破かれて、鬼が復活してしまうでしょう……聞こえるのです。封印の奥から、私を喰うために誘い込もうとする、声が」

 よく見れば、彼女の手は震えている。

 声が聞こえるというのは、本当のことなのだろう。あの人食い鬼は、獲物にとって近しい者に化けて誘い出し、油断したところを襲いかかってくる。それに人食い鬼の好物は、若い女の血肉だったはずだ。

「鬼は、二十歳を越える前の女性から狙うと言い伝えられています。だとしたら、まず狙われるのは、私。その次が、妹になるでしょう……母には、私に何かがあった際、妹を遠くへ逃がすようにと伝えています。ですが、それだけでは鬼からはきっと、逃げられない。だから、お願いします、蛇神様」


 そうして彼女は、懇願する。

「妹を……弥生を、助けて下さい」


 その日を境に、千佳は姿を見せることがなくなった。

 気配を探っても彼女は見つからず、僅かに繋がった縁を辿り、現在の倉守の家へと向かってみれば、葬式が行われていた。

 ああ、一人で立ち向かったのはいいものの、喰われてしまったのか、と。

 それを理解すると同時に、嫌な噂を聞いた。どうにも、死んだはずの彼女が、山の付近で彷徨っているのを目撃されている、と。

 ああ、嗚呼。喰われるだけに留まらず、姿すらも鬼に取られてしまったのか。


 オレのお気に入りを、喰った上で、被っているのか、あの人食い鬼め。



 ――そうして自分は考える。

 今の自分に、鬼を封じる力が残っているだろうか。

 人喰い鬼はその悪名から、この地域の者たちには伝説として言い伝えられてきた。対して自分はというと、つい最近まで存在すら忘れられていた寂れた祠の主だ。鬼を封じるには力も信仰も、当時と比べてずいぶんと弱まってしまっている。今のまま退治に向かっても返り討ちに遭うのが目に見えている。

 更に頭を悩ませるのが、鬼の封じ込め方法だ。

 おそらく千佳は聞かされていなかったのだろう。自分が鬼を封じる際の保険とされたのは、この身自体が鬼にとっての毒で構成されているからだ。

 つまり、鬼にこの身を喰らわせる必要があるのである。鬼に喰われてやることで、内側から封じて消滅させるのが、自分であり、オレなのである。


 さて、どうするか。

 どうやって鬼の意識を、こちらに向かせるか。

 やはり、成り代わるか。

 鬼にとってご馳走に見えるように、先回りして獲物対象の存在だけを喰って、成り代わるしか、無いか。



 そう考えながら、蛇神は祠からずるりと這い出でる。

 白い体をくねらせて、黄金色の瞳を前へと向けて。

 蛇神は祠を後にしたのだった。



 END

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