姨捨島流し
かずなし のなめ@「AI転生」2巻発売中
姨捨島流し
見返した日記には、一ページだけ意味のわからない箇所がある。
『これを誰かが読んでいるとき、私は死んでいる可能性がある。なぜなら私、戸叶儀康は――』
「――お父さん?」
悲痛な文章の再読が完了する前に、ノック音。
「朝ごはん出来たわ」
45歳の娘が、80歳の父親の世話をしている。まるで介護されているようだ、と力なく笑ってしまう。
「うれしいが、もうそんな事しなくてよい。私はもう認知症ではない」
「ごめんなさい。一度根付いた生活習慣というのは消せないものなの」
「分かった。頂くよ」
根負けして、梨桜についていく。
テーブルには、バランスのよい二人分の和食が並んでいた。梨桜の力作だ。本業はシステムエンジニアだが、料理の腕も折り紙付きの天才だ。
認知症のままだったら、贅沢に表現された自然の味を噛みしめることも無かっただろう。
「梨桜。改めて介護、本当にすまなかったな」
箸を起き、フッと一人娘が微笑む。
「いいえ。お父さんが、いかに日本へ貢献したか思い知れた七年だったわ。各所から様々なご支援を頂けたのよ」
「そうか。皆にも迷惑と心配をかけた」
「でもお父さん。もう仕事に復帰して大丈夫なの?」
儀康は今日、仕事に復帰する。その事実を口にする梨桜は、物憂げだった。
「140歳のジジイでもバリバリ働いている連中がいるのだぞ。私のような80歳程度の若造、いつまでも病休ではいかん」
「そうではなく……」
家の中だというのに一通りのメイクを終えた唇がへの字に曲がっている。七年間の介護生活は、梨桜を少し臆病にしたようだ。
「お前の言いたいことはわかっている。少なくとも認知症には後遺症はない。記憶がなくなること以外はな」
ワイシャツに袖を通す。背広も久しぶりだ。なのに、梨桜以外の景色すべてが昨日のことのように思える。一方で、庭で待っていた秘書兼運転手である平井の少し老けた顔を見ると、やはり七年の時を超えたと素直になってしまう。
後部座席から見える窓には、七年ぶりの都市が広がっていた。ウィンドウを開けて、生の景色を堪能する。
「平井。お前認知症になりたいか?」
「そんな人間、この世にいませんよ」
バックミラー越しに見える運転手の平井は、変わらぬ無骨なポーカーフェイスを貫いていた。
「認知症とは地獄だ。人は、その地獄からついに解放されたのだ。天然痘とおなじように」
十年前。認知症と診断された。
終わった、と儀康は絶望した。
これで待ち受けるは糞尿垂れ流しのあまりに醜い晩年と、自我と自覚のない無念の死のみ。理不尽だ、と世を恨んだ。
だが、認知症に苦しんだ記憶は、七年前の時点から失われている。ゆえに梨桜に介護されてた記憶も、同じくない。
認知症の頃の記憶。それが治療に差し出す
「だがもう怖がらなくていい。認知症は治る。私は進歩した医療に救われた身だ」
西暦2099年。認知症は完治する病気になった。
結果儀康は澄明な晴天の下、50年来のモダンな愛車の後部座席から、頬杖をしたまま三鷹未来都市の街並みを鑑賞していた。
「この恩は必ず返す。未来都市という形でな」
配達用ドローンとエアカーが秩序良く飛び回る青空。実態は、都市上空を覆う透明な巨大屋根の隙間を行き交っている形に過ぎない。不審車やミサイルはすべてシャットアウトする仕組みになっている。
一方地上では、リラクゼーション効果を極めた自然と建築物のハーモニーが広がっていた。しばらく進めば、比較的若い層が募る歓楽街で、メタバースから現実化したアバターと、現実の人間たちがエンターテイメントの中で戯れている。
これが、未来都市である。
元東京都三鷹市も、儀康が経営するTKHによって、未来都市のひとつになっていた。
「ところで戸叶様。ご依頼頂いていた、七年間の戸叶様端末のログにについて、後ほど報告したいことが」
◇◆◇◆
『すべての人間を、何千歩も先のユートピアへ』
これを企業理念とする株式会社トカナウホールディングス、通称TKHは世界3位の時価総額を誇る、日本随一の企業である。たった一代でここまでのし上がった儀康の経営手腕は、神の領域とさえされた。
未来都市づくり。それがTKHの事業だ。
現時点での最新技術を、市という巨大な単位で調和的に設計し、住みやすさと安全性をどこまで突き詰めた未来都市を作り上げている。現地の自然と調和した、景観のデザインも怠らない。
一度作り上げたらハイ終わり、ではない。未来都市は進化する。住民が未来都市のデバイスに登録した個人情報から、未来都市を定期的にハイエンド化している。
日本だけで考えても、北は北海道、南は沖縄まで、1000の市区町村が未来都市へと開発された。その過程で200の市区町村を整理した。今から10年後にはすべての市区町村が未来都市になり、ゆくゆくは日本そのものを一つの未来都市に見立て、デザインする計画だった。少なくとも、10年前までは。
「私が病休をしている間に、ここまで『懐古主義』が大きくなっているとは思いませんでしたね」
とある高級料亭で、日本酒を煽りながら儀康。対面でとっくり片手に注ぐ進民党幹事長の大豆生田も苦い顔を隠し切れない。個室の聚楽壁を、儀康のスマートデバイスから3Dプロジェクションマッピングが塞ぐ。
映るは、青筋を立てた何百人もの老人。
かすれた罵声が個室の中に響き渡る。
『ディストピアを作ろうとするTKHと独裁進民党を許すな!!』
『俺たちを勝手な制度で殺すな!! 監視都市反対!!』
『未来都市は日本を壊す、害悪都市だ!! 先人たちの文明を守れ!!』
開発反対派である懐古主義の反対デモは、警察たちの制止を振り切って、行進を続ける。『わたしたちの声を聴け』という横断幕がやたらと目に入る。
腕を組みながら、忌々しく、フン、と大豆生田は鼻を鳴らす。
「動物園のサルだな。こんなのは上野の巨大動物園だけで十分だ。しかし、映っている老人たちはみんな皺が目立って汚いな。幾人かは私たちより年下だろう?」
「まともなアンチエイジングサプリメントを服用してなければ、こうもなります」
111歳の大豆生田、そして80歳の儀康。二人と比べ、記憶媒体の中で罵声を浴びせる老人たちは、年相応に老けている。
AE技術が発展し、100歳だろうと健康的な30代の肉体を維持できるようになった。皮膚、筋肉、骨、脳以外の内臓すべてにおいて、老化という概念は排除される。ずっと理想の健康体でいられる。
若さは、買えるのだ。
しかし、高額だ。
一定以上の等級があれば、インセンティブという形で優先的にAEの保障金が施される。結果、老いて益々盛んに事業へと取り組むことができる。
等級の低い人間は自腹で買うしかないのだが、高価故に難しい相談だ。
結果等級が高い老人と、低い老人とでは、肉体年齢の格差も存在する。
「なんというか、哀れだな」
「哀れだとは思いませんよ。私は」
大豆生田から零れた言葉へ、儀康は首を横に振る。
「自分の等級を上げず、他人の足を引っ張るだけのゴミに、かける情けなんてありましょうか」
等級。それは、人間の価値と定義される。
2040年から等級制度が日本で正式に導入された。様々な指標やシステムを使い、どれだけ社会に貢献できるか、の観点から全国民のランク付けがなされる事になった。仕事でもスポーツでも芸術でも、社会に貢献した実績分の等級は付与される。災害支援や、発展途上国への貢献活動分も付与される。国が認めた等級資格を取得することでも等級の増加は可能だ。もちろん年間を通して何も実績を残さなかったり、犯罪歴があると、等級は下がる。
現在の若者は等級を上げるために生きているといっても過言ではない。等級が低ければ住む場所も、利用可能なサービスも限定される。等級が低ければ、容赦なく社会から爪はじきにされる。
だが等級の違いが真価を発揮するのは70歳を基準とした老後だ。
等級が低いまま老後を迎えれば、十分な福祉や保障を受けることができない。そして自然な老いに従い、社会に置いていかれる。
ちなみに、儀康の等級は256点中251点。これは日本人でトップ10に入る数値だ。大豆生田も、そう変わらない上等な点数だ。
一方、懐古主義の連中はせいぜい40点がいいところだろう。つまり、社会に貢献するどころか、社会に迷惑をかけてきたと判定された。
等級制度への反発は2040年当時はあったが、当時だけだ。今は少子高齢化が超加速し、人口の七割が70歳以上となった平均寿命117歳の時代だ。もはや国に、すべての老人を面倒見るだけの余力は無かった。
だから定年や年金という概念は消えた。寿命が尽きるまで老人達に働かせた。でもそれだけでは足りない。無限に増殖する使えない老いぼれを社会から排除するには、等級制度は都合がよかった。
『家柄や遺伝の才能で決まる悪の等級制度を廃止しろ!!』
立体映像から流れる老婆の声がノイズに感じた。儀康がスマートデバイスに停止を命じると、幻のように『懐古主義』の残像は消えた。
「家柄、遺伝……。今の世の中、大学に行かなくても等級資格が得られる通信講座は五万とある。そのほとんどが低価格か無料で受けられるものばかりだ。資格を使って仕事をして、等級を上げるだけなのに。家柄も遺伝も、努力さえも必要ないのに……」
儀康は、自分も家柄に恵まれなかったと自負している。奨学金を使い大学に臨み、かつ留学までして都市開発学の博士号を取得し、その知識をきっかけにTKHの現在へとつながっている。
故に、老人の甘えを聞くと寒気が走る。
「……懐古主義の過激派は巧みに未来都市内部の人間と共謀し、新民党の事務所に襲い掛かってきたこともある。私としても放っておけない」
「ほかにも一か月前、TKHの社員が開発中の地方にて、爆発テロによって何人も殺されました。犯人は懐古主義の老いぼれでした」
未来都市は防衛面も考慮されており、海外から飛来するミサイルも防ぐことができる。しかし未来都市といえど、人間同士が企めばいくらでも隙間を掻い潜ることができてしまう。内部の手引きがあるだけでテロは容易に引き起こせてしまう。
ならば未開発のセキュリティが整ってない地方など、懐古主義たちの格好の餌食だ。
日本を未来都市にする計画を、卑劣極まりない手段で妨害してくる連中の事が儀康は許せなかった。
「そこで大豆生田さんにご一考頂きたいプランがございます」
スマートデバイスから聚楽壁に、日本地図がマッピングされた。さらに、排他的経済水域ギリギリの距離だけ日本列島から離れた太平洋上に、未登録の島がマッピングされている。
「我がTKHでは、実験的に人工島を作る計画があります。もちろん未来都市化してね」
「ははぁ。さてはそこに懐古主義のような等級の低いジジィやババァを閉じ込める気だな」
「ご明察。当然自由な出入りなどさせません。孤島故に行き来する手段も限られていますからね。また未来都市化するとは言いましたが、同時に我が社の新監視システムの実験場ともします。牢獄のような環境となる故、一般的な未来都市で採用するにはまだ倫理課題だらけですが、放っておけばテロを起こすような老害たち相手なら丁度いいでしょう」
「姨捨島へ流刑というわけか」
大豆生田がせせら笑う。手応えありだ。
「人聞きの悪い。等級が上がれば戻ってこれるだけ、姨捨山より有情でしょう……ただ、憲法や倫理的な問題、国外は領土問題など、人工島計画実行にあたり大きな困難が待ち受けるでしょう。しかし乗り越えた暁には、完全な平和が約束された日本が誕生します。あなたも鬱陶しい虫に悩まされることも無くなるかと」
「戸叶ここに復活。と触れて回れば、私の口添えなんて無くともついてくると思うがね」
政府中枢だけでなく、国家機関のほとんどを事実上牛耳っている大豆生田と密談の機会を設けたのはこのためだ。予算の壁、法律の壁、国際的な壁を乗り越える上では、国の協力は欠かせない。即ち、この大豆生田を味方にできるかで明暗は分かれる。
とはいえ、未来都市の恩恵は大豆生田も散々受けてきた。いつの間にか、大豆生田も儀康という世界屈指のビジネスマンに依存している状態になっている。ゆえに、この二人の協力は既定路線だった。
「しかし……話を戻すが、妙だな」
酒も進んできたところで、大豆生田がふと疑問を呈する。
「先ほどTKHの社員が爆破される事件があったと言っていたよな? しかし懐古主義の役員が視察に訪れることは極秘だったはずだ」
「左様です」
「それでは、TKHの中に『懐古主義』のスパイがいるということになるな」
儀康は頷く。
それこそが、各方面に圧倒的な影響力を誇る大豆生田を呼んだ、もう一つの理由だ。
「そのスパイについては、私に心当たりがあります」
低いトーンで、大豆生田に本題を話す。
大豆生田にかかれば、たとえば事件を揉み消すことだって可能だ。
「この日本の文明を先に進めるにあたり、ひとつ目をつむってもらいたいことがありまして」
◇◆◇◆
次に梨桜と顔を合わせたのは、翌日の昼の事だった。居間のテーブルで新顔の家政婦が作った昼食を取っていると、模範的なスーツを纏った梨桜が帰ってきたのだ。
「仕事は決まったのか」
「ええ。案外あっさりと。等級が下がっても、実績があれば何とかなるものね」
次へのステップが決まって溢れ出る自由の成分が、AEサプリメントによって保全された美貌ににじみ出ていた。
「そうか、それは良かった」
今日も未来都市は平和だ。うららかな陽射しをばらまくカーテンの向こう側では、きっとすべての人間にとって生きやすい空間が広がっている事だろう。
ただし、儀康にとって人間とは社会へ貢献し、等級を得てきた者と定義される。
懐古主義のような、等級が低く文句だけ宣う連中は、人間とは見なしていない。
それは一人娘だろうと例外ではない。
「お前のような恥を世間に晒さずに済むからな」
刃物に背中から抉られた様に、理解が追い付かないまま振り返る梨桜。
同時、テーブルへ一冊の日記帳が置かれる、鈍重な音がした。
「一番辛かった時代の日誌だ。今も時折見返して、臥薪嘗胆としている。だが最後の一ページは書かないようにしていた……書いたら、私の成長が完了してしまうような気がしてな」
最後の一ページを開く。言葉とは裏腹に、文章が書いてあった。
何故最後の一ページに鎮座するのか意味がわからなかった、書いた記憶のない箇所がある
日誌というより、遺書だった。
『これを誰かが読んでいるとき、私は死んでいる。なぜなら私、戸叶儀康は、娘の梨桜から暴力を受けている』
エアカーが空を切るかすかな摩擦音。
都市を和ませる人工鳥の甲高い鳴き声。
通りに植えられた、遺伝子調整済みの欅のざわめく葉音。
平和な未来都市とは裏腹に、居間は静かだった。
精々、梨桜の乱れた呼吸が、繰り返されているだけだった。
父を一方的に何年間も嬲ってきたと、皮膚の隙間からあふれる冷や汗が雄弁に物語る。
「なんで、そんなものを、書けたの……」
「医者曰く、認知症の末期でも極まれに正気を取り戻すことがあったらしいな。その度に拘束されていただろうから、お前からすれば『なんで』とも言いたくなるだろうな」
日記から徐々に遠ざかる梨桜は、『拘束』という言葉を聞いた一瞬だけ、体を強張らせていた。図星のようだ。
「問題は次だ」
日記を掴み、最後の一ページ梨桜へと押し付ける。「い、いや!!」と悲鳴を上げながら目をそらすも、事実は変わらない。最後のページを彩るインクは、今更滲んだりしない。
『梨桜は私のパソコンを開いている。あれは未開発地方の未来都市計画と、都市間をつなぐ連絡手段の情報だ。分からない。なぜあんなものを。わからない。私はどうしたんだ』
認知症の頃は、辛苦を舐めていた時期の日誌すべてまとめても届かないような壮絶な日々だったのかもしれない。臥薪嘗胆として血肉にするべき日記の最後を飾るには、十分な地獄だったのかもしれない。そんな殴り書きだった。
まさか認知症が治った未来の自分に宛てたメッセージボトルになるとは、過去の自分は思いもしなかっただろう。
「呆然としていた私にパソコンを見せ、虹彩認証を済ませていたのだろう。パスワード含めた二段階認証にしてなかったのは私の落ち度だが」
「証拠がどこに……!?」
「確かにお前は大したシステムエンジニアだった。だからログも入念に消していたのだろう……だがお前よりも等級の高いエンジニアはそれなりにいてな。虹彩認証時のカメラログの復元に完了した。右も左も分からないような老いた私と、髪の毛掴んで無理やりパソコンに向かわせていたお前が映っていたよ。持ち出されたファイルの情報もな」
膝から力が抜けたが、梨桜は座り込めない。胸倉を儀康が掴んでいたからだ。
「TKHの情報を懐古主義に流していたのは、お前だな」
「ち、ちがう……私は、懐古主義なんか……」
「おかげで一か月前には爆破テロが起きた。未来があった我が社の若者が7人死んだ。未来だった役員が2人死んだ。未来都市計画は大幅遅延を余儀なくなされた」
日記帳の代わりに、今度はスマートデバイスから空間に3D画像を放射する。巨大な真空管を走る時速1200kmの地下チューブ鉄道のモデルが広がっていた。北海道と沖縄を、2時間足らずで往復できる技術だ。
「都市と都市を繋ぐ地下チューブ鉄道。これのセキュリティ情報や、新鉄道の開発情報。これも流出させたな。これがあれば稼働中のリニアモータに細工して乗客全員死亡の大事故を引き起こすことも出来る。そうすれば都市間のインフラは信用を失い、社会はパニックになる。未来都市の存続にさえ関わるだろう。そうなれば発展途上国のような非効率な2020年代に逆戻りだ!!」
沸々と煮えたぎる怒りに任せ、スマートデバイスを我武者羅に叩く。
「お前のやったことは、平和の侵害だ!!」
消えゆく地下チューブ鉄道の3D画像の傍ら、双方の呼吸は対称的だ。
ふー、ふー、と過呼吸気味に空気の悪循環を繰り返して、力なく座り込む梨桜。
ふー。ふー。と冷静に呼吸を落ち着かせる儀康。
儀康はタブレットを置き、再度日記を手に取る。
「私の認知症が治るまでの顛末はこうだ……一か月前、この日記を書いたであろう日のことだ。私が正気に戻っていたことにお前は気付いた。その時の私が、お前の悪事を看破したことも気づいた。幸いにも、お前は俺を抑えることに成功し、そして俺は認知症の波に呑まれた」
沈黙したまま項垂れる梨桜を無視して、独り言を儀康は続ける。
「システムに詳しいお前は、監視システム相手にはどうにか立ち回れた。だが人の記憶となるとそうはいかない。また俺が正気に返って、万が一自分の悪事をばら撒かれたら……気が気でなかったろうな。記録は殺せても、記憶は殺せない。そんなお前に、認知症の治療は渡りに船だった」
認知症の治療には、一つ副作用が存在する。
それは、ある程度認知症が進行した後の記憶が、すべて消えるというもの。
「だからお前は、認知症の治療を申請した。そして手術は上手くいき、認知症は消えた。記憶も消えた。だがそれでも不安は消せなかったようだな。お前は私が出社するたび、心配そうにしていた。気にしてたのは認知症の再発などではない。私がひょんなことから、禁断の記憶を思い出すことが怖かったのだ。違うか?」
沈黙。とくに肯定と捉えるつもりも、否定と受け止めるつもりもない。
最初から言いたいことはこれだけだ。
「介護疲れから私を傷つけていた事はどうでもいい。社会への貢献に増減はないからな……私が言いたいのは――」
わずかな物音で、梨桜が扉のほうを見る。
秘書の平井や、警察が構えている事に勘づいたようだ。梨桜が口封じの凶器を持ってくるよりも、儀康を取り囲む要塞のような陣ができるほうが早い。
「うるさい」
抵抗は無駄だと悟ると、梨桜が笑った。ただし、老人のように蕩けていた。まるで呆然とした認知症患者でも見ているかのようだった。
「うるさいうるさいうるさいうるさい!! 説教じゃなくて感謝だろクソジジイ!! 私は地獄のような世話をしてやったんだぞ!! 汚れ仕事をしてやったんだぞ!!」
罵声で入ってくる平井達。だがそれ以上近づかないようにと、儀康が腕を広げて制す。
「介護しなかったら等級が下がるって何よ、その老人贔屓の法律! 私があんたのクソを拭いてる間に、周りの等級はどんどん上がってく!! カムバックする余地が無くなるほど尽くしても、アンタの遺言には、遺産は全部会社に寄付するとか書いてあったし!! 等級も相対的に下がってく、資産は残らない!! どんなに頑張っても馬鹿みてえじゃないか!!」
「だから懐古主義の誘いに乗ったのか」
「ああ乗ってやったよ!! あいつら金払いはいいからな!! ついでに、小さいころから気に食わなかったてめぇにも一泡吹かせられる!! ざまぁみろってなああ!!」
自身の破滅を悟った、生命すべてを使った高笑い。
汚い花火だ。儀康は血のつながった女性に、呆れ果てていた。
「黙って介護だけをしていれば、まだ親子の情が残っていたから、お前の復職に協力してやれたのに」
「結果論よ!! これが十年前ならアンタはおっ死んでた!!」
「結果がすべてだ。そして等級がすべてだ。ずっと、言ってきただろう」
「ええそうね。娘が大犯罪者だったって結果のせいで、あんたの評判も、等級もガタオチね!!」
「娘? なんのことだ」
昨日まで娘として接していた、血がつながっているだけの女性は「は?」と外れた声色を出した。
「……まさか」
スマートデバイスから梨桜が個人情報の平面を投影した。血縁者にあたる部分が空白になっていた。逆に儀康からの個人情報にも、娘にあたる部分は存在しなかった。
つまり、儀康と梨桜は最初から親娘ではない、ということにされている。
「個人情報を、塗り替えたの……?」
「お前が私の娘であるという痕跡は、大体消した。メディアもよしなにしてくれるそうだ。進民党というところに、良き友人がいてな」
「大豆生田幹事長……」
見れば先ほどから佇んでいる警察も、どこか雰囲気が違う。国の汚点を隠すために結成された公安のような影の存在なのかもしれない。幹事長の手先だ。
「お前が抜いた人工島計画の情報にはなかったから教えてやるがな、いずれ監獄も姨捨島に集約するつもりだ。早速実験体一号が出てきてくれて嬉しいよ」
日本を未来都市にせんとする社会貢献の鬼、戸叶儀康は娘だった存在を、実験マウスとしか見ていなかった。
「流刑になった下等種族は、人としての扱いは受けない。よく覚えておけ」
◇◆◇◆
「それで、娘との最後の対話はどうだった」
「娘?」
高級料亭で、大豆生田は唖然とした。本当に娘がいたという事も忘れたような、儀康という男に。
「懐古主義に情報を売った女だ」
「ああ。これからも話すでしょう。実験マウスの対話テストとかで。まあ介護ごときに耐えられない弱弱しい精神ですから、そこまで期待してませんが」
日本の未来を背負う80歳に、大豆生田は心底恐怖していた。
実の娘ですらご飯を食べながら姨捨島へ流したこの男の等級は、進民党幹事長である大豆生田より上なのだ。
この男ならば、世界中を未来都市にすることが出来るだろう。
すべてが監視され、すべてが最適化され、障害は一つ残らず排除された、人類の
姨捨島流し かずなし のなめ@「AI転生」2巻発売中 @nonumbernoname0
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