【蜜柑】
天野小麦
小さな青果店
空は薄暗く、冷たい風が吹いていた。
あと3日もすれば、やがて雪が降るだろう。
そんな初冬のある日、私は蜜柑を買った。
それほど大きくもない、いたって普通の蜜柑を。
別に食べたいと思ったわけではない。
ただ、蜜柑を1個買えるだけの銭がポケットに入っていたので、何となく立ちよった青果店で手に取ったまでだった。
◇
「蜜柑、お好きなんですか?」
ポニーテールをぶら下げた娘は私から200円を受け取ると、橙色に光る小さな蜜柑を手渡しながらそう言った。
「まあ、果物の中だったら一番好きかもしれません」
私は真面目に答えたつもりだったのだが、娘は「くすっ」と笑った。
「すみません、つい…」
彼女はそこで口を閉じたが、言いたいことはなんとなく分かった。
「果物ってイメージないですよね」
私が苦笑いしながら言うと、娘は慌てて付け足した。
「いえいえ、とても似合ってますよ、蜜柑。なんなら、果物の中で一番似合ってると思います」
娘は真面目に答えたつもりなのだろうが、彼女の少しズレた返答に、私は思わず笑みが溢れてしまった。
そんなことがあって、私は毎日のようにその青果店を訪れては、果物を買っていくという日々を過ごした。
当然、私は店の常連になったし、娘との談笑も回を重ねるごとに増えていった。
本音を言えば、食事などにでも誘って、そこでゆっくりと話がしたいのだが、いかんせん私にはそんな勇気はなく、ただ自分の安月給を犠牲にして会うよりほかなかった。
◇
四季が巡り、約一年が経った頃、私はその日も銭を握りしめ、店へ向かっていた。
ボーナスが入った私は、今日ぐらいは甜瓜でも娘にプレゼントしてやろうと思い、普段より多めの銭を懐にしまっていた。
「あ!お客さん、今日もありがとうございます」
娘は普段より明るい笑顔で私を迎えた。
だが、それは私にとっては都合の悪いものであった。
「今日はやけに機嫌が良いけど、どうしたんだい」
「実は、結婚することになったんです。こんな私をもらってくれる人、そえそう居ませんから」
私は娘の口からその言葉を聞いた瞬間、辺り一面が真っ暗になってしまった。
酷い耳鳴りと動悸で危うく倒れかけたが、私は何とか冷静さを取り戻した。
そうか、彼女はもう17だ。
嫁ぐのには十分だろう。
私にはそれを止める権利も無ければ、立候補する資格もない。
唯一私に許されていたことは、彼女の店で蜜柑を買うことぐらいだったのだと、私は思い知った。
この日を境に、私があの店へ行くことは二度となかった。
◇
秋が終わり、また寒い季節がやって来た。
私は白い息を吐き、ザクザクと音を鳴らしながら歩いていた。
吹雪いてきたので近道にと、見知らぬ商店街を歩いていた私は、古びた青果店を見つけた。
私はそこで、蜜柑を買っていた。
夕焼けがそのまま映ったかのような、小さな蜜柑を。
彼女は今、元気だろうか。
ふと、そんなことが頭を通り過ぎた。
別に、好きなわけでもない。
ただ、あの甘酸っぱい味が忘れられなくて、また蜜柑を手に取ったのだろう。
私はコートに顔を埋め、そう自分に言い聞かせた。
【蜜柑】 天野小麦 @amanokomugi
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