【蜜柑】

天野小麦

小さな青果店

空は薄暗く、冷たい風が吹いていた。


あと3日もすれば、やがて雪が降るだろう。



そんな初冬のある日、私は蜜柑を買った。


それほど大きくもない、いたって普通の蜜柑を。



別に食べたいと思ったわけではない。


ただ、蜜柑を1個買えるだけの銭がポケットに入っていたので、何となく立ちよった青果店で手に取ったまでだった。



「蜜柑、お好きなんですか?」



店の娘だろうか。


ポニーテールをぶら下げた娘は私から200円を受け取ると、橙色に光る小さな蜜柑を手渡しながらそう言った。



「まあ、果物の中だったら一番好きかもしれません」


私は真面目に答えたつもりだったのだが、娘は「くすっ」と笑った。



「すみません、つい…」


彼女はそこで口を閉じたが、言いたいことはなんとなく分かった。



「果物ってイメージないですよね」


私が苦笑いしながら言うと、娘は慌てて付け足した。



「いえいえ、とても似合ってますよ、蜜柑。なんなら、果物の中で一番似合ってると思います」


娘は真面目に答えたつもりなのだろうが、彼女の少しズレた返答に、私は思わず吹き出してしまった。



そんなことがあって、私は毎日のようにその青果店を訪れては、果物を買っていくという日々を過ごした。


当然、私は店の常連になったし、娘との談笑も回を重ねるごとに増えていった。


本音を言えば、食事などにでも誘って、そこでゆっくりと話がしたいのだが、いかんせん私にはそんな勇気はなく、ただ自分の安月給を犠牲にして会うよりほかなかった。




四季が巡り、約一年が経った頃、私はその日も銭を握りしめ、店へ向かっていた。


ボーナスが入った私は、今日ぐらいは甜瓜でも娘にプレゼントしてやろうと思い、普段より多めの銭を懐にしまっていた。



「あ!お客さん、今日もありがとうございます」


娘は普段より明るい笑顔で私を迎えた。


だが、それは私にとっては都合の悪いものであった。



「今日はやけに機嫌が良いけど、どうしたんだい」


「実は、結婚が決まったんです。こんな私をもらってくれる人、そえそう居ませんから」



私は娘の口からその言葉を聞いた瞬間、辺り一面が真っ暗になってしまった。


酷い耳鳴りと動悸で危うく倒れかけたが、私は何とか冷静さを取り戻した。




そうか、彼女はもう17だ。


嫁ぐのには十分だろう。




私にはそれを止める権利も無ければ、立候補する資格もない。


唯一私に許されていたことは、彼女の店で蜜柑を買うことぐらいだったのだと、私は思い知った。



この日を境に、私があの店へ行くことは二度となかった。



秋が終わり、また寒い季節がやって来た。


私は白い息を吐きながら、ザクザクと音を鳴らしながら歩いていた。



吹雪いてきたので、近道にと見知らぬ商店街を歩いていると、私は古びた青果店を見つけた。




そこで私は蜜柑を買った。


夕焼けがそのまま映ったかのような、小さな蜜柑を。



別に、好きなわけでもない。


ただ、きっと私はあの甘酸っぱい味が忘れられなくて、また蜜柑を手に取ったのだろう。

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【蜜柑】 天野小麦 @amanokomugi

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