2.九月の儚さ

 大学生の夏休みは長い。大学によって時期は異なるだろうが、たいてい二か月ほどの休みが与えられる。この期間をうまく使うことが人間として成熟し、高めるために必要なことなのだが、生憎私はそうではない。昼に起きてゲームをして、バイトに向かい外が明るくなる前に寝る生活を繰り返していた。


 体感時間は受けた外的な刺激によって変化する、と何かの記事で読んだことがある。幼少期は未知なものが多く触れるもの全てが刺激であるため一日が長く感じるが、大人になるにつれてそういったものに慣れてしまうため短く感じるらしい。


 こんな堕落した生活に刺激などあるはずもなく、一日、一日と過ぎていく。気づけば九月も後半。長かった夏休みも終わりに近づき、少しづつ暑さも解消されてきたある時、ふと私の中でとある仮説が浮かんだ。


「九月ってみんな体感時間が短いのでは?」


 思えば九月に入り、九月が終わることに対してなにか特別な感情を抱いたことがない。もちろん、八月は思うところはある。夏休みが終わり、もうすぐ学校だ、という憂鬱だ。十二月ももちろんあるだろう。一年の終わりを感じるからだ。その前月の十一月も、私は終焉に向かう前兆のような恐ろしさ、または感慨深さのようなものを感じる。


 九月といえば体育祭!と言われてもピンとこない。九月と言えば、というよりむしろ、体育祭という目玉イベントがたまたま九月にあるだけという印象だからだろうか。それこそ誕生日とか、結婚記念日とかでないと印象に残らない月なのではと錯覚してしまう。


そんな九月を、なんて儚い月なのだろうと思う。すべて私の惰性が招いたこの時間の消失を、すべて自身のせいにされてしまうところも含めて。八月の花火は余情を残してくれる儚さだと称えられているのに、九月の儚さは悪だと、私にみなされているところも。


だがこの余情を残さない、すぐ過ぎ去ってしまう九月の日々も、また儚さなのかもしれない。


そう思いながら、私はパソコンを閉じ、久しぶりに日が変わる前にベッドに入る。明日の授業に寝坊して大学生活が泡沫の夢に終わらぬように。


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平安貴族は暇を極めていた 山田たか @yama_taka07

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