二百十日過ぎ

小野塚 

立春より数え二百十日の颶

曇天の下、渦巻く大気の流れが征く。

線香の細い煙が揺々ゆらゆらと立ち昇る和室に

単調な読経が響く中。誰もが皆、

無言で俯いていた。


 二百十日を過ぎ越して。


僧侶達の読む経が音階を更に上げる。

単調な言葉の羅列が高く低く響く中。

廿畳にじゅうじょうの、最も外れた隅で私はっと

白木の棺を見つめていた。


   空虚な、その真新しいはこを。





黑い荒濤あらなみが砕けては泡となって散る。

鈍色にびいろの空から強く吹き付ける風が

昏い波間を蹴散らして、更なる嵩濤たかなみ

そして嘆哭なげきを呼び起こす。

 あかい鳥居の間で篝火が音を立てて

抗うも、見る間もなく荒れ狂う風に

翻弄される。


元より、月は無い。



 何か、途轍もなく大きな影が。

ゆっくりと浮上する。


延々と続く岬の階段を下りて、征く。

玄々とした怒濤が砕けては散る。

大気が、そして海が。


    海淵より、静かに 唄う。


海の底には 何がある くらい煉獄

綿津見神わだつみくに にしん来たぞと 猫が鳴く 


 あかい鳥居の その先の くら波濤はとう

底深く 往きて戻らぬ道行は

 泡となりたる死出の旅


寄せては返す 波の音 深き海淵

玄々くろぐろと 出て集いし 魂呼たまよば

 月の無い夜 猫の声





武家のならいが色濃く残る家だった。

大戰おおいくさの前の不穏な空気が静かに満ちる。

 気づいた時には既に戰禍の中にあり

四方八方、塞がれていた。人々は皆

常に殺気立ち、遣る瀬無さの皺寄せは

いつも か弱き方 へと向かう。


 我慢のならぬ事だった。


「凾舘はもう駄目だ。」思わず発した

昏い嘆きは血反吐となって地面に

散った。誰もが思っていた事だろう。

けれど誰もが皆、耳目を塞いだ。


可惜あたら、命を無駄に散らすな。」

言って父は、真っ直ぐ私を見据えた。

その真剣な眼差しは一刃のやいばの如く。


命辛々砲火を潜り、遠縁の伝手つて

頼みに、否応なしに内地へと逃された。

 それが 今生のわかれ になるのは

わかっていたのに。私は、振り返る

事もしなかった。


父も兄も。最後まで 武士 として

散ったのだろう。



弟は、まだ四つ。父も兄も既に無い。

めしいた祖母と頼りない母、そして

幼い妹弟きょうだいだけが遺された。



明治元年、戊辰戰争。王政復古の名の

もと新政府を樹立した『新政府軍』と

徳川家を擁する『旧江戸幕府軍』が

ぶつかり合った。


戰況は、武力財力に優る新政府軍の

優勢。旧幕府軍も激しく抵抗するも、

進軍を止める事が出来ず。首魁しゅかいはじめ

多くの戰死者を出し、遂には降伏を

余儀なくされて


もと最大の内戰うちいくさは終結した。




蝦夷の地に残った者、厳しい北国に

見切りをつけて内地へと渡った者。

私たちは内地に渡り、小さな山の端に

一軒の屋敷を借りて漸く落ち着いた。


あれは、まだ肌寒さの残る中での

逃避行から数箇月。漸く白々とした

新盆の棚をしつらえた


     そんな時だった。


既に武家を捨て 網元 として

暮らしていたくだんの遠縁から、窮状を

訴える ふみ が届いたのは。


北の岬に根を下ろす彼等は網元として

巷の漁師を仕切ってきたが、漁獲の

かげりを潮にして陸へと上がった。

 凾舘の戰火から逃れてきた私達を

かくまって、あまつさえ内地への逃亡に尽力して

くれた恩義のある者達だ。


かつてのはまは豊漁に湧いて、人々は活気に

溢れ、岬の神社の朱い鳥居も美しく

紺碧の海、白い浜。楽しそうな海鳥。

色取りどりの大漁旗に舟歌が。いつか

見た長閑な漁村の景色。


    それが


此処に来て、魚が全く獲れなくなった。

陸に上がる事を決意して尚 網元 と

しての責務を迫られて、二進にっち三進さっち

行かなくなったのだろう。

 

海神へのにえは まれびと を据えるという。


「於富よ、お前をるのは忍びない。

折角、戰火を逃れて内地に戻って来たと

いうに。」御祖母おばば様はそう言うと、

めしいた目から涙を流した。


 けれども私の心は決まっていた。


        とうの昔に。




冷たい土間には夏の光が、未だ

かまびすしく泣きわめく蝉のこえを運んで来る。

三和土たたきに昏く長い 影 が差した。


何方様どなたさまで御座いますか。」「…。」

まるで影の様な洋装の男が、勝手口に

立っていた。

「富というのは、お前の事か。」顔は

茫洋として分からない。そもそも逆光だ。

「如何にも、富は私で御座います。」

「身投げに征くのか。」影の様な男は

そう言った。


「身投げなどでは御座いませぬ。」

は、お前達が考えている様な

ものではない。お前が身を捧げたとて

只、だ。」

「…承知しております。」言われる

迄もない事だった。

          それでも。


「信仰か。」男が小さく笑ったのが

わかった。只、その表情はようとして

知れず。「…お前は 神 になるのか

それとも 胡乱うろんなモノ になるのか。

人とはつくづく愚かなものよ。」


「ならば、其方そなたは人にはあらずと?」

「人とは愚かなものだ。幾ら過ちを

繰り返しても少しも学ばぬ。ましてや

立ち止まる事も立ち戻る事もない。

だが人であるのを自ら捨て去る事は、

永劫の煉獄に身を置くのと同じ。」


 只、揺らゆらと、昏い陽炎が。


上りかまちの中に差す、長い昏い影。

きっと、この男も又、死に損ないの

影法師なのだ。

責める理由のない事で自分を責めて

後悔の中、生きる事も死ぬる事も

出来ないでいる。

         私も同じだ。


  Να είσαι

    αληθινό φως


「…ッ!」一瞬、突風に舞い上がる

土煙を着物の袖で避け、顔を上げると

影の様な男はもう何処にも居なかった。






おおかぜの岬には沢山の人々が。


北の海の激しい波濤は見る間にいで

私の意識は精煉せいれんして行く。幾多の嘆き

悲しみをって尚、私には

あった。愚かで淺ましくも、懸命に

生きる者達の


 その 行く末 を見定める。


嘗て豊漁に湧いたこの岬の、明神様の

眷属たちと共に。


    この大気と海との陌間はざまで。



玉依毘売たまよりひめ、八百比丘尼 


 

煉獄より浮かびいでて波濤を見つめる。




   









擱筆


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二百十日過ぎ 小野塚  @tmum28

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