下
陽咲は、不意にリュウホの額の小さな汗を、近くにあったハンカチで拭いた。
リュウホは、麦茶の入ったコップに伸ばしていた手をそのままにして固まる。
「ありがとうございます、人は日射病とか気をつけないといけないのに」
「別にご心配なく。愉貴やお姉ちゃんと一緒に外に出ること多いので。夏の暑さにも、冬の寒さにも、いつの間にか慣れてしまいました」
陽咲は、楽しそうにリュウホの額の汗を拭き、髪に触れてそっと笑んだ。
「話、聞いてくれてありがとう。リュウホさんこそ、もう立派なお侍さんです」
「それはどうだろうな」
リュウホは陽咲に半分ほどまで吸った麦茶を手渡する。そして余裕そうな態度の彼は手で大袈裟に顔を隠して照れてみせたのだった。
「袴着? って言うべきなのでしょうか。乾いたみたいでよかったです」
陽咲は安堵しているような微笑をする。濡れていた部分は、三人が外で過ごしていた間に乾いてしまったようだった。
愉貴は、「リュウホさん、お家に帰るってよ」と陽咲に起こされ、眠たい目をちょっと開けて、陽咲の側にリュウホの顔を見る。眠りにつく前に髪型の話が聞こえたことと関連があるのか、リュウホは丁髷頭ではなくなっている、ということに多少驚いたが、服装や顔立ちはリュウホで間違いない。
「帰っちゃうの?」
「リュウホさんのお家は、地球じゃないからね」
陽咲が困ったように言うと、愉貴は寝起き早々泣き出しそうな顔になる。
「もっと、一緒にいたい」
共働きの両親、祖母は病気がちで最近は会うことが制限され、一人の姉は遠い場所で美術のお勉強をしている。愉貴は、この男と遊ぶことが楽しかったのだ。密かに、早く成長して、ちょっと寂しいだなんていう感情を、顔に出さない陽気なお兄さんになりたいと思っているが、時にはたくさん甘えたい。リュウホは、それを受け入れてくれるような奴でもあったのだ。
「また会う時も、無邪気で僕なんかにも優しくしてくれたそのままの君で僕に声をかけてほしい。いや、僕が愉貴くんを見つけて先に声をかけてしまうかもしれないな」
眩しいくらいの笑顔で、リュウホが愉貴に微笑みかける。
陽咲は軽く礼して立ち上がると玄関の扉まで案内したのだった。すると去り際に何かがふわりと宙に浮いた瞬間が目に入ったため瞬きした瞬間にはもう明日会う約束をしたような別れ際だったこととあまりにもいろいろなことがあったためにサラーッと長い夢を見てたんじゃないかと思う程だった。しかし、確実に麦茶を飲んでいた空のコップはテーブルの上にあった。
夏の午後、リュウホが去った。そして陽咲は、いつもなら思ってもみない考えが頭から離れなくなってしまっている。
「愉貴、明菜お姉ちゃんに電話かけるから、最初に出てくれない?」
覚悟を決めた様子の陽咲を見て、愉貴はどうしたんだろうという感情が胸の中に広がる。最近、姉二人が仲良くないような気はしていたが、友人関係は姉にあるから距離ができてしまったのだろうと、解釈したそのままにしていたのだ。陽咲が明菜のことでよく悩んでいることはなんとなく知っている。
「いいよー」
陽咲はスマートフォンを愉貴に手渡した。
油絵の作品や、画材が広がる大学のアトリエに、ミルクベージュ色の長い髪を一つに結って浮かない顔を浮かべている女子美大生がキャンパスの前に立っている。可愛げもあり、美しさ兼ね備えた容姿を持っている女子美大生。名を明菜と言った。
夏の暑さのせいなのか、制作が思い通りに進んでいないのか、唇を尖らせている。
美人モデルと言われても素直に信じてしまうような端正な顔立ちの女性で、翡翠色のカラコンを入れている瞳には美しさしかないだろうというほど研ぎ澄まされた剣呑さを携えていた。
彼女は椅子に座りながら首に手をやったり缶コーラを口にやるくらいだが、様になっている。
スマホのバイブ音が鳴り響き、アトリエの入り口の方まで歩きながら誰がかけてきたのかと、画面を見てみる。
「陽咲……?」
感動のあまり、なのか驚き過ぎてということなのか、明菜自身よくわかっていない。だけど、涙が出てきてしまいそうだった。
「もしもし、明菜お姉ちゃん?」
しかし、電話の先から聞こえた声は少年声であった。
「あ、ああ、愉貴! 元気にしてた?」
「うん! さっきね、宇宙人に会ったの!」
「あ、そっかあ」
期待していた人ではないけれど、自分の弟の声を聞くことができて、明菜は嬉しくなった。
バレエをやっていたせいで細身になっていた体つきが原因なのか、絵で賞を取り続けていたからなのか、中学に入ってからは同級生と仲良くなれていなかった。
楽しかったのは、妹や弟と話すことくらいで、バレエためにと理由をつけてやっていた柔軟は気持ちを落ち着かせるため、静かに感情を殺すために行なっていた時期もあったなと、明菜は頭の中で振り返る。
図工の時間に描いた絵が、陽咲の憧れになれた。明菜は嬉しかったとはいえ、いつしか、「お姉ちゃんと私の絵はレベルが違う。お姉ちゃんには劣る」と暗い顔をするようになった妹を見るのは苦しかった。
陽咲が中学生の時、美大受験を希望し、受験をした。合格し、明菜は東京の寮で一人暮らしをしている。家から通うとなると、通学に三時間以上はかかってしまうからだ。交通費や時間の面を考えて、合格者となることができれば、一人暮らしをすることを受験する前から両親と決めていた。
寮暮らしをして、まだ数ヶ月しか経っていない。けれど、既に寂しさを感じている。
「宇宙人さんは、優しかった?」
「うん! また会ったら、声かけてくれるかもしれないんだ! けど、オレから話しかけて、驚かせたい!」
「そうなんだあ、お姉ちゃんもちょうど宇宙の絵、描いてるの。モチーフが宇宙でね――」
「――そうなんだ」
明菜は目を大きく見開いた。電話の向こう側にいる女の子の声が懐かしく感じる。少し気怠るそうではあるけれど、その何倍も元気にしゃべってくる昔の妹を思い出してしまう。
「陽咲?」
「そうだよ」
忘れていた記憶はすぐに戻るものらしい。
小さい頃の二人は双子のようだと言われていたこと。
帰りが遅い両親の顔を見たくて二人で夜ふかしをしようとしたけれど、お祖母ちゃんに寝るように言われたこと。
バレエで賞をとって、絵で賞をとって、輝かしい目で近寄って話しかけて一緒に笑って話したりした日々。
応援していたけど陰ながら支えていたつもりになっていたけれどそれが重荷になっていたかもしれないことまで思い出した。
「陽咲、久しぶり」
「うん」
明菜は、何を話せば電話が長くできるかを、頭を回転させてよくよく考え始める。「えっと」や「あー」で時間を稼いでいる間に、陽咲が話をし始めた。
「今までごめん、勝手にライバル視し過ぎていたんだと思う。一番憧れがお姉ちゃんだったから、『お姉ちゃんになりたい』が『そうならないと気が済まない』に変換されちゃっていた」
明菜は、この数秒で陽咲が中学生の時の感情や今までの行動理由をわかってくれたことに驚いている。明菜も、自分の中で苦しみがどんどん膨らみ爆発して甘えられないような自分に葛藤していたことに気づくことができて救われた気さえするのだった。
「やっぱ、お姉ちゃん良い子すぎるよ。私が完全に悪いのに」
電話の向こうで苦笑しているのがありありと伝わってくる。器用な妹だということをたまに忘れていた、そういうことを明菜は思い出す。姉らしくあろうと決意したら嬉しくて笑ってしまいそうになってしまい、それを悟られまいと明菜は口を軽く閉じてから、話をする。
「私ね、『この子が悪い』『あの子が悪い子』っていう言葉は好きになれないの。だってさ、『あの子』も『この子』も、自分のために頑張っている。他の人のためかもしれない。その頑張りが空回りしてしまっているだけで」
明菜は「だから、陽咲は悪くないの」と付け足して、「ありがとうね」と陽咲に言う。そしてまた沈黙が訪れた。
「……お姉ちゃん?」
「ん? あ、何?」
「家に、宇宙人来たんだよ」
「え、本当に来たってこと?」
愉貴の年齢では、聞き流してしまうような話であったが、陽咲がいうと現実に起こったような気がしてたまらない。明菜は声のトーンは抑えているとはいえ、かなり驚いている。
「また、電話するから。その時にする話として、とっておく」
電話の向こう側で照れ隠しをしている顔が目に浮かぶ。
「うん、ありがとう」
「じゃあ、またね」
「うん、また」
明菜は、陽咲との会話が終わり少し視線を宙へ流してからスマートフォンを片手に持ったまま溜め息を吐く。元いた作品の前に向かって歩く。
前を向き直した。キャンパスには描きかけの宇宙が広がっている。
「完成、させよう」
明菜は作業に取り掛かった。
風雲児、扇子を携えて 千桐加蓮 @karan21040829
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