焼け付くアスファルトから逃れて
崇期
>>>
八月。暦の上では夏ではないよ──と言われたところで、誰が納得するのだろう? という気温が日本列島を掴んで離さない。
いや、もしかしたら、この致死的酷暑と無縁の地域がどこかには存在しているのかもしれない、と南北に長い地図とやらが頭をかすめるのだけれど、わざわざインターネットを開いて調べようだなんて思わない。体がだるい。極力何もしたくない。調べたって、そこに飛んでいける魔法の「夏への扉」があるわけじゃないしね。
わたしは車のハンドルを握っていた。こう言うと言い訳みたいになるのだが、愛車は八月が車検なので、ちょうど自動車修理工場に預けていて、代車を借りていた。普段とは違う、慣れない車だったから──ということなのか何なのか、ちょっとしたハプニングを迎え入れた。県道を走らせていたら、わたしの目の前に入り込もうとしている車の鼻頭が見えて──反対車線の、ぎゅうぎゅうに詰まった車の列の隙間からこちらへ来ようとしていて──その瞬間、わたしは急ブレーキをかけた。
それほどスピードは出ていなかったと思う。だが、わたしの後ろは車間距離を取っていなかったのだろう、「キューッ」というタイヤの軋りが聴こえた。だけれどもその車は何も言わなくて、後ろの後ろが短い警告音を一度鳴らした。
(止まれたから止まったけど、少し急すぎたか……。悪かったな)
割り込み車はハザードを焚いて「ありがとう(あるいはゴメンナサイ)」の合図をしてから、わたしの前を走りはじめた。
次の交差点では、黄色信号が点ったため、前の車がブレーキをかけて止まった。するとそこでまた後方からクラクションが鳴らされる。
(さっきの車だろうか。黄色だから止まるのは当たり前だと思うけど)
その後、わたしの前の車は左側のお店に入っていき、入れ替わりに車線に入ってきた車が先頭になった。再び交差点の信号に捕まり、青に変わったとき、ぼうっとしていたのか、先頭の車の発進が遅れる。
そこでまた例の車から激しい「早く発進させろ!」の催促。
(後ろの後ろ……ありゃ相当イラついてるな。陽射しもキツイし、毎日暑いし、わかるけどさ)
わたしのすぐ後ろの車が列から去っていき、警告嵐カーがわたしの真後ろにつく。わたしの心は曇りはじめる。ああ、なんか嫌だな。
わたしのドライブは休日の気晴らしではなく、夕飯の買い出しという確固たる目的があった。次の交差点を右折していつものスーパーマーケットへ行く(恐らくこれで後ろの車とおさらばできる)。わたしはゆっくりハンドルを動かして、ゼブラゾーンを踏んで右折レーンへと入った。
そのとき、「イライラMAX警告車」が、去っていく際に「ピー、ピピピピッ、ピッピッー!」と、まるで「塩でも撒いとけ!」というように浴びせていったのである。
(ええっ? わたし? わたしに怒ってたの?)
ちらと視線を送り、確認すると、リアガラスに派手なステッカーをいっぱい貼り付けた白の軽自動車だった。いかにも「憤慨している」というスピードで走り去っていった。たしかに急ブレーキは踏んだのはわたし。でも、黄色信号で止まったのも青信号で発進が遅れたのも別の車だ。あんなふうに怒りをぶつけられるようなことをわたしがやったのだろうか?
わたしの耳にクラクションの音がこびりついていた。心臓がドキドキして胸を圧迫しはじめる。わたしが悪かった? ……こりゃいかん。少し落ち着こう。
コンビニエンスストアの看板が見えたので、そこへ寄り道することにした。最近、嫌なことが続いていたし、こういう気持ちのまま運転するのもよくないだろう。負の連鎖というのがある。
涼しい店内に入って、少しだけ息をつく。食品棚の間に隠れて夕飯の相談をしている親子連れの会話を聴きながら、意識を無にするように努める。今は夏休み。まだ夏休みなんだ。毎日毎日、ご飯を用意している親は大変だろうな。
切らしていた調味料が思い浮かんだが、この後スーパーには寄るのだし、ここで買わなくてもいいだろう。わたしはdポイントカードにポイントが溜まっていたことを思い出し、「ポイントを使って冷たいカフェ・ラ・テでも飲むか」と考えた。
レジで支払いを済ませて氷の詰まったプラスティックカップを受け取った。マシンの前には、黒地に白い花柄の涼しげなワンピースを着たおばあさんがいて、マシンは一台しかなかったので、脇へ行って静かに待つ。
おばあさんがミルクや砂糖が入った棚の方へ体をよけたので、マシンの扉を開けて口蓋を剥がしたカップをセットする。
「あっ」
わたしは流れる汗を手の甲で拭った。汗が目に入った。おばあさんがこちらへ眼差しを向け、「どうかされました?」と訊いた。
「汗が目に入って……」
「ああ」眠たそうな感じだったおばあさんの表情が急に色づいて、言った。「毎日毎日すごい気温だものねぇ。関東の方なんて、四十度だって。うちの家の温度計もそれくらいにはなってたわ」
「そうですねぇ」とわたしも片笑みながら答えた。
汗も嫌だし、夏の暑さもうんざりだけれど、あの車のクラクションに比べたらそれほど怖いものでもないな、と思う。
焼け付くアスファルトから逃れて 崇期 @suuki-shu
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
参加中のコンテスト・自主企画
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます