【風になった男】掌編小説

統失2級

1話完結

その日もいつも通りの時間帯に仕事を終え、加佐武海は午後7時には一人暮らしのマンションに帰宅していた。シャワーを浴びた後、いか煎餅と冷凍食品のたこ焼きをつまみにビールを飲んでいると、玄関のインターホンが鳴った。恐らく宅配便だろう、そう思い玄関ドアを開ける。すると、リュックサックを背負い緑色の無地のトレーナーを着た20代と思しき男が立っていた。交わす言葉は無かった、その男は押し黙ったまま隠し持っていたナイフを取り出し、武海の腹を4度ばかり突き刺す。武海の31年の短い生涯はこうやって終わりを告げるのだった。


全てはあの男のリサーチ不足が原因だった。幽霊となった武海が見知らぬ高齢男性の部屋に上がり込みテレビを見ていると、犯人は24歳の芳賀孝宏という暴力団員だと判明した。武海は最近になってあのマンションに越して来ていたのだが、あの部屋には1ヶ月前まで暴力団員が住んでいた。芳賀はその敵対組織の暴力団員と間違えて武海を刺殺したと報道されていた。武海は激しく憤った。当然である。婚約者と新生活を始める予定だったマンションの一室で何の前触れも無く、また、何の落ち度も無い命が絶たれたのだ。武海は芳賀に復讐する決意を固めた。しかし、芳賀が捕らえられている留置場の部屋まで侵入したまでは良かったものの、芳賀を殴り付けようとしても蹴り上げようとしても、拳や爪先は芳賀の顔と体を擦り抜けるだけで何の手応えも無かった。芳賀を含む全ての人間が武海の姿を認知出来ずに居たので、視覚的に脅す事も無理だった。「俺は加佐武海だ、お前を呪い殺す為にここに来た」と叫ぶが、聞こえない様子で芳賀は無表情で本を読んでいる。人を殺しておきながら、読書という娯楽に没頭している芳賀の姿に武海の怒りは沸騰した。「こっちは手が擦り抜けて本も持てず、読書も不可能だというのに、何でこんな人殺しがのうのうと本を読んでいるんだ!!」武海のその虚しい叫びは武海の聴覚にしか響いていなかった。


武海が刺殺された初冬の夜から、13年の歳月が経過していた。この13年の間に芳賀は獄中の喧嘩で加工された歯ブラシの柄で首を突き刺され命を落としていた。そして、武海の元婚約者は年上の銀行員と結婚し双子の女児を出産していた。しかし、その双子が生後3週間を迎える頃には幸せそうな元婚約者の様子に堪えられなくなり、武海は元婚約者の家庭を観察するのはやめていた。武海の時間はひたすらに孤独な時間だった。


それから更に6万年が過ぎ去って行った。その頃になると武海は思考する事もほぼ無くなり、知能も小虫並みに低下して只の風の如く世界中を彷徨う存在になっていた。しかし、そんな武海でも数百年に一度の割合で、思い出したかの様に唐突に「美穂」と嘗ての婚約者の名前を呟く事はあったという事です。


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