TAKEMITHU

音喜多子平

第1話

 さる国に島田という小名の家があった。城下からは決して近からぬ、田畑に囲まれたような場所に家を持っており、禄だけでは暮らしが成り立たぬので畑仕事などをして生活の足しにしているような分かりやすい悴侍かせざむらいの家である。


 しかし、それも今は昔のこと。


 島田家はとある人物の働きで百五十石を賜るような出世を果たし、田舎侍の中ではそこそこの生活が送れていた。そして島田家を立身させたその人物こそ、島田家の隠居である島田正之助しまだしょうのすけであった。


 六十余年前、正之助は島田家の長男として生を受けた。剣術の腕前は下の下であったのだが、その代わりに学問や算術に目覚ましい素養を持つ男であったのだ。そして天下太平の世にあっては、むしろその才の方が高く買ってもらえていた。真相は定かではないが、当時の藩の留守居役の窮地を知識と機転と計算によって助けた事が、出世の要因と言われている。しかし本人が頑として真相を語らぬため、何を考えても憶測の域を出ることはなかった。


 正之助は一男三女の合わせて四人の子に恵まれ、先に言った通り既に息子に家督を譲って隠居生活になっている。そして息子の仁太郎にも二男一女の子供が生まれて久しく、孫すら縁談を考えなければならぬ齢を迎えるまで生き長らえていた。


 子宝どころか孫にすら恵まれ、六十を越え未だに体も丈夫。その上に金の心配もいらぬと傍目には絵に描いたような理想の隠居暮らしと言えるだろう。


 そして天保十四年、秋の事。


 味噌汁に庭で取れた野菜の漬け物という質素な朝飯を済ませた後。正之助は孫の平次郎に声をかけた。平次郎は彼の兄である正左衛門と二人で町に冷やかし目当ての買い物をしに行こうかと相談をしているところだった。


「平次郎」

「はい。何用でございますか」

「少し、供を頼みたいのだが急ぎの用はあるか」

「いえ…今日は取り急ぐ程の用もございませぬのでお供いたします」

「そうか、では昼を済ませたら出るからそのつもりで頼むぞ」

「承知いたしました」


 喜怒哀楽を感じさせぬ喋り方は正之助の性質だ。若い頃はもっと表情豊かな男だったと古くからの友人知人は言うが、孫の二人は正之助が笑った姿など数えるほどしか見たことがなかった。


 そうして祖父が再び姿を消した後、孫兄弟二人は一体何の供連れを頼んだのかとひそひそ話を始める。


「おい。久しぶりだな、お祖父様が出掛けようなどと」

「一体、何の用事でしょうか?」

「近頃は二人で上手くやっている。小言とは思わないが」

「かといって褒められる事にも覚えが…」

「俺もでなく、お前一人が呼ばれたと言うのも気になる。本当に何も心当たりがないのか」


 二人は頭を捻って善事悪事を問わず、平次郎一人がお供を頼まれた理由を考えた。


「強いてあげるとすれば元服したこと、とか」

「その祝いは小正月に親戚一同が総出で済ませたではないか」

「確かにそうなのですが、他に何が…」

「もしかするとアレではないか。道場の剣術大会で十一人抜きをしたことがあっただろう。五年も上の先輩まで薙ぎ倒した」

「え、いやしかし。その話は半年近くも前の事です」

「だからこそだ。島田家は俺も父上も、お祖父様もやっとう(剣術)はからっきし。そこへ来てお前のように腕の立つ者が現れたとしたら…どうだ。何か一つ高価な褒美でも与えたいと思うのが武士の道理よ。半年も待たせたと言うことは余程良いものかも知れん」

「それは皮算用が過ぎませぬか」

「いずれにしても楽しみだな。何を貰ったか、俺にも後で教えろよ」


 兄の正左衛門はニカっと歯を見せた笑みを浮かべる。


 弟だけが手柄を得たと言うのに、それをやっかむ素振りは少しも見せない。まるで自分の事のように喜んで見せる。確かに剣の腕前こそ勝っているとは思うけれども、秀でている者を率直に凄いと認められる兄の生来の性質が平次郎はとても好きであり、同じく羨ましくも思っていた。


 今でこそ仲睦まじい二人だが、子供の頃からそうだった訳ではない。


 兄の正左衛門は祖父に似て学問は得意だが剣術はまるでダメ。しかし元来、人当たりはいいので友達や近所の人にもよく頼られるような人間だ。世話焼き癖が小さい頃から抜けず、下手をすれば隣近所の娘よりも針仕事や料理ができる。他にも絵や謡い、説法、将棋、句、釣りなどを浅く広く器用にこなす才を持っている。


 対して弟の平次郎は人並みの読み書き算盤の他には剣を振ることしかできぬし、興味もないというような男だった。人付き合いもかなりの苦手で、例え農民町民であっても畏まって喋るのは一枚も二枚も皮を被らねば恥ずかしさ余り立ち行かなくなるからであり、とかく剣以外の事で矢面に立たされるのを嫌っていた。


 まるで誂えたかのように得手不得手が分かれていた二人は何かと衝突することが多かった。


 武士の子としてはどちらが正しいのかと、よく言い争いを通り越して殴り合いの喧嘩をしたことは一度や二度の話ではない。

 

 兄弟喧嘩はそんないがみ合いから飯の量に至るまで様々な理由で起こった。だが喧嘩の終わる原因はいつも一緒だ。


 普段は感情を表に余り出さぬ祖父の正之助が烈火の如く二人を叱りつけるのだ。そして喧嘩両成敗の言葉の通り、拳骨が下ったり蔵に閉じ込めたりして二人を仲直りさせる。


 ところで不思議なことに正之助が烈火の如く怒るのは、決まって二人が兄弟喧嘩をしたときに限っての事だったのだ。


 他所の子を殴っただの、他所の家の何を壊しただのと子供らしい喧嘩の原因は色々とあった。勿論、それらに対しても窘めるような小言はあったものの、兄弟喧嘩の際に見せる形相に比べれば仏にも見える。


 その事は兄弟だけでなく家の者も不思議に思っていたが、二人が兄弟喧嘩をするような年でなくってからは誰も気にしなくなっていた。


 ◇


 やがて昼を済ませると、正之助と平次郎は出掛ける支度を整えた。そして家の者に見送られつつ、何処に行くとも知れぬ供連れが始まったのだ。


 秋の日向はまだ暖かみがあるけれども、吹く風は冬の気配を孕んでいた。この辺りは毎年雪深くなるところなので、こうして好きに歩き回れるのも残り幾ばくか。落ち葉の道を踏みしめつつ、平次郎はそんなことを考えていた。


 普段から寡黙な正之助は笠を被ったことで更に顔が見えず、その考えを伺い知るのは容易なことではなかった。しかし歩く道から察するに、町の方へ行こうとしているのは予見できた。兄の正左衛門が言う通り何かを買うか、さもなくば旨い料理の一つでも振る舞う算段なのかもしれない。


 ところが正之助は小半時も歩いたところで差し掛かった辻を右へ曲がった。町に行くにはここを左に行かねばならぬのは祖父とて承知のはず。つまり町に向かうつもりはないということで正左衛門と平次郎の予感は大きく外れたと言うことだ。


 こうなるといよいよどこに向かっているのか分からなくなった平次郎はこの先にある様々な場所を想像した。しかし、何をどう考えても行き着く先が思い付かない。すると、不意に正之助が語りかけてきたのだ。


「平次郎」

「は」

「近頃、正左衛門とはどうだ?」

「…はあ。兄上とは未だに喧嘩をすることもありますが、仲良くしております」

「そうか」


 と、それだけで会話が終わった。再び静寂が二人を包む。


 平次郎は期待が空回りした分、今度は先行きがまるで見通せないことに少々不安を感じてもいた。生まれ育った土地であるが生まれてからこの方、この道を使ったことは数えるほどしかない。それも子供の頃に働いた好奇心を満たすためだけの事。記憶も曖昧で尚更不安を助長した。


 更にそこから田舎道を四半時を歩いたとき。正太郎は家を出てからようやく二言目の言葉を口にしたのである。


「あの茶屋で少し休むか」


 平次郎が祖父の肩越しから向こうを見れば、こじんまりとはしていたが確かに一軒の茶屋があった。茶屋のすぐ脇にはもう何十年と使われていない石段がある。少し登った先には朽ち果てた山門が見えたので、辛うじて寺であることは伺い知れた。しかし、その雰囲気から察するに廃寺となって久しいようだ。


 二人が茶屋の暖簾を潜ると店や隣の廃寺とは比べ物にならぬような若い娘が出迎えてくれた。


 平次郎は笠の紐をほどき、腰かけて一息入れるような体勢を整える。しかし正太郎は一向に休む素振りを見せなかった。


「お祖父様、如何なさいました」

「すまんがな、平次郎。しばらくここで一人、茶を飲んでいてはくれぬか」

「と、言いますと」

「お前に渡したいものがある。だが少し支度をしたい」


 そう囁かれて平次郎は思わず身を強張らせた。何と言うか名状しがたい覇気のようなものをその言葉に感じたのだ。


「この隣の石段を登ると廃寺があって、西側が少し拓けておる。儂は先に行って支度をするからお前は五平餅でも食いながらすこし待て。そうだな…ゆっくりと茶の三杯でも飲んだら上がってこい」

「承知しました」


 正太郎は細い目で平次郎を一瞥すると一度頷いた。そして返す足で店を出ると一人で石段を登っていった。


 ◇


 若い時分はこのくらいの石段はなんとも思わなかったが、今では一段上がるだけでもやっとの思いだ。それほど齢を重ねてきたのだと、草むした石段を噛み締めるように正太郎は登っていく。


 秋の涼しさが味方をしなかったら、もう少し苦労していたかもしれない。


 そうして廃寺まで辿り着いた正太郎は、息を整えるついでに柱が腐り屋根が落ちた本堂を眺めていた。やがて呼吸が整うと、手拭いで額を拭い庫裏の方へ回った。こちらは日当たりや風通しがいいのか、本堂に比べればまだ使えそうな装いは保てていた。


 正太郎は躊躇わずに庫裏の戸を開ける。かつては台所として使われていたであろう調理場の上には新しい木箱が置いてあった。中には袱紗に包んだ一振りの刀があり、それを手に取ると中を改めた。


 刀を見つめる正太郎の瞳には物悲しい光が宿る。


 しかし、それも束の間の事だった。刀を再び袱紗でくるむと踵を返しては廃寺の西側へと歩み始めた。

 

 寺の西側は開けた丘になっており、この辺りの様子が一望できた。


 正之助が辿り着いた頃には西に傾いた日が遠くの山頂の向こうに沈んでいた。夜が昼を食むように、少しずつ空の色合いが変わっていく束の間の黄昏時。長い時間を生きてきた正之助だったが、この薄明よりも美しいと思えるものを見たことはなかった。


 笠の縁から望むグラデーションを心置きなく瞳の中に入れる。ずっと変わらずにこの光景が続けばいいと思う一方で、一日の内に僅かの間しか見れぬからこそ価値のある風景だとも思っていた。


 すると、後ろから声をかけられた。


「お祖父様」

「…来たか、平次郎」


 正之助が振り向くと言いつけ通り、茶を三杯飲んでからやってきた平次郎の姿があった。


「実は元服の祝いに渡したいものがあったのだが、足労をかけたのう」

「いえ、このくらいの事は労苦とも思いませぬ」

「本来ならば孫のお前ではなく、子に託すべきなのだが…幸か不幸か儂の子の代に部屋住みになるような男子は生まれなかったからの。だからお前に渡したい」

「それはありがたき幸せ」


 返事をしたものの、平次郎の心は部屋住みという言葉でざわついた。


 平次郎は仁太郎の二番目の息子であり、当然ながら部屋住みや冷や飯食いと呼ばれる立場にいる男だ。


 武家は長男が跡を継ぐのが常である。女は嫁に出せるが、次男以降の男は稀な婿入りの縁談もなければ家に残り、厄介者として一生を終える事が多かった。多くは宛がわれた粗末な部屋に住み、当主が食べ終えた後に冷えた飯を配膳されることから、上のような別称がついたという。


 先にも触れたが平次郎は今年に元服を迎えており、兼ねてから正之助は彼の元服の祝いに密かに渡したい物があったのだ。その為にたかだか半時で来られるような場所にわざわざ供連れを頼み、その上で麓の茶屋で時間を潰させて支度をしていた。


「受け取れ」


 そう言って正之助は先程に庫裏の箱から出してきた袱紗に入った一振りの刀を平次郎へと渡した。


 受け取った平次郎はすぐに異変に気がついた。軽すぎるのだ。何をどう考えても真剣だとは思えない。


「お祖父様、中を改めてもよろしいでしょうか?」

「ああ」


 平次郎はすぐに袱紗をほどくと柄を握り、半分だけ刀身を抜いた。そして自分の感覚が間違っていなかったと確信した。


「…竹光」


 短く、そして微かな声で真実を呟く。


 寺の脇にあった竹林からそよ吹く風が二人の間を抜けていく。しばしの沈黙の後、正之助が尋ねた。


「元服祝いが竹光とは、と腹が立つか?」

「いえ。戸惑いこそすれ腹は立ちませぬ…もしや、これは何かの謎掛でございますか?」

「いや違う。正真正銘、儂からの祝いの品だ。部屋住みになるかもしれんお前へ渡したいのだ」

「…」

「侮るな、愚弄するなと怒りは湧かぬか?」

 

 平次郎は静かにそれを納刀すると、真っ直ぐに祖父の顔を見て返事をした。


「…怒りではなく興味が湧きます。ここまで足を伸ばし、孫の拙者に竹光を渡してまで一体何を仰りたいのかと」


 そんな返事を聞いた正之助は珍しくニコリと顔を綻ばせた。そしてしみじみとした声を出して自らの胸の内を語り始める。


「やはりお前を連れてきて良かった。そんなお前を見込んで話がある。だが今から話す事は他言無用だ。決して口外するではないぞ。父にも、兄にもだ」

「承知いたしました」


 二人の間に、まるでこれから果たし合いをするかのような緊張感が走った。すると正之助はその覇気とは似ても似つかぬような優しく、そして懐かしむ声を出した。正之助の話は昔話から始まったのだ。


 正之助にはかつて二人の弟がいた。これは周知の事実だ。次男にあたるのが小次郎、三男が平蔵という。つまりは生きていたとしたら平次郎にとって大叔父にあたる人物である。そしてその二人が病のせいで早世しているということも平次郎は聞き及んでいた。 


「そう教えてきた。仁太郎すら儂の言葉を信じ、二人は病で死んだと思うておる。しかしな、二人が命を落としたのは病によるものではないのだ」

「…!」


 深く息を吸う音が平次郎の鼻から鳴った。正之助の話の意図や狙いが未だに読めず、奇妙な緊張感がある。思わず竹光を握る手に力が入ってしまっていた。


「では…お二人は何故、お亡くなりに?」

「平蔵は小次郎に斬られ、その小次郎は腹を切った」

「…っ」

「だが訳あって二人の死は病とした。お主が聞き及んでいるのは勿論、藩にもそう届け出た」

「それは…」


 虚偽の報告で藩を欺いた、という罪の告白であった。平次郎は目を丸くして紡ぐべき言葉を探したが、一体どうしていいのか分からない。彼は聞き役に徹する他無かった。


「事の発端は三男の平蔵だ。平蔵はあろうことか盗賊一味に手を貸して大店に押し入っては店の者を手にかけた。お主も知っているだろう、福地屋だ」

「福地屋に!?」


 福地屋はこの一帯で名を轟かす呉服問屋の屋号だった。藩主にも献上されるような上質な織物を扱う高級店で、縁遠い貧乏侍であっても名を知らぬ者はこの辺りにはいないだろう。


 そんな由緒正しい大店の名が出たことも驚きだが、それよりも何よりも驚愕すべきは悴侍とは言えども武家の家から盗賊が出たという事実。下手を打たなくても御取り潰しの裁きが下ることは必至の所業だ。


「儂の剣の腕前からは想像も付かぬかもしれんがな。小次郎と平蔵の二人は、世が世であれば天下に名を轟かす事になったと称されるほどの達人だった。儂などは早々に追い抜かして二人で切磋琢磨していた。この泰平の世に剣は役に立たぬぞと何度負け惜しみを言ったかは知れん」

「…」

「だが、それが仇となった。今言った通り、この平穏の世の中では剣の腕前があったところで出世は難しい。しかも二人は冷や飯食い。腰の抜けたような剣しか振るえぬ儂が長男というだけで家を継ぐのはさぞかし面白くなかったであろうな。それはお前もそうなのではないか?」


 正之助が言った通り平次郎と兄とを剣で競わせれば、十回やって十回とも平次郎が勝つだろう。わざわざ口にこそしないが、それは兄弟や島田家だけでなく武士仲間達全員が思っていることだ。


 しかし平次郎はされどと少々強く声を出して返事をする。


「されど、兄上はお祖父様に似て頭が働きます。そして何よりも人としての情に厚い。今の藩には寧ろ兄上のような方が必要かと存じます。刀などは抜かずに済めばそれに越したことはない。拙者は刀を抜いた戦いはできますが、兄上は抜かぬ戦いのできる方」


 正之助は無言で頷く。自分が伝え、諭したいと思っていた事を全て平次郎が承知していたので言葉に詰まったのだ。しかし、それは喜ばしいことだ。これで心置きなく弟二人に起こった事の仔細と、なぜここで竹光を託すのかを説明できるのだから。


「上の弟である小次郎もお主と似たような考えを持って事ある事に儂を立ててくれていた。しかしな、平蔵は違った。悪事に手を染めはしたが悪人ではない…少なくとも儂はそう思っている。だがあいつは剣を振る以外で己の身の立て方を知らなんだ。そこを盗賊につけ込まれたのだろうな」

「一体何が…」


 正之助は目を細め、平次郎の持つ竹光を見据えた。彼の纏う雰囲気が途端に物悲しく変わる。


 □


 四十余年前。


 正之助、小次郎、平蔵の三兄弟はこの界隈ではそこそこ名の知れた兄弟であった。それもひとえに下の弟二人の剣の腕前が有ってのこと。


 しかしながら、ここは所詮は田舎で生まれた家は小名。平蔵はその生まれ持っての才能を発揮できずに日々を悶々としながら過ごしていた。


 ところが、ある日を境に平蔵の様子が変わった。力を持て余して粗暴に振る舞うばかりの男が親兄弟や友達に何かを買ったり、酒を奢ったりと急に金払いがよくなったのだ。


 平蔵は旅の武芸者に野良試合を申し込まれた末に自分が勝ち、その対価としてそこそこの金子を受け取ったと言ってきた。


 彼の剣の実力を知る者たちは、そういう事もあるかと納得していた。かくいう正之助もその話を信じ切っていた。だが、次男の小次郎だけは違った。小次郎だけは平蔵の剣に何か余計な物がこびり付いていたことを見抜いていた。


 そして、それが決して褒められたものではないことも。


 それでも今ひとつ確信に至れなかった小次郎だったのだが、ある日平蔵から内密な呼び出しを受けた。小次郎は自分の半信半疑な念が弟に伝わったのだと思った。


 正之助と平次郎が訪れているこの廃寺は、実を言うと三兄弟が子供の頃から使っている隠れ家だった。兄弟達は悔しい事や悲しい事から恋路の話など、他人に秘しておきたいような会話や相談をする際には決まってここを使っていた。だからこそ、ここに呼ばれたということに小次郎はひとかたならない思いを抱えていたのだ。


そうして夜分に小次郎と平蔵の密会があった。


二人は二つの提灯の灯りを頼りに平蔵の持ち寄った五平餅を食べていた。趣味、思想、体格や女の好みに至るまでてんでばらばらで兄弟らしさを見せぬ三人であったが、唯一の共通した好物がこの五平餅であった。


「やはりこれはいつ食べてもうまい。なあ、平蔵」

「ああ…けどな兄者。世の中にはもっと美味い物がごまんとある。そしてそれは金がなければ買うことはできん。そんな餓鬼でも知っているような事を俺はこの度の事で痛感した」

「それはそうかも知れん。だが美味いと好みは別だ、この前にお前が食わせてくれたご馳走は美味かったが、好きなのはこの五平餅さ」

「…」

「それにいくら金があっても味わえぬものもある」

「それは?」

「やっとうからっきしの兄上と心配しかかけぬ弟と泣いて笑って食う飯だ」


 ここまで険しい顔を貫いていた平蔵がほんの少しだけ口角をあげた。


 しかしそれも束の間。反動のように更に表情を強張らせて尋ねてきた。


「兄者は…」

「ん」

「兄者は悔しくはないのか、憤りはせぬのか。武士としてまともに剣を振れぬ兄上が、ただ真っ先に生まれたというだけで家督を継ぎ、次男三男は方々に愛想を振り撒き婿入り先探し…それが叶わねば厄介者扱い」

「思うところがない、といえば嘘になる」


 てっきりお得意の説教でも飛んでくるかと思っていた平蔵は思わず頭を上げ、小次郎の顔を見た。まさか自分の意見に賛同してくれようとは思ってもみなかったのだ…しかし、それもすぐに打ち消されてしまう。


「だが、それも運命よ」

「違う。いや、確かに生まれ持ってくるものは決まっているかもしれぬ。だが、それは如何様にも変えられよう。金があればそれが叶う」

「金は剣に同じ。使いこなすには腕と才がいる。足らぬ足らぬくらいが丁度よいのだ」

「そんなものは貧乏人の戯れ言」

「金があれば全てが報われると思っているお前の言葉こそ貧乏人の浅ましさよ、平蔵」


 平蔵は歯を食いしばり、顔を歪ませた。


 これは小次郎の売り言葉に腹を立てたのではない。ここまで食い違う互いの考えに腹が立ったのだ。


「人は、人は何かを残したいのだ。家を、子を残せぬ我ら。いや、仮に跡取りに生まれたとあっても世に名を残したいと思うは人の道理、武士の道理、男子の道理じゃろう」

「…それが悪名であってもか」

「ふっふっふ。やはり兄者だけは気がついていたか」


 二人は互いを目で牽制しながら刀に手を伸ばす心構えを作った。並んでではなく、向かい合って座ったときからこうなるのではないかと二人には予感があった。それが証拠に二人とも鞘を帯から抜きこそしたが、右に置くことはしなかったのだ。


「仲間になれとはいいません。どうか知らぬ存ぜぬを通してくれませぬか。俺は山に山菜でも取りに行ったきり戻らぬとでも言えば、家に迷惑もかかりますまい」

「盗み、押し入りに使うために剣の腕を磨いてきたのか? それが如何様にでも変えられる運命か?」

「使い道の無い剣よりは報われましょう」

「俺の剣はもう十二分に役目を果たしている」

「役目…」


 意味深な小次郎の言葉に、平蔵の闘気が少し和らいだ。


「弟二人に剣術で負ける兄の気持ちというのを考えたことはあるか。どれほど惨めであろうか考えたことはあるか。兄上がどれだけ口汚く罵られているか知っているか」

「…」

「それでもあの人が俺達をやっかんだことがあったか。兄貴面を笠に着た事があるか? できぬものはできぬと悔しさを飲み込んで、勉学に励む兄上の背中を見て何も感じなかったのか」

「ならば…兄者は何を思ったというのだ」

「俺は兄上に弱さを教えるために遣わされたのだ」

「弱さ…だと」


 拍子抜けする答えに平蔵は面食らった。しかし小次郎の目は決して冗談や方便を語っている雰囲気ではない。


「いつか、お前と同じ葛藤を酒の勢いで兄上にぶつけたことがあった」

「…初耳だ」

「その時に兄上は言った。お前たちが自分より秀でてくれたからこそ、自分はできぬ者の立場に立てた、と。自分には幸いにも勉学の才があるが、お前たちのおかげで驕ることの無いように心構えができた。お前たちがいなかったら、自分は才をひけらかし島田の名に恥じるような事をしたかもしれない。お前たちが島田家を自らの剣で救った、と」

「…」

「嬉しかったさ。家を継げぬとも剣を磨いたことで俺の欠片ひとつでも島田の家に残ることだろう」

「詭弁だ。小賢しい兄上に上手く丸め込まれただけだ」


 部屋の中に平蔵の怒号が響き渡る。梁の上のネズミが慌てて消え去る気配が伝わってきた。


「…そうかも知れん。が、口が達者なのも兄上の才よ。兄上にないものを俺達が持っているように、俺達にないものを兄上は持っている。足らぬところを誰かが埋める。世の中それで回っているではないか。血を分けた兄弟であれば尚更。違うか」


 すると平蔵は今見せた叫びとは対称的な静かな物腰で声を出した。そして刀の柄に手を掛けた。


「本当に、血を分けたかどうかが疑わしいほどに噛み合いませんな」

「…ここまでのようだな。無念」


 二人は立ち上がる事はせず、座したままに間合いを読み合う。体は動いていないのに、じりじりと気合の距離を詰めていく。互いの手の内は知り尽くしている。しかし二人とも決して引くことのできぬ覚悟を持っていた。


 やがて、その時は訪れる。


 互いの持ち寄った提灯の蝋燭が揺らめき、部屋の溶暗が微かに変わる。その刹那、二人は抜刀した。が、ほんの僅かに平蔵の方が早い。小次郎はせめて相討ちにでも持ち込むつもりで自分の命を捨てた。


 小次郎の右肩に衝撃が伝わる。やはり平蔵の方が早かったが、それでも一心に刀を振り抜く。


 辛うじて相打ちには持ち込めたという手応えを感じた。


 しかし、斬られたのは平蔵だけだった。


 それもそのはずである。平蔵が抜いたのは真剣ではなく竹光だったからだ。


「た、竹光…」


 小次郎は刀を投げ捨て、血溜まりに倒れる平蔵を助け起こした。


 しかし、彼の目にもう光はない。


「平蔵。なぜだ。なぜ……」


 □


 正之助は深く吸った息を細く、長く吐き出した。


「…小次郎はそれからすぐに戻り、事の子細を儂に伝えた。平蔵の懐には福地屋を襲った賊の仮宿を記した紙があってな、それを頼りに賊を退治できた。以後、当時の留守居役であった岡田様の覚えめでたくなり、そこそこの禄を賜われるようになったというのが出世の種明かしだ」

「…小次郎の大叔父様は、その後に」

「ああ。賊退治の翌日に腹を切った」

「…っ」

「平蔵の死出の道行に付き合うと書き置きがあった。あやつが腹を切らなかったら島田も危うかったかもしれん」


 平次郎は力強く握りしめていた竹光に目を落とす。ただの竹光が鈍く光り、真剣よりもずっしりと重くなったような錯覚を覚えた。


「大叔父がこれを使ったのは…償いのつもりだったのでしょうか」

「償い、というと少し違うと儂は思う。剣を汚したくはなかったのではないかな。他にすがる物がなかった分、平蔵の剣術に対する信念は凄まじかった」


 そして祖父と同じく深く吸った息を長く吐き出した。


 いつからか癖になっていた、考えや想いを頭の中でまとめるときの独特の仕草だった。


 平次郎はそうやって正之助が自分をここに呼び出し、竹光を手渡し、門外不出の秘密を打ち明けてきた訳を考えた。


 祖父は伝えたいのだ。小次郎叔父の思慮深さを、平蔵叔父の剣術に対するひた向きさを、そして弟を不名誉な死で片付けてでも島田家を守ろうとする正之助の武士の強かさと空しさを。


 それは決して兄の正左衛門が不甲斐ないと言っているのではない。家を継げぬからこそ、何も残せぬ立場なればこその生き方もあると、不遇な孫に伝えたいのだ。


「この竹光、慎んで拝領仕ります」

「もしも、もしも正左衛門に二人よりも多く男子が授かることがあれば、目をかけてやってほしい。そして万に一つも我が末裔が道を間違えるような事があれば…」

「ふふふ。兄上に嫁も見つからぬ内に、それは些か気が早うございます」

「…確かにな」


 正之助と平次郎は失笑した。慎ましやかな笑い声が夕闇に溶け込んでいく。直に夜になるだろう。


「さあ、日も暮れますので帰りましょう。母上が夕げを拵えているはずです」

「すまんがな、平次郎。この黄昏が終わるまで時間をくれぬか?」

「…承知しました。ならば拙者は下の茶屋にて五平餅でも土産に買い求めております」

「うむ」


 平次郎は竹光を袱紗に包み直すと丁重に抱えて石段を降りていく。


 後には物憂げな正之助だけが取り残される。


 すると小鳥の気配が里から巣のあるであろう山の中に陰影となって飛んでいった。


 雀か、はたまた山鳥かは知れぬ。けれども飛び交う三羽の小鳥は実に仲睦まじい姿を正之助に見せていた。

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