The lament for the poverty

千織

貧の嘆き

 青年は、父親が事業の失敗で作った借金を代わりに返すために、日中夜働いていた。父親は流行病であっけなく死んだ。母親も朝から晩まで働く。母親の体は骨と皮膚だけのように痩せていて、髪はごわごわで白髪混じりだった。


 妹は三歳下で、まだ学生だった。他の友人たちのように新しい服など買えない。安く古着を扱うお店に行き、着古されて襟が伸びたり染みがついている(それでもまだ自分たちが着ているボロよりもマシな)服を着ていた。


 妹は可愛らしかったので、母親も苦労がなければそれくらい美しかったのだろうと、青年は母親の顔や手に広がるシミを見てそう思っていた。


 青年が子どもだったとき、学用品は母親の昔からの友人イリナからもらっていた。イリナの息子は青年の三つ上だった。妹はさらにそれをお下がりに使っている。イリナは、それらや服がいずれこの兄妹が使うことを見越して、息子に丁寧に物を使うようにと言うほど親身な人だった。



 青年は清掃員をしていた。建物の清掃、街の清掃、酷く臭うゴミ処理場の当番の時もある。当時、清掃の仕事は訳ありな人間がやるものとされていた。青年はそのような事情のため、幼い時から働かなくてはならず、お手伝いでお金を得るには訳ありな人間に頼るしかなかった。大人になって、そのまま清掃の仕事に就いたのだ。



 ある日、青年は風邪をひいて床に伏していた。母親は働きに出ていて、妹は学校へ行っていていない。栄養が十分でない分、たかだか風邪でも青年にとっては苦しいものだった。


 そこにイリナが訪ねてきた。たまたま出かける母親とでくわし、青年が風邪を引いていると聞いて食事を作ってきてくれたのだ。温かいオニオンスープにパン。柔らかく煮込まれた鶏肉。青年の干からびた細胞に血が巡っていくのがわかった。


 青年は、食事を半分残した。このとても美味しい食事を、母と妹にも食べさせたいと思ったからだ。イリナはまだあるから全部食べていいと言った。それでも青年は食事を残した。毎日一食で、ミルクとパンだけなのだから、胃袋がご馳走を受けつけないのだ。母親は、妹は結婚すればこの貧から抜け出せる、そのためには健康でいなくてはならないと言って、自分たちより少しだけ良い食事を妹に与えていた。青年もそれには賛成で、妹への贔屓を妬んだことはない。


 青年は、初めてイリナと二人きりになったので、なぜ自分たちに親切なのかを尋ねた。イリナは少し戸惑った様子だったが、話し始めた。



 イリナは事業家の娘だ。十六歳の時、青年の父親アントンと交際していた。だが、イリナは親が決めた人と結婚しなくてはならなかった。アントンは駆け落ちを持ちかけたが、イリナに勇気がなく、断った。アントンは見返すために自分も事業家になった。


 アントンの事業はうまくいった。そこで青年の母と出会い、結婚をする。アントンは金を湯水のように使い、その贅沢ぶりをイリナに見せつけた。イリナの結婚相手はケチで有名だった。


 だが、すぐに世界的な不況が訪れた。アントンの事業は傾き、その時に巨額の借金を作った。アントンは、金持ちがどのようにして金持ちであることを維持し、子孫に財を残しているかの智慧がなかったのだ。



 ここまで話して、イリナは言った。お金は稼ぐよりも使う方が難しいのよ、と。青年には、全く意味が分からなかった。


 イリナは、夢があり向上心の強いアントンが好きだった。本当はアントンと小さな家庭を持ちたかったのだと言う。だから、アントンの家族に少しでも力になりたいと、そう言われた。



 イリナは母親とほとんど同い年だが、肌は透き通るように美しく、髪は艶やかで豊かだった。熱でぼうっとしていた青年は、イリナが女神のように見えた。


 イリナはさらに果物を出した。ところどころ剥げ落ちているテーブルの上に置かれたカラフルな果物。下水の臭いの侵入を止められないくらいやわでモノクロなこの住まいの中では、まるで爆弾のような異様さで青年を緊張させた。


 イリナが、白魚のような指で、果物の皮をナイフで剥いていく。美しくカットされた果物は、自分たちより瑞々しい。見つめていると、イリナがフォークを刺し、青年の口元に果物を持ってきてくれた。青年はイリナにフォークを持たせたまま、果物を小さくひと齧りした。甘酸っぱい。日常、甘い物など口にできない。たった一口なのに、風邪による熱が引いていくように感じた。


 イリナは、母親と妹の分も果物を置いていった。イリナが帰ったあと、青年は自分の分の果物を食べ切り、その後、母親と妹の分の果物も泣きながら丸齧りして食べた。



♢♢♢



 イリナは、街で青年を見かけると声をかけ、わずかに金銭をくれるようになった。最初は断っていたが、そのお金で食事が豊かになり、明らかに自分が健康になっている実感が湧くと、ありがたくお金を受け取るようになった。


 イリナは、自分が援助していると知ったら気を遣うだろうから、このことは二人の内緒にしてほしいと言った。青年は、その通りにし、母親と妹には臨時の手当が出たと嘘をついた。



 青年は、妹にはきちんとした服を買ってあげた。新しい服を着た妹は美しかった。妹には好きな人がいて、この服を着て告白しにいくと言う。母親には欲しい物を聞いたが、ならば借金を返すために現金を、と言われた。残っていたお金は正直に渡したが、これからイリナのお金は自分と妹のために使おうと決めた。



 イリナは、本もくれた。青年は幼い頃から働いていたため、字がちゃんと読めなかった。イリナは青年のために、ルビを振ったり、解説を書いた紙を作ってくれた。青年は、ボロボロになるまで何度ももらった本を読んだ。この本は、妹にもあげなかった。



 度々、イリナは青年を小さな宿に呼んだ。本の解説や勉強を教えてくれるのだ。イリナは身分があるため、青年と一緒にいるところを人に見られるわけにはいかなかった。


 宿に入ると、イリナはいつものように果物の皮を剥き、青年に食べさせた。もうフォークは使わずに、イリナの指先から直接口にする。青年は健康で知的な面持ちになっていた。ハンサムだったアントンに似てきたわね、と言ってイリナは微笑んだ。


 青年は、イリナに自分にできる仕事はないかと尋ねた。青年は”計算”ができるようになっていた。そして、今の仕事を続けるだけでは、借金が返しきれないということがわかったのだ。青年は、妹の学生生活がまもなく終わるにあたり、妹に借金を返すためだけに働く惨めさを味わせたくなかった。


 イリナは珍しく深刻な表情をした。やはり、自分程度の人間がイリナの世界の仕事などできるわけがないのだな、と青年は思った。



♢♢♢



 まもなくして、青年の母親は病死した。風邪をこじらせて肺炎になったのだ。妹は、母親の棺に伏して泣きじゃくった。


 イリナは二人を養子にして、二人が背負うはずの借金を肩代わりして返した。青年はイリナの事業の手伝いをすることになり、妹は大口の取引先の一族の元へ嫁ぐことになった。妹はあの一大決心で結ばれた、素朴で心優しい恋人と別れなくてはいけない。青年は妹に尋ねた。妹は「お兄ちゃんのこれまでの苦労に比べたらどうってことはない」と、笑顔で答えた。


 事業の成功は、実のところイリナの手腕だった。夫は社交担当、息子は商才がなく芸術家になっていた。イリナは、夫が理解できず、息子が興味を持たなかった自分の持っている限りの智慧を全て青年に授けた。数年後、青年はイリナの代理を務められるほどに成長した。



 年に一度、青年とイリナは二人きりで墓参りにいく。父親と母親が眠る墓に。

 



(完)


▼解答編『罪と罰』▼

https://kakuyomu.jp/works/16818093083043481879/episodes/16818093083043545970

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The lament for the poverty 千織 @katokaikou

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