罪と罰

千織

善良な罪人

▼前編『The lament for the poverty』

――貧の嘆き――▼

https://kakuyomu.jp/works/16818093082989444226/episodes/16818093082989460316



 イリナは墓参りに来ていた。喪服に杖をついて。付き人の女が花を持ち、イリナを支えながら歩いた。墓前に花をたむけ、祈りを捧げるとイリナは教会の中に入った。


 告解室に向かうと、神父が小窓を開いたので、イリナは杖をつきながら慎重に中へ入った。付き人の女は、外で待つことになっている。


 神父といくらか言葉を交わした。そして神父が、”神のいつくしみを信頼してあなたの罪を告白してください”と言った。


 イリナは、しわがれた声で話し始めた。



♢♢♢



 私の罪は、いつから始まったのでしょう。 


 ダニールをタチアナから奪ったときでしょうか。


 いえ、きっと、アントンの愛を裏切ったときからなのでしょう。


 アントンは、私と別れてから、持ち前の強気な性格でどんどんと事業に手を出していきました。成功したアントンは、私の親友、タチアナと結婚しました。タチアナは、可憐な人で、言葉は悪いですが、世間知らずでした。アントンの飛ぶ鳥を落とす勢いにすっかり熱を上げて、ぞっこんでした。


 私は、彼女のことも好きでしたから、二人の幸せを祈っていました。でも、アントンは……私のことが好きでした。自惚が過ぎると思いますでしょう? アントンがタチアナを選んだのは私への当てつけで、それほどタチアナのことは……愛していませんでした。


 アントンはその強引さから敵を作ることが多く、世界的な不況で事業が傾き始めると、アントンに手を貸すものは誰もいませんでした。さらに追い討ちをかけるようにアントンは流行病にかかり、さらにはタチアナの両親もその病で亡くなりました。


 アントンは私に出会わなければ、非常に魅力的な男としての人生があったはずなのです。タチアナも、見栄のための夫婦関係や借金地獄なんかを味わう必要はなかったのに……。



 ダニールは、幼い頃からアントンに似ていました。性格は正反対で、繊細。誰にも感謝されないのに、いつも一生懸命、磨くように掃除をしていました。でもその努力が、痩せた身体から突き出た肩甲骨や、休みなく働き、寝不足で落ち窪んだ目を癒すことはありませんでした。


 私は、余計なお世話と思いつつ、彼と妹に息子のお下がりを渡しました。タチアナが、昔と変わらず心が綺麗だったのが幸いでした。彼女は、いつも屈託なく笑い、私に感謝してくれました。



 ある日、ダニールが風邪をひいたというので、見舞いに行きました。ダニールは本当に具合いが悪そうでしたが、風邪よりは栄養失調が原因のように見えました。食事をとったダニールが元気を取り戻していくのを見て、ホッとしました。


 私は、彼が私の差し出した果物を口にし、その魅惑の甘さに目を輝かせたのを見て、彼を援助しようと決めました。彼にはまだ人生でやれることがあると思えたのです。



 彼に度々小遣いを渡すようになると、彼は体調が良くなり、溌剌とし始めました。彼はそのわずかなお金すら倹約し、妹に服を買ってあげていました。初めて誰かに贈り物をしたダニールは、今までに味わったことのない悦びに満ちていました。


 妹は、タチアナに似て、おっとりした可愛らしい少女です。暮らしぶりさえよければ、たくさんの男の子に迫られて困るくらいだったのではないでしょうか。ダニールは恋をしたことがなかったので、告白がうまくいった妹のことを自分のことのように喜びました。


 一方で、タチアナには贈り物をすることができなかったと言いました。その頃、タチアナには彼氏ができていました。でも、あまり柄が良くない男という噂でした。タチアナも……心細かったのでしょう……。ダニールは、結局タチアナにお金を渡したそうなのですが、「僕は家の中でも労働者なんです」と寂しそうに笑って言ったのが忘れられません。



 私は、ダニールに本を与えました。字が読めること、本を読むことは世界が何倍にも広がることです。本を読み始めたダニールは、ダムに水が地響きを鳴らして落ちていくかのごとく、様々な知識を呑み込んでいきました。


 彼は、自分が社会から搾取される存在で、奴隷と変わらないことに気づきました。そうなれば、もう清掃員として生きることはできません。


 彼が歴史から経済から貪欲に学んでいく様子を見て、私は、彼が少し怖くなりました。新進気鋭と期待されていた頃のアントンと、同じ目つきだったからです。


 馬鹿馬鹿しいことだと思いながらも、昔の彼……誰が見ていなくても、隅々まで掃除をするようなダニールであってほしくて……果物を食べさせていました。私の手から果物を食べるダニールは、その時だけ、昔のあどけない笑顔を浮かべるのです。


 ダニールは、「この果物を剥いて食べている時だけは、自分のために時間が止まってくれているような気がする」と言っていました。



 ある日、ダニールは私に仕事の斡旋を頼んできました。ダニールの底知れない能力は認めますが、これまでの経験が違いますから、安易に今の人間関係に加えるのは難しいと思いました。すると、ダニールは言いました。



「母が男を連れ込み、男は妹を狙っている」と。



 私は自分の血の気が引くのがわかりました。私の脳細胞は急に回転し始め、一つの答えを導きました。そして、それをダニールに伝えました。


「……タチアナがいなければ、あなたたちを引き取ることができるのに……」


 ダニールが私の意図を汲むには、その一言で充分でした。



 まもなくタチアナは病死しました。でも、ダニールは……何も悪いことはしていません。ただ、タチアナを見守っていただけです。


 貧乏人が一人死んだくらいで、誰も何も気にかけたりなんかしません。母親が死んだ、そんなこと、世界中のどこにだってある話ですよね。ダニールに、そういう運命が待っていただけです………………。


 ………………すみません、取り乱してしまって……。



 ダニールは、妹のことをいつも心配していました。妹は、昔の私と同じように恋人と別れてしまいましたが、子宝にも恵まれ、今も幸せに暮らしています。私とは違って、ちゃんと上手くやれています。タチアナに似て、人懐こく、愛されて輝くタイプですから。



 ダニールは結婚しませんでした。私が夫に失望し、息子に捨てられて、”仕事が恋人だ”と言ったとき、ダニールは「じゃあ僕がイリナさんの恋人を最高の彼にしてあげよう」と言いました。


 ダニールは銀行業で才覚を表し、戦争をしている国や災害復興事業に貸付をして財を増やしていきました。彼の時代をよむ嗅覚や交渉は実に見事で、あれだけのお金を大胆に回せる度胸が一体どこからくるのか、私にもわかりませんでした。 



 そんな、事業においては負け知らずのダニールでしたが……七年前、流行病に倒れて亡くなりました。



 私は、こんな老いぼれになっても、ダニールが遺した仕事をしなくてはなりません。ダニールの喪失を悲しむ間もなく。もしかしたらダニールは、私が悲しみに負けてしまわないように……忙しさで時が流れて自分をうまく忘れられるように……”私の彼氏”を育ててくれたのかもしれません……。



 …………不信心が災いして、こんなにも罪を溜め込んでしまいました。


 今日までの罪を告白しました。


 ゆるしをお願いいたします。




(完)

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

罪と罰 千織 @katokaikou

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ