彼との出会い
服を脱ぎ、ようやく人目を気にせず中へ入っていく。昨日初めて温泉を体験した
だというのに昨日は
足を伸ばして思う存分癒されていると、前からこちらに向かって歩いてくる水音を含んだ足音がする。まさか自分意外にもこんなに早起きがいるとは。そう呑気に思っていたのだが、そのこちらへ向かってくる人物が誰なのか気が付いた時、静蘭は心臓が飛び出るかと思った。
そう、その人物とは
霊玄とは一瞬目が合ったが、特に何か言葉を交わすこと無く霊玄も湯へ入ってきた。
そういえば仮にも伴侶の仲だというのに霊玄の裸体を見た事は無かった。血の通っていないような白い肌、そして広い背に直角肩はどの名のある彫刻家が霊玄を真似て掘ったとしても再現できない程美しく、思わず見とれてしまう。静蘭とは違って筋肉質なようで、男らしいという言葉が良く似合う。
静蘭はふと我に返ると、今自分の置かれている状況に焦りが生じた。
自分の裸体も霊玄に全て見えているではないか。
目の前の霊玄は静蘭に興味を示さず、何も気にしていない。だから静蘭も何も気にするべきでは無いのだが、気にせずにはいられないだろう。静蘭は生娘のように頬と耳を紅く染め、気取られないように身体を隠した。
昨日は引秋や他の客に見られた所で多少の羞恥はあれど、ここまででは無かった。やはり霊玄の前だと自分はおかしくなる。
早くこの場から離れたいのだが、今湯から出てしまえばそれこそ裸体を堂々と霊玄の前で晒すことになる。周章狼狽としていると、意外にも霊玄が抑揚の無い乾いた声で話しかけてきた。
「お前、鬼が恐ろしくないのか?」
「……恐ろしい?」
「ああ。昨日お前の隣にいた男は鬼だろう?
静蘭は長らく鬼の世界で鬼に囲まれて生活をしていたから忘れていたが、鬼とは下界の人々が最も恐れる存在である。鬼はものによっては人を喰らい、ものによっては己の快楽の為に人を残虐に殺す。そう言い伝えられてきたからだ。
もちろんそれは間違ってはいない。人間の全てが善人ではないように、鬼もまた全てが善ではない。結局は鬼の方が無限で力が強いだけで、中身は人間と大差無いのだ。
静蘭も最初は鬼に対してとんでもない偏見を抱いていたが、それは黒花領域へ来てから全て打ち砕かれた。何を恐ろしいと思おうか。
「鬼は恐ろしくありません。引……
静蘭は震える喉を何とか抑えて散り花のような微かな声を絞り出した。
相変わらず静蘭を捉える霊玄の瞳からは何を考えているのかが想像がつかない。霊玄は鳳眼を伏せると話を続ける。
「……そうか。それともう一つ。昨日の発言はどういうつもりだ?」
昨日の発言とは。静蘭は頭を回転させて考えたが、どう考えてもあの発言の事だろう。まさかもう一度霊玄と会話をする機会があり、更には昨日の失言を深堀されるなんて考えてもいなかった静蘭は心の中で頭を抱えた。
さて、どう言い訳をしようか。間違いなんでした、なんて事は絶対に言いたくない。しかし本当にそうだと言えば、それこそ狂人だと思われるに違いない。
静蘭が返答に困っているのを見透かした霊玄は、これまでの静蘭への接した方では想像がつかない程低く冷淡な声で一言放った。
「冗談でもあんな戯言はやめろ。不快だ」
驚きと寂しさ、悲しさで静蘭は押し黙ってしまう。これまで霊玄のどこを恐れる必要があるのかと内心不思議に思ってきたが、今ならわかる。この背筋が凍りつくような圧倒される声と態度、そして身に纏う氷よりも冷たい雰囲気。
部外者になって初めて霊玄を客観視して気が付いた事。それは彼は確かに最恐で最強の鬼王だという事だ。まだそれほど力を有していないであろう目の前の霊玄でさえこの様だ。未来の霊玄はどれほど恐ろしくなっているのか。
「……ごめんなさい」
静蘭の声が霊玄の耳に届いていたのかはわからない。拗ねたような声で静蘭がそう言うと、霊玄は一瞬静蘭に目をやって、またすぐに逸らした。そしてまたしばらくの沈黙が流れる。
静蘭は静寂の時間の中で色々と考えを張り巡らせる。引秋の神通力の調子はいつ頃戻るのだろうか?このまま未来へ帰っても何の成果も得られないのでは?
帰ったら霊玄に柳雨の事を問い詰めたいが、彼は何も答えてくれ無さそうだ。
何も得られないよりかは。そう考えた静蘭は今度は遠慮がちに口を開く。
「柳雨さんとあなたの馴れ初めを聞いても?」
「何故昨日出会ったばかりの他人にそれを話さないといけない?」
断られるのは承知の上だった。だが、霊玄には多少図々しいくらいでないと会話が成り立たない事を静蘭はよく知っている。
「いいじゃありませんか。そうそう、昨日彼女、昨日泣いていましたよ?何かあったのでは?」
「それがどうした。泣きたいなら勝手にないておけばいい、俺には関係無い」
あまりに非情な霊玄の言い草に静蘭は思わず言葉を失った。そして昨日感じた事は間違いでは無かったと気が付く。
果たして二人の間に愛はあるのだろうか。
霊玄を見つめる柳雨の目は確かに恋をする女の目だった。しかし、その奥深くではどこか寂しそうな悲しい感情が見え隠れしていたのだ。霊玄は言わずもがな、彼女自身には興味が無さそうだった。
「彼女が可哀想ですよ。婚約者ならばもっと気にかけてあげないと」
「どうせ契約上の結婚だ。互いに愛を求めない。それは柳雨もよくわかっているはず」
「契約上?」
静蘭は咄嗟に声に出してしまった。契約上の結婚だって?先程霊玄の事を非情と思っておきながら、静蘭は自分も負けず劣らずに非情だと思う。二人が愛し合って婚約したのでは無い事を知り、静蘭の心中の雨雲が散りゆくのを感じるのだから。
「もう良いだろう、他人の事情に何故そんなに詮索する?」
霊玄は立ち上がると、静蘭に踵を返して湯を後にした。静蘭は少々逆上せたのか、はたまた安堵しているのか、浮つくような気分になっていた。
部屋へ戻り、朝餉を済ませる。
「静蘭殿、今日は街を少し観光しない?風景は未来とあまり変わらないかもしれないけど、物珍しい物がたくさんあると思うよ」
「良いですね、観光しましょう」
夫の友人と二人きりで宿に泊まり、二人きりで観光なんて傍から見れば一体どういう状況だと困惑されるだろう。静蘭自身もどこまでで線引きをしたらいいのかがわからない。一方引秋は相変わらず常に楽観的な態度だ。引秋といると霊玄とはまた別の意味で調子が狂う。
宿を出ると静蘭達は近くの市場へ寄った。ここは港町という事もあり、海鮮類の仕入れが多くあるようだ。月雨国は内陸部に位置していたため、海鮮はあまり豊富では無かったから物珍しく感じる。
「お兄さん、別嬪のお兄さん。ちょっとうちへ寄っていかない?尽くしてあげるわよ」
路上販売の店の商品を見物していると、静蘭の腕に誰かが抱き着いてくる感覚がして体を硬直させた。
胸元の露出が高く、白粉と香の匂いを強く纏った女が静蘭の腕に胸を押し付けて静蘭をねっとりとした視線で見上げていた。女が指差す方は娼館のようで、まだ日中だというのに客引きをしている。
しかし静蘭はそういった事には興味が無く、何なら近頃は霊玄以外には興味を示さなくなっている。下品なものが好きで無い静蘭は愛想笑いで女を引き剥がした。
「生憎私には伴侶がいるもので」
「あら?でも今はその伴侶の姿が見えないわ」
だが困った事にこの女は諦めが悪い。静蘭が女を引き剥がしても、女はまた擦り寄ってきた。あまりにも強い白粉と香の匂いで酔ってしまいそうだ。
「私は伴侶を心から愛していて、伴侶以外に体を許す事はありません。お嬢さん、そんな薄着だともう寒いでしょう?早く戻らないと風邪を引いてしまいますよ」
女は気に入らないとでも言うかのような表情を隠さずに出したが、静蘭はそれだけ言うと足早にその場を離れた。
しかし改めてこう"愛している"という言葉を口に出すと些か恥ずかしいものだ。
過去へ来てから霊玄の事は掴めていないが、静蘭は自分の気持ちをはっきり理解する事が出来た。静蘭は霊玄の事が好きだ。絶対に他の人に渡したくない。
「静蘭殿、やっぱり目立つね。老若男女問わず皆君に注目しているよ」
「さっきのも見ていたんですか?ならば助けてくれれば良かったのに」
「いやいや。私は静蘭殿の紳士的な断り方には及ばないだろう。静蘭殿は女性の扱いに慣れているようだ」
引秋は広げていた扇子を閉じると、口角を上げて静蘭を突く。
「私がどこで育ったのかお忘れですか?女性を怒らせると怖いですよ」
後宮で育った静蘭は女の恐ろしさをしかと理解していた。特にああいう自負心が高く、相手に執拗い女は機嫌を損ねると面倒臭い事になる事が多い。手っ取り早く退散するか、上手く断るかしか無いのだ。
「ああ、既婚者でなかったら引く手数多だったろうに。世の中、君みたいに美しくて女心をわかってくれる男はそうそういない」
静蘭と引秋がそんな話をしていたその時、前方から悲鳴に近い歓声が聞こえてきた。
何事かと注目してみると、前方からは牛車が走っており、左右の道には頭を垂れて歓声をあげている者や、中には涙を流している者さえいる。
「ああ、太子殿下がお通りだ!まさか生きているうちにこの目で太子殿下のご尊顔を拝めるなんて!」
静蘭達少し前を歩いていた老人がまさしく涙を流しながらそう言った。
太子殿下とはもうすぐ生誕祭が開かれる太子殿下の事だろう。生誕祭間近で国民の忠誠心が高まるのはわかるのだが、果たして涙を流して歓喜する程の事なのだろうか?
静蘭が不思議そうに牛車が走り行く姿を眺めていると、後ろの男から肩を掴まれた。
「太子殿下のお通りだ、早く跪かないか」
これには引秋も不思議そうな顔をしている。だが郷に入っては郷に従えというもの。これがこの国の習慣なのであれば、静蘭達も従わねばならない。言われた通りに跪き、牛車が通る様子を上目で見る。
牛車は金で豪華絢爛に装飾され、眩しい程だ。覗き窓からは美しい青年が微かな笑みを浮かべているのが見える。
しかし、静蘭はここでまた自分の目を疑った。
その青年……太子が霊玄と瓜二つだったからだ。
横顔しか見えなかったものの、霊玄と血縁を疑う程そっくりだった。引秋も太子の顔が見えたようで、驚いた顔を見せる。
牛車が過ぎ去った後、静蘭達はゆっくり顔を上げ、目を見合せた。
「今霊玄が通り過ぎた?あいついつの間に太子に?」
「違います、あれは霊玄様じゃありません。霊玄様と顔立ちは似ているけれど、纏う雰囲気は全く別でした」
例えるならそう、霊玄の纏う雰囲気が冷だとしたら先程の太子が纏う雰囲気は温だ。高い身分にあるのに、王侯貴族特有の傲慢さは一切見られなく、温厚そうだった。
霊玄が傲慢そうと言うわけでは無いが、太子に霊玄の冷たさは一切感じない。
「ああ、太子殿下を拝めるなんて一生の宝だよ」
「見たか!太子殿下は覗き窓の幕を上げてくださっていた。端くれ貴族でさえ意地を張って顔を見せようとしないのに、何と寛大でお優しい御方なんだ!」
国民の声を聞いて先程から気になっていた事なのだが、その顔を見る事に価値でもあるのだろうか?公主や皇位を継がない皇子ならまだしも、太子となればその顔を見る事なんて一度と言わず何度もありそうなのに、何故こんなにも歓喜する?
ちょうどその時、若い男が静蘭達の前を通りかかったので、声をかけた。
「そこのお方、聞きたいことが」
「何でしょう?」
その若い男も涙こそ流していないが、感動が隠せず表情に出ている。
「私達は遠方から来たもので、お聞きしたい事が。皆さん太子殿下を拝めた事をとても嬉々としていらっしゃる様子ですが、この国では太子殿下のご尊顔を拝める機会は少ないのでしょうか?」
聞いてからやや直球過ぎたかと思ったが、若い男は怪訝な顔一つ見せずに答えてくれた。
「他国は知らないが、この国では皇族どころか貴族でさえ素顔を見る機会は滅多に無い。生誕祭だと騒いでいるが、その生誕祭も街で勝手にやるだけで、皇族は顔を見せには来ないんだ。もっとも、皇城内ではここよりもっと豪華絢爛に宴を開いているらしいが。だから太子殿下含め皇族の顔を拝めるのは高い身分の皇城勤めと、踊り子や演者と限られた者だけなんだ」
「へぇ……」
あまりにも変わった文化に静蘭は呆気に取られた。皇族であった静蘭からしたら自分達は神でも無いのに何故そんなに神格化されるんだ?と不思議で仕方が無かったが、この国の文化がそういう風潮ならば先程の出来事に国民が涙して喜ぶのも無理は無い……のかもしれない。
その後、静蘭達は近くにあった絵画を売る店へ入った。流石に時代がこれだけ変われば絵画の特徴も変わっている。絵画について見識が広くない静蘭でも、どれも古風で味のある素晴らしい絵だと思った。未来ではこの時代とは画法も少しの差だが変わっており、見れば見るほど興味深い。引秋は絵画に興味が無いのか、先程から欠伸ばかりしている。
静蘭が一心に飾られている絵画に夢中になっていると、誰かと肩がぶつかってしまう。
「すみません、お怪我は……」
「いえ、大丈夫です。こちらこそ……あ!」
ぶつかった相手の姿を見て静蘭も相手も目を丸くした。
「
「あはは……」
ぶつかった相手とはまさしく柳雨で、その背後には霊玄もいる。
しかし、柳雨も周りを忘れてしまう程何に夢中になっていたのか。ふと気になり彼女の視線を先を見ると、一人の青年の肖像画だった。その肖像画には"
静蘭は無意識のうちにそれを読み上げていたらしく、柳雨がそれに反応した。
「もうすぐ生誕祭が開かれる太子殿下の肖像画らしいですよ」
「へぇ……あまり似ていませんね」
肖像画に描かれている太子は確かに美しい。だが美しいだけなのだ。あの太子はただ美しいだけでは無く、凛々しさや逞しさも感じられた。この肖像画は少々物足りないように見える。何より霊玄に似たあの太子をこんなに適当に描くなんて……と静蘭は内心毒付いた。
「……殿下を見た事が?」
静蘭は小声で呟いたつもりだったのだが、隣にいた柳雨には聞こえていたらしい。柳雨は驚きの表情を浮かべてそう言った。
「先程大通りを牛車で通られた時に。横顔を一瞬見た程度ですけど」
静蘭がそう言うと、続いて引秋も悪戯な表情を浮かべて言う。
「そういえば太子殿下は
霊玄は一瞬顔を顰めたが、目を伏せて端的に答えた。
「無い。俺の血縁者はもう存在しない」
「え……」
霊玄の過去を全く知らない静蘭からしたらそれは衝撃の事実であった。せいぜい死後百年少しだと思う。なのに血縁者が一人もいないだなんて。きっと人間の時も壮絶な経験をしたに違いない。
霊玄が人間の時の事も気になるが、それは霊玄自身の口から聞ける日を待とうと思う。
引秋は自分で言ったものの少し顔を引き攣らせていて、気まずそうにしていた。いつもの癖でついいじってしまったのだろう。
「すまないね、適当な事を言ってしまった」
だが表情を曇らせたのは霊玄だけでは無かった。柳雨も罰が悪そうな顔をして俯いているではないか。
その時、静蘭は今朝の霊玄との会話の内容を思い出した。
"契約上の結婚、"愛は求めない"
そして柳雨の太子の肖像画を見つめる悲哀の籠った瞳を見て、霊玄と太子が似ているという事はこの契約上の婚約に何かしら関係がある事を悟った。
詳しく話を聞きたい衝動に駆られたが、今ここで聞くのも気遣いが足りない。それに彼女にとってこの話題はあまり好ましくないようだ。
せっかく部屋が隣な事だし、仲良くなって聞き出せばいい。まだ時間はある。そう考えた静蘭は柳雨に対して今までの少し素っ気ない態度を取っていた事を改めるようにした。
その夜、柳雨は再び張り出しに出て、相変わらず静かな空を見つめていた。今夜は夜雲に月が覆われ、静蘭と柳雨の心をより一層の辛気臭くさせている。
「柳雨さん」
静蘭が鈴の鳴るような声で名を呼ぶと、柳雨はゆっくりと振り向く。
「静蘭さん」
名を呼んだのはいいものの、お互いそれ以上何も言わない。こちらを振り向いた柳雨はとても苦しく、痛ましい顔をしていて、静蘭も少しばかり同情してしまう。事情は知らないが、どうも最近こう言った顔をよく目にする。
琳、それに黎月。特に琳の事実を知ってから、琳の表情や言動に少々敏感になっていた静蘭には、女の葛藤と悲哀に満ちた表情というのは同情を誘うのに十分だった。
「……まだ出会って二日だというのに、何故かあなたには縁を感じます。それにこんな夜は少し寂しくなってしまって。もしよろしければ、私のお話を聞いてくださらない?」
「ええ、ぜひ聞かせてください」
柳雨は重い口をやっと開き、視線を誰もいない外に向けて一つ一つ話していく。
数年前、柳雨は皇城の裏に位置する
幸いと言うべきか、柳雨の兄も鬼になっており、その兄は鬼の市で多大な富を手に入れていた。兄は柳雨を溺愛しており、自分と一緒に暮らすように言ったのだが、自然の中での生活を気に入っていて、今の暮らしぶりに満足していた柳雨はそれを拒んだ。
ある日を境に灯華山の鬼達が騒がしくなった。何でもこの灯華山に修行者が現れ、数名の鬼が攻撃を仕掛けた所酷い返り討ちに合ったとか。それ以来鬼達はその修行者を恐れて灯華山を後にする者が増えた。
柳雨もその事を気に止めてはいたが、ここを去ろうとは思わなかった。ここを去ったとして行く宛てと言えば兄の所しか思い付かない。しかし柳雨は市場の雰囲気があまり好きでは無かった。やはり鬼のための市なので、中には人道に反した物が売られている事もある。
そんな環境に慣れてしまうのが怖くて、人間で無くなるのが怖くて柳雨はここに留まることを選んだのだ。
それから柳雨は特に修行者に出くわすような事も無く、鬼達がほとんど去っていったためかより静かで穏やかな時を過ごすようになった。だがそれも今思えば束の間の事で、ある日柳雨が山菜を取りに出かけると、三人の男鬼達に囲まれた。
「あなた達は誰?私に何か用?」
男達は鼻息を荒くして気持ちの悪い笑みを浮かべており、柳雨の背筋が凍る。
鬼と言えども何の力も持たず、心は人間の少女そのものであった柳雨は、足がすくんで動けない。山菜の入った籠は震える手から滑り落ち、地面に転がる。
「姉ちゃん、少し俺たちの相手をしてくれないか?噂の殿下?とか呼ばれている奴に酷い怪我を負わされてよ。しばらくご無沙汰してたんだ」
「なあ、少しの間でいいんだよ。可哀想な俺たちを慰めるとでも思ってよぉ」
柳雨は足元をふらつかせながらも何とか一歩ずつ後退し、距離を取ろうとする。だが男達も柳雨に一歩、また一歩と歩み寄り距離を詰める。
やがて柳雨の背が大きな梅の木に当たり、恐怖と焦りから全身に力が入らない柳雨はその場に力なく座り込んでしまった。
それを合図に男達が柳雨に飛びかかるのが見えて、柳雨は自分を守るようにぎゅっと身を縮めて目を瞑る。だが、突如男達の悲鳴が聞こえて柳雨は恐る恐る目を開いた。
すると男達は地面に横たわっており、その身体は灰のようにだんだん崩れていく。
柳雨が声にならない悲鳴をあげると、横から凛としているがどこか甘さを感じられる声が聞こえた。
「お嬢さん、お怪我はありませんか?」
お嬢さんとは自分の事か?柳雨が声の主を見上げると、そこには濃色の衣を纏った男が立っていた。
男は見るからに高貴な身分なのだろう。その佇まいからは尊厳と余裕が感じられる。鳳眼の目尻を気持ち下げて、柔らかい表情を作って柳雨に手を差し伸べていた。
「あ……あなたは……」
柳雨はすぐにその手を取らず、あくまで警戒の色を見せる。
男はそんな柳雨の様子を受け取ると、差し伸べた手を引いて柳雨と少し距離を開けて隣へ座った。
「この山で修行をしている者だ。この鬼達は少し前に一度懲らしめて、もう二度と悪事は働かないと誓ったのに、それを破った。私は無辜の鬼に対して非道な真似はしないから安心して」
どうやらこの男が噂の修行者らしい。こんな山で修行を行うなんてどこの老人かと思っていたものだから、柳雨は少し呆気に取られる。
男は柳雨に柔らかく微笑むと、再び手を差し伸べた。柳雨はその手を握ってもいいのか若干悩んだが、どうにもこの男から邪悪さを感じない。ただの勘だが、大丈夫だと思った。
柳雨がその手を取ると、男は柳雨を引き上げて立たせる。立ってみると意外に身長差が出るものだ。男はかなりの長身で体格も良く、おまけにこの秀麗さだ。さぞかし女に人気なのだろう。柳雨は何気なくふとそう思った。
「君はこの山に住んでいるのかい?」
「……はい」
「それなら良い。もし良ければ、これから暇な時にでも私の話し相手になってくれないか?この山には一人の世話役と師を除いて連れてきていない。二人とも気兼ねなく話せるような雰囲気じゃないし、ずっと修行ばかりで息が詰まっていたんだ」
柳雨は耳を疑った。修行者が鬼を話し相手にするなんて聞いた事がない。もしやこの男は自分の事を人間の娘だと思っているのだろうか。そうなら先程男鬼達から助けたのにも納得がいく。
自分は鬼だ。柳雨はそう言って誤解を解こうとしたが、言葉が喉の奥に引っかかって上手く出てこない。
結局しばらく黙り込んだ後、微風に吹かれた植物のように小さな声で答えた。
「私で良ければ……」
男は満足そうに頷いた。そうして二人はまたこの梅の木の下で会おうと約束を交わしたのだ。
花に祝福を ぽめ @tanhua
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