過去へ

 ――殿!――静蘭ジンラン殿!

 自分を呼ぶ声に静蘭が目覚めると、そこは木々に囲まれた山道だった。どうして自分はこんな所にいる?確か引秋インチュウに池の前まで連れて来られて、それで……。

 そうだ、それで何故か池に突き落とされたんだ。その後の事はよく覚えていない。


「静蘭殿、やっと目が覚めたんだね」


 後ろを振り返ると、そこにはいつもの藍色の衣装では無く落ち着いた若紫の衣装を身にまとい、長い髪を一つに纏めた引秋の姿があった。どうやら静蘭を呼ぶ声の主は引秋だったらしい。


「あの――」


 ここは何処なのでしょうか?静蘭がそう言い切る前に引秋は静蘭の言葉を遮った。


「とりあえず、何か食事を取らない?君ったら三時間もずっと眠っていて私はお腹が空いてしまったよ」


 自分はそんな長い時間こんな地面に突っ伏して眠っていたのか。静蘭は立ち上がるも、確かに身体が重い。


「この山道を下りた先に良い店があるんだ。そこに行こう」


 引秋の口ぶりからこの場所は良く知っている場所らしい。ここは先程目にした水旋領域の西部なのかもしれない。言われるがままついて行くと、そう歩かないうちに多くの店で賑わう街へ出た。二人はその中で特別大きく外装も華やかな店へ入る。


「いらっしゃいませ」


 店へ入ると十五歳程に見える少女が二人を出迎えた。意外にも店内には客が少なく、若い男達が三組、それぞれ離れた卓に座っているだけだった。静蘭が窓側の卓へ案内されると、先程の給仕の少女が菜単メニューを持ってやってきた。

 少女は引秋と静蘭の顔を見ると、頬を林檎のように赤く染めた。


「公子様方、ご、ごゆっくりなさってください……!」

「え?ああ……」


 少女は早足で厨房の方へ戻って行った。ここで静蘭は違和感を感じた。あの少女は……いや、ここへ来てから引秋は誰かに声を掛けられていただろうか?

 引秋の居城へ向かう道中は数え切れない程声をかけられ、通り過ぎる者は皆挨拶をしていた。いくら普段と衣装や髪型が違うとはいえ、美しい顔はそのままだ。引秋を知っている者なら気が付かないはずが無い。なのにここでは誰も引秋に声を掛けて来ないじゃないか。それどころか先程の少女は自分達の事を"公子様方"と言ったのだ。静蘭はまだしも、自分達の主に向かって公子様なんて言わないだろう。店内にいる他の客も引秋が来ているというのに一切関心を向けていない。


「静蘭殿、何にする?ここは八宝鴨バーボーヤーが美味しいんだ!」


 引秋は静蘭に菜単を渡し、目を輝かせてそう言った。だがやはり引秋はこの店に何度か訪れているようだ。

 渡された菜単を見る限り、ここは滬菜フーツァイ(上海料理)の店らしい。しかし品物も下界の店と変わらないように見える。随分と再現度が高い。


「私はそこまでお腹が空いていなくて。軽い物で良いんです。何かおすすめを頼んでください」

「そう?あ、娘さん!注文を頼むよ!」


 結局、引秋は八宝鴨を、静蘭は桂花糖藕タンホワタンオウ包子パオズを頼んだ。


「水旋領域は凄いですね。黒花領域も負けてはいませんが、また別の雰囲気を味わう事が出来ます。それに四季を一つの場所に集めて管理するのは大変でしょう?」

「いいや、そんな事は無いよ。私を誰だと思ってる?黒花状元こっかじょうげんと肩を並べる鬼王、水仙旋蛇すいせんせんじゃ沈引秋シェンインチュウだ。霊玄リンシュエンの傍にいる君ならわかると思うが、あんな事造作も無い」


 引秋は口ではそう言うものの、鼻を高くして機嫌を良さそうにしている。この人はわかりやすいのかわかりにくいのか。日頃から霊玄が引秋の事を通り名の通り蛇のような奴だと言うのが少しわかる気がする。

 だが、静蘭は引秋の背後に目をやった途端に開こうとしていた口を閉じ、信じられないというように口元を手で押えた。


「来たか」


 引秋の小さな呟きも耳に入らないほど驚愕し、同時に心の中でモヤっとした薄暗い感情が渦巻く。

 静蘭が目にしたものとは。霊玄が美しい女を連れて二人きりでこの店へ入ってきたのだ。しかも二人は親密そうにしていて、女は霊玄の左腕に抱き着いている。

 誰だ?自分はあんな女を知らない。そもそも霊玄に女の影があるとすら思ってもいなかった。

 女はかなり小柄で華奢だ。細く柔らかい眉に丸い目が印象的で控えめな口元は軽く口角が上がっている。その表情からはより一層優しげな美しさを引き立たせ、公主頭には梅の花を催した簪が刺さっている。それに身なりからして家柄も良さそうだ。良家のお嬢様なのだろう。


「静蘭殿、どうかした?」


 引秋が今度は普通に話しかけるも、静蘭には聞こえていない。ただ固まって霊玄と女を見つめていた。

 少し経ってから静蘭は我に返る。女は置いておいて、何故霊玄が水旋領域にいる?霊玄が来ているなら引秋が気が付かないはずが無い。


「引秋殿、霊玄様が……」

「霊玄がどうしたの?」


 ちょうどその時、女が席を外した。静蘭は深く考える事もせず、引秋の制止の声も無視し、ただ感情に任せて霊玄の方へ歩いていく。霊玄の目の前に来ると、静蘭はじっと霊玄を見つめる。霊玄もそう堂々と見つめられれば流石にその存在には気が付き、目線を静蘭の方へやった。

 しばらく沈黙の間が続く。


「霊玄様……」

「私に何か用か?」


 それはほぼ同時に発せられた言葉だった。霊玄はどこか冷たく棘のある言い方で、一線を引かれているように感じる。こんな霊玄、見た事が無い。


「何故俺の名を知っている?どこかで会った事が?」

「……え?」


 あまりにも予想外の言葉だった。目の前の麗しい男は確かに霊玄だ。静蘭が霊玄を間違えるはずが無い。


「ご冗談を……私はあなたの伴侶じゃありませんか」


 震える声で何とか言葉を紡ぎ出すも、霊玄は呆れたような、何を言っているのかわからない、と言った顔で静蘭を見ている。その事が思っていたよりも静蘭の心を痛ませた。


「申し訳ないが人違いだろう。俺には婚約者がいる」


 落雷が落ちるような衝撃を受けた。今まで霊玄にこんな冷たい目を向けられた事があっただろうか。こんなに素っ気ない態度を取られた事があったか。いつもの霊玄ならば静蘭が何を言っても肯定し、口数は少ないけれど温かい目を向けてそっと傍にいてくれる。

 静蘭が何も言えずに立ち尽くしていると、女が戻ってきた。


「霊玄、この公子様は知り合い?」


 女は静蘭に目をやるとそう言ったが、霊玄は静かに首を横に振った。


「知らないね」

「霊玄様!そろそろ私も――」


 ――怒りますよ。だがそれを言う前に、静蘭はいつの間に近付いていたのか引秋に引き寄せられた。


「お二方、私の連れが申し訳ないね。どうにもそちらの公子様が伴侶に似ていたようだ」

「引秋殿?!」


 引秋は丁寧に挨拶をすると、静蘭の手を引いてもう一度卓につく。おかしい。引秋が霊玄にあんな丁寧で他人行儀な態度を取るはずがない。ではやはりたまたま似ているだけの別人か?

 引秋は汗を拭うかのような仕草を見せると、口を開いた。


「今からちゃんと話そうと思っていたんだけど……まさかこんなに早く現れるとは思っていなかったんだよ」

「どういう事ですか?」


 何でもいいからとにかく先に状況を説明して欲しい。何故そんなに勿体ぶっているんだと内心思うものの、引秋には協力してもらっている立場なので強気な事は言えない。

 静蘭は桂花糖藕を味わいながら食す。確かに引秋が豪語するだけある。天趣城で出される料理にも負けていない味だ。


「単刀直入に言うと、ここは約九百年前の世界だ」

「……は?」


 静蘭は驚きのあまり持っていた箸を落としてしまった。自分の聞き間違いだろうか。


「えっと……九百年前?ここが?」

「うん。つまり君と霊玄はまだ出会っていないどころか君は生まれてすらいない。霊玄だって鬼王の座を手に入れる前だ」


 静蘭はその場で頭を抱える。もしや引秋は術を間違えたのではないだろうか。静蘭は何故霊玄が自分の事をあんなにも好いているのかが知りたかったわけで、静蘭が生まれてもいないなら知りたい答えは見る事が出来ない。

 しかし霊玄の過去を少しでも知れるなら悪くない状況だ。あんな美しい婚約者がいた事だって知らなかった。

 霊玄や周りの鬼は霊玄が妃を迎え入れた事は無いと言っていたが、鬼王になる前は婚約者がいたのか。

 前方の卓にいる霊玄を観察すると、確かに身なりが少し違う。黒衣は黒衣なのだが、目の前の衣装はもっと簡素で修仙服のようだ。

 女は笑顔で根気強く霊玄に話題を振り話しかけているが、霊玄の方は相変わらず必要最低限の反応しか示さない。だが女を見る目に敵意は宿っていない。

 二人を見ていると段々と胸が苦しくなってくる。全身の血液が沸騰するかのように熱を上げ、心には黒い何かが渦巻く。霊玄はああいう女が好みなのだろうか。あの女は静蘭とは何もかもが正反対だ。箸を握る手に力が篭もり、震えている。


「私もこの頃はまだ霊玄と知り合っていないから、この時に霊玄に何があったのかはまだ実際に目にしていないからわからないんだ」

「待ってください、まだ情報を整理出来ていません。もう一度確認すると、今この風景は幻影では無く、私達は九百年前の過去に時空を超えて来たんですよね?」

「うん、そういう事だよ。これからの私達の行動によっては未来が変わるかもしれない」


 そう言われると身体に少し力が入る。未来の出来事を変える……それは出来るだけ避けたい事だ。


「……にしても、いいの?霊玄の奴、婚約者なんて作っちゃってさ。このままあの二人を放っておいたら、妃の座はあの女性の物になっちゃうかもよ?」


 静蘭は顔を俯かせる。この時点で霊玄は鬼のはずで、となるとあの女も鬼のはずだ。婚約者……霊玄はあの女の事が好きなのだろうか。自分以外の者にあんな優しげに接するなんて。

 溢れ出る様々な感情は行き場を無くし、静蘭は唇を噛み締めた。

 しかし静蘭だって霊玄の幸せを願っている。


「……いいんじゃないですか。いいや、その方が良い」


 静蘭が消え入るような声でそう呟くと、引秋は目を見開いた。まさか静蘭がそんな事を口に出すとは思ってもいなかったらしい。


「どうして?」

「霊玄様が幸せならそれで良いんです。私はもう十分良くしてもらいましたから。何より、私は神仙の血が流れているとはいえ、飛昇しない限りは人間。今は仙薬で身体の成長を止めている状態ですが、鬼とは違い少しの外傷で簡単に命を落とす存在です。寿命も違えば身体の強さだって違う。本来鬼と人間はそれぞれ別の界隈で生活しているのですから、お互い在るべき状態に戻るだけです」


 静蘭が言ったのは全て事実だ。鬼は心臓を突かれても、水に沈んでも、豪華に焼かれようとも魂が存在しうる限りは消滅しない。だが、静蘭はいくら仙薬で寿命を伸ばそうが、もちろん心臓を突かれたり、水に沈んだり、ちょっとした火に焼かたり、血を多く流しすぎただけでも簡単に死ぬ。

 鬼の世界は物騒だ。そんな中で人間がそう長生き出来るとは思わないし、霊玄とこの先の永遠を共にいられるとは約束出来ない存在。ならば霊玄は人間の自分よりも、霊玄と同じ鬼を伴侶にした方が幸せになれる。


「引秋殿、もう行きましょう」


 引秋が皿の八宝鴨を全て平らげたのを確認すると、静蘭は早く店を出たいとでも言うように引秋を急かした。引秋は先程の静蘭の言った事にも特に反応は見せず、ただ黙って食事をしていただけだった。今もそうだ、口達者でずっと口が動いている引秋はじっと静蘭の方を見つめているだけ。

 静蘭は何だかいたたまれない気持ちになり、再び顔を俯かせる。


「ごめんごめん、静蘭殿。そんな気分にさせるつもりじゃなかったんだ。ほんの冗談のつもりで言っただけなんだよ。もしこのまま私達が何もせずに元の時代へ帰れば、元の時代では何も変わらない。あの女性は死んだのか、はたまた霊玄とは決別したのか」


 未来は過去を台座に存在する。過去が変わらない限り、未来もその台本通りに訪れる。何か異質な事が起きない限りは。

 その"異質な事"こそ、今こうやって過去へ訪れている静蘭と引秋の存在だ。つまり二人が盛大に失態を犯さない限りは未来は変わらない。

 だがそれに気付いても尚、何故か静蘭の心は晴れない。静蘭は我ながらかなり面倒くさい奴だと心の中で自嘲する。


「いえ、私こそすみません。変な空気にしてしまいました。そういえば、私達はいつ帰るんですか?」


 早くこの話題から逸れたい静蘭は何とか話の方向を変える。


「うーん、いつでも帰ろうと思えば帰れるんだけどね。ただ時空を超える術は流石の私でも神通力をかなり消費する。出来れば今は身体を休めたいし、この時代をもう少し楽しみたいな」


 引秋は苦笑いでそう言う。現に引秋の神通力は底を尽きそうになっており、縮地の術はもう使えない程だ。人間を食えれば回復は早くなるが、過去の時代で好き勝手やるのはあまりよろしく無い。


「とりあえず、宿を探そう」


 時の流れは早いもので、もう夕方に差し掛かっている。夕日が街や山を紅く染めている。店を後にした静蘭と引秋は一先ず宿泊先を探す事にした。

 だが、ここで第一の問題が発生した。どうやらこの国はもうすぐ太子の生誕祭を控えているらしく、皇都に近いこの街の王侯貴族が利用するような宿泊先は既に埋まっていて、どこも空きが無いと断られてしまった。


「困った、この時代に私は宛が無いぞ」

「もう選り好みしている余裕無いですよ」


 静蘭は寝れさえすればいいと、少し狭くて年季がいった宿泊先で構わないと言っているのに、引秋は拘りが強く選り好みをして宿泊先に訪ねている。


「野宿よりかは断然良いでしょう?ほら、行きますよ」


 静蘭が指差した民宿は、引秋が訪ねた宿泊先よりかは多少年季がいっており、外観も小さくて地味でぱっとしない。

 引秋は不満そうに頬を膨らませたが、静蘭に引き摺られながらその宿泊先へと入っていく。


「いらっしゃいませ、公子様」


 出迎えたのは古稀を迎えているであろう老婆の女将だった。女将の身なりちゃんと綺麗にされており、もちろん民宿の内装も質素ではあるが、掃除が行き渡っており綺麗にされている。質素なのがまた味を出していて、雰囲気も良い。


「すみません、今日泊まりたいんですけど二部屋空いていませんか?」

「申し訳ございません、公子様。一部屋は空いているのですが……」


 困った。もうこの街の宿屋は殆どあたったし、外もそろそろ冷えてくるはずだ。


「ならばその一部屋で良い。世話になるよ」


 そう答えたのは引秋だった。


「ありがとうございます。食事はお部屋へ運びましょうか?」

「うん、そうして欲しい」


 案内された部屋は見かけによらず広々とした部屋で、これなら別に二人でも窮屈はしないだろう。


「この民宿には温泉があるらしい。静蘭殿、どうかな?」


 そういえば静蘭は温泉に行った事が無かった。皇族育ちな上に静蘭の性別の事情もある。行けるわけが無かった。だが、仮にも静蘭には夫がいるのに、別の男性と二人で温泉は大丈夫なのだろうか。


「良いじゃん、霊玄だってさっきは静蘭殿に失礼な態度を取ったんだし」

「この時代の霊玄様は私の事を知らないから仕方がありません」

「静蘭殿は優しいな。でも温泉でゆっくりすれば疲れも悩みも吹き飛ぶんじゃないかな。ただでさえさっきの事は衝撃だっただろう?」


 それも確かにそうだ。この黒く汚い感情はさっさとどこかへ捨て置きたい。

 静蘭は引秋と二人で温泉へ向かう。と言っても客は他にもいるため、二人きりでは無い。引秋は腰に布を巻き、随分と開放的なのに対して静蘭はまだ脱ぐ事を躊躇っている。てっきり湯着が用意されているものだと思っていたのだが、女将に聞けばそんなものは無いらしい。


「静蘭殿、どうしたの?早く来なよ!」

「いや、あの、私……私は……」


 結局、これも経験だと観念して衣を脱いだが、やはり他人の前でこんな開放的な姿になるには心の準備がたりていなかったため、女のように布を身体に巻き付けて湯に入る。

 だが引秋は静蘭の姿を見るなり少し顔を引き攣らせた。


「……静蘭殿、それは逆効果じゃないかな?」

「えっ?何がですか?」

「その……君は結構女顔で体型もすらりとしている。だからそんな風にしていると女性に見えるというか」


 引秋の言う通り、静蘭は女性に間違えられる事も多々あるし、自分が女顔である事も自覚している。霊玄や引秋のようにがっしりとした体型では無く、線が細い方だ。

 確かによく考えてみれば男湯でこの格好は逆に目についてしまう。そもそも男なんだから上裸になるくらい何だと言うのだ。とは内心思ってはいる。だが幼い頃の教訓や育てられ方というのはやはり大人になっても影響が出るようで、公主として育てられた静蘭にとってはかなりの覚悟と勇気がいるものだった。

 しかしその考えもすぐに変わった。静蘭がふと下を俯いた時、引秋の下半身が目に入った。


「……」

「あはは、バレちゃった」

 静蘭はその場で固まってしまう。引秋の陽物が反応していたからだ。

 最初は見間違いかと思ったが、静蘭とて体は男だ。

 静蘭は顔を真っ赤にしたが、だんだんと怒りや恥ずかしさよりも呆れの感情が大きくなってくる。汚物を見るかのような視線を引秋に向けると、引秋は笑いながら訂正した。


「いやいや、勘違いしないでね?私は女性が好きなんだよ。でもまあこうやって見ると静蘭殿は本当に女性のようだと思っていたら……」

「変態、近寄らないで」


 引秋は弁明するも、静蘭は引秋に平手打ちをした後、近くにあった桶を手に取り、中の湯を引秋に向かって投げつけるようにかけた。


「生理現象だよ!君も男ならわかるだろう?」

「わかりますけど……良い気分では無いでしょう。いや、気持ち悪いです」


 静蘭は素早く布を身体から離し、他の客と同じように腰に巻き付ける。引秋のように反応されるよりかはこの格好の方が断然良い。

 すると確かに線は細いが、程よく綺麗に筋肉がつき、均等の取れた身体が露になる。これはこれで先程よりも見てはいけないものを見ているような気にさせてしまう程、美しく官能的な身体だ。


「陰陽同体って君の事を指すんだね」

「は?」


 先程の一件で静蘭の引秋への扱いは完全に獣である。やはり同部屋にすべきでは無かったと後悔しているくらいだ。


「君、実は結構辛辣?まあ今のは私が悪いけど……」

「……私は我儘で傲慢で感情的な奴ですよ。強くて美しく全知全能な霊玄様には遠く及ばない」

「なんだ、やっぱりまださっきの事を引き摺っているの?」


 ああそうだ、当たり前に引き摺っている。そもそも霊玄は自分の過去を語らなかったとはいえ、誰かを好きになるのは静蘭が初めてだと言っていたでは無いか。それは嘘だったというのか?


「大丈夫だよ、静蘭殿。人間と鬼なんて分かりきった事だろう?霊玄はそれでも君を受け入れているじゃないか。君が嫁いできてから霊玄はとても幸せそうに見える。あの殺伐とした霊玄が一気に柔らかくなったんだ。君は霊玄にとって必要不可欠な存在だ」


 静蘭だって本心は他の人にあの優しくて温かい綺麗な目を向けないで欲しいし、ずっと自分だけを見ていて欲しい。でもこの世にはどうしようも無い事だってあるのだ。もし自分が霊玄と立場が逆だったとしよう。もし霊玄が命を落とすような事があればきっと自分は迷わず後を追う。それくらい辛く苦しいものだ。

 しかし静蘭は"私なんか忘れて"と心から言えるような出来た人間では無い。


「……引秋殿の言う通り、沐浴をしているうちに気持ちの整理がつきました。自虐するのはもうやめます」


 温泉から上がり、部屋へ戻ると引秋は行く所があると外出してしまった。もう月が出てすっかり夜になっているのにどこへ行くのかと不思議に思ったが、そもそも引秋は鬼王であった。

 静蘭は張り出しに出て夜風にあたる。どうやら今は秋の終盤にかかっているらしく、夜風が冷たく肌寒い。だがそれがまた気持ちいい。

 太子の生誕祭前だからか、夜は完全な静寂に包まれている。鳥の羽の音がはっきり聞こえるくらいだ。

 しかし、静蘭の耳に入ってきたのは動物の鳴き声でも誰かの話し声でも無く、啜り泣くかのような音だった。それはすぐ隣から聞こえる。

 まさか幽鬼が出たのではないだろうな?そう思い視線を横にやると、一人の女が満月を見て涙を流しているではないか。

 だが他に驚くべき事が。何とその女は昼間霊玄が婚約者だと言ったあの女だった。


「……え」


 意図せずについ声が出てしまった。その声は女にもはっきり聞こえたようで、夜風に靡く長い栗色の髪を耳にかけ、静蘭の方を振り向いた。

 お互い目を合わせるだけの無言の時間が続く。気まずい。まさか彼女もここへ泊まっているとは考えても居なかった。


「あなたは昼間の公子様……?」

「どうも。またお会いしましたね」


 女は目尻に浮かぶ涙を拭うと、張り出しの端の方へ寄り、静蘭に近付く。


「……泣いていたみたいですけど、何かあったんですか?」

「……いえ、ただ黄昏ていただけです。まさか公子様がここへ宿泊していらっしゃるとは知りませんでした」


 それは静蘭の言葉だ。まさか夜もこうして人間に紛れ込んでいるなんて誰が考えるものか。


「ここへは初めて来たのですが、太子殿下の生誕祭前は宿を取るのが難しい事を知らなかったもので。でもここはとても良いですね、温泉もあって食事も美味しかった」

「あら、初めて来たんですか?では他所の国の公子様なのですね」

「ええ、まあ……」


 他所の国と言えば他所の国出身なのだが、この時代はまだ月雨げつう国は存在しない。いくら遠方の国だからとはいえ、霊玄は聡明なためすぐに嘘がバレてしまう。

 しかし、女は笑って「冗談です」と答えた。


「昼間公子様の隣にいた男は鬼ですよね?男の鬼気が強いから分からなかったけど、公子様は人間のようです。あなたは一体何者ですか?」


 女は可愛らしい顔を少し傾げて、敵意の無い目を向けてそう言う。

 こんな……こんな可愛らしい人が好きなのだろうか。

 そう思うと何に対してなのか無性に腹立たしくなり、ついつい言ってしまった。


黎霊玄リーリンシュエンの未来の伴侶です」


 口が滑った、そう思った時にはもう遅い。出来るだけ関わらないようにしようとは思っていたのに。民宿で隣の部屋だったのが運の尽きだ。

 それに何者かと問われて婚約者相手にこんな回答をするなんて、なんと大人気無く恥ずかしい事か。

 女はきょとんとしたが、どうも反応に困っているらしく、少し幼く愛らしい顔立ちを引き攣らせている。


「……なんてね。私の事はご想像にお任せします」


 女の反応が思っていた反応と違ったため静蘭も少々困惑した。きっと笑って受け流すだろうと思ったのだが。しかし静蘭の言葉には当然嘘偽り無く、醜い嫉妬心から出来る事ならこの女を今すぐ未来へ飛ばしたいと思った。


「公子様があまりにも真剣な面持ちで言うから、びっくりしてしまいました。ここでこうして再び会ったのも何かの縁ですね。私は柳雨リウユーと申します」

「魏静蘭です。そうですね、きっと縁あっての事でしょう。ところで霊――黎公子もこの民宿に?」

「ええ、私の隣の部屋に。そういえば何故霊玄の名を知っているのですか?」


 静蘭とした事が失態を犯してしまった。この時代では静蘭と霊玄には何の繋がりも無い。引秋ともまだ知り合う前らしく、今日が初対面という事になる。そんな初対面の相手――しかも鬼の本名を知っているなんて怪しすぎる。

 何とか言い逃れなければならないが、納得出来るようや言い訳が思い浮かんでこない。静蘭は額に冷や汗を滲ませた。


「昼間の滬菜の店であなた達の会話が聞こえていた……らしいです。連れの鬼が言っていました」


 今この場に引秋はいない。適当な事を言っても向こうに何か悟られる事はないだろう。


「ああ、なるほど。そういう事だったんですね」


 それから二人の間にはまた沈黙が流れる。相手が霊玄であったならばきっと話題は尽きなかっただろうが、今横にいるのは今日出会ったばかりの女子だ。素性も悟られる訳にはいかないし、かと言って相手に質問ばかりするのも疑わしく思われる。

 ちょうどその時、柳雨の部屋に誰かが立ち入る音がした。勝手に立ち入れる立場の者なんて一人しかいない。静蘭はまたしても身体の中で心臓がうるさく鳴り響く。


「柳雨、さっきから誰と会話をしている?」

「霊玄。お隣さんが昼に出会った公子様だったのよ」


 霊玄は柳雨の後ろに立つと、ふと静蘭の方を振り向いた。静蘭のゆるやかで美しい瞳と、霊玄の鳳眼が互いを見つめ合い、視線をぶつける。実際にはほんの一瞬の出来事だったのだろうが、静蘭にはそれが随分と長く感じた。

 霊玄は静蘭から目を逸らすと、今度は柳雨に目をやり彼女の華奢な肩に羽織をかけた。


「もう風が冷たい」

「何を言ってるの、私は鬼よ?そんな人間の公主様みたいに扱わなくていいのに」


 柳雨はそう言うが、霊玄を見つめる瞳は温かくて優しかった。一方で静蘭は霊玄を見て血の気がさっと引いた。

 霊玄は自分に羽織をかける時、あんなに冷酷で意志の感じられない目をしていただろうか?

 霊玄は静蘭に目もくれる事も無く、そのまま柳雨の肩を抱いて部屋へ入っていった。

 静蘭は暫く物思いにふけながら夜空を見上げた。


「霊玄様、私はあなたの事がわかりません……」


 自分と霊玄は傍から見ると先程の柳雨と霊玄のように温度差を感じていたのかもしれない。霊玄が向ける温かく優しい目は全て静蘭の思い込みで、向けられていると思った好意も本心では無く、全て自意識過剰で……考えれば考える程良くない考えに引っ張られてしまう。

 夜の静けさも極まって、その不安と恐怖は静蘭の心を蝕んでいく。

 どれ程時間が経っただろうか。もう月の位置は最初に月を見上げた時と変わっていて、かなりの時間が経過しているのがわかる。身体も冷えてきたし、あまり思い詰めても良くないと気持ちを入れ替えて静蘭は閨へ潜り込んだ。

 引秋はまだ帰ってきておらず、一切の音沙汰が無い。

 今日は色んな事がありすぎて、自分はまだ困惑している。目を閉じるとどうして柳雨と腕を組んで歩く霊玄の姿が瞼の裏に浮かんできてしまう。どうしようもない焦燥感と醜い嫉妬心で身体が張り裂けてしまいそうだ。

 結局、静蘭は一睡も出来なかった。

 明け方になると引秋は戻ってきた。

 どこへ行っていたのか、格好から雰囲気まで何もかもが変わっていた。だが薄目で引秋をずっと見ていると、ふと気になった事があった。僅かな違いではあるが、背が若干縮んだように思える。それだけじゃない、顔つきもどこか丸くて柔らかく、幼い。

 驚いた静蘭が起き上がると、引秋は静蘭の方を振り返った。やはりそうだ、雰囲気も少し違う。


「静蘭殿、起きてたの?」

「はい……えっと、引秋殿ですよね?」

「うん?そうだけど」


 引秋はふと思い出したように声を上げた。


「今は仮相で少年の姿になっていたんだ。驚かせてしまったかな?」

「いえ……ただ仮相というのを見るのは初めてなので」


 姿を変えるにはかなり多くの神通力を必要とする。それこそ多くの功徳を集める神仙や、霊玄や引秋のような鬼王でなければ出来ない術だ。

 霊玄の仮相姿なんて見た事が無かったし、初めて見る驚異的な術に静蘭は感心を見せる。

 引秋は仮相を解いて本相に戻ると、座敷に直接腰を下ろすと茶を淹れて一服し始めた。


「今まで外にいたんですよね?休まなくて大丈夫なのですか?」


 静蘭がそう言うと、引秋は驚いた表情を見せる。


「静蘭殿、まさか知らないの?」

「何がです?」

「鬼は睡眠を取る必要が無いんだ。生身の人間では無いから、そもそも休憩なんて必要無い。それに夜行性の鬼や妖も多い。身体の限界は来ないからね、便利で良いよ」


 そう言われると、静蘭は普段の霊玄を思い出した。静蘭が寝付くまでは添い寝をしているのに、次に目が覚めた時には横に姿が無いのだ。まさか霊玄も休まず夜も活動をしているのだろうか。天趣城の女官や従者達ですら休んでいるというのに。


「では霊玄様もですか?私が目を覚ますと横に姿が無いのです」

「霊玄や私ももちろんそうだ。全ての鬼がそういう体質で、鬼王だろうが小鬼だろうがその体質には差が無い」

「ならば霊玄様は夜に何を?霊玄様に従う鬼達でさえ夜には寝静まっているのに」


 引秋はその質問が来る事を予想していたようで、静蘭から目を逸らして先程よりも小さな声で呟くように言う。


「私も詳しくは知らないが……少しでも口走れば私は未来の霊玄に消されてしまうだろう」


 何とも物騒な事を言い出したので、静蘭もそれ以上は何も聞かなかった。

 起きるにもまだ早い時間だが、目が冴えてしまって再び寝付けそうには無い。

 こんな明け方ならば温泉に人はいないだろう。そう思った静蘭は湯に浸かってゆっくりする事にした。

 

 

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