月下

冷田かるぼ

月明かり



 私に月光のような視線を向ける彼と出会ったのは、つい数ヶ月前のことだった。



 もう何度目かもわからない眠れない夜。布団の上で真っ暗な空間を見つめるのにも飽きて起き上がり、電気を付けて机に向かう。


 私は小説を書いていた。


 いつから書いていたか、どうして書き始めたのか、というのもわからない。気がつけば書いていたから。それは私の唯一の逃げ道で、唯一の自己顕示の場だった。

 キーボードの音以外何も響かない部屋は寝不足の身体に良く馴染む。必死でのめり込んでいた。逃げていた。そんな時。


「何を書いてるの?」


 どこからか聞こえた声に思わず顔を上げ振り返る。そこにいたのは全開になった部屋の窓に座る、綺麗なお兄さんだった。春先のぬるい風が一気に部屋になだれ込む。


 ひ、と声を漏らした。鍵を掛け忘れていたのか。最近は自分で窓を開けた記憶もないのに。

 ずっと前から開けっ放し? そんな馬鹿な。私の知らない間に母が開けたのだろう。それで鍵を掛け忘れたんだ、きっと。


「ねーえ。何を書いてるの?」


 もう一度その柔らかい声が鳴った。刺激してはいけない。冷静になれ、私。睡眠不足で若干くらついた脳でもこういう時は落ち着いて対応すべきなんだって分かる。

 深呼吸をして、なけなしの勇気を振り絞って。


「小説を、書いています」


 そう言った。お兄さんは窓枠から降りて部屋に入り、そうして振り返って窓を閉め、言った。


「へえ、読ませてよ」


 そこに敵意とか、そういうものは感じなくて。ただ三日月のような薄い微笑みと淡い月光のような声が私のつまらない部屋に広がった。


「は、はい、どうぞ」


 ノートパソコンを手渡すと彼は静かにその文章を読み始めた。夜中になってくると自分でも何を書いているのかわからなくなるから見られるのは少し恥ずかしい。


 でもなんで急に読もうなんて気に?

 もしかして悪い人じゃないのかも、なんて。窓から突然入ってきた人にこんなことを思ってしまうのは流石に警戒心が薄すぎると自分でも思う。


 しばらくの静寂。こうして黙っている間に通報でもなんでも、親に訴えるとかもできたはずなのに私はそれをしなかった。

 どうしてかはわからない。

 そして彼は顔を上げた。にっこりと微笑んで、やっぱりいい人そうに。


「うん、素敵な文章だ」


 言ったあと、私にパソコンを返す。私はそれを受け取って学習机に置いた。ブルーライトが漏れ出して私の目をじりじりと刺激している。

 何にせよ執筆は少し休憩しよう。画面を閉じて、目の前の青年に向き直った。


 まず、こっちが問題だ。

 こちらに危害を与えようとかそういう感じではなさそうだけど。


「あの、貴方は、誰で――――」


 震える声をなんとか絞り出すと、彼はハッとしたような表情ですぐ言葉を発した。


「ああ、ごめんね。怖がらせちゃったよね。……でも俺、名前とかないし。ただの月明かりだよ」

「月明かり……?」


 わけのわからないことを言う人だ、と思ったけれど不思議とどこか受け入れている自分がいた。不審者のはずなのに彼から逃れようとも思えない。

 "月明かり"は部屋のチープな電灯にそのふわりとした黒髪を照らされながら言う。


「そう、君を照らすための月明かり。太陽の光が苦手な君を、ちゃんと照らして導いてあげるための光」


 跪いて私の手を取り、そっと甲にキスをする。まるで漫画やアニメの中の騎士のような気障な仕草。だけれど彼がそうすると様になっていて、その輪郭や私の手を握るごつごつした男性らしい骨格に思わずどきりとさせられてしまう。

 一体全体この人はどういうつもりで、と早まる鼓動に極めつけのセリフが叩きつけられ。


「大丈夫、俺がついてるからね」


 妖艶な上目遣い――――危うく卒倒するところだった。



 ◯



 それが彼との出会いだ。思い返してもわけが分からない。急に部屋に入ってきた美青年……しかもどうやら人外、に小説を読まれて、ついでに気障なセリフで落とされただなんて。

 自分が恥ずかしくなってしまう。


「進捗はどう?」


 そんなこと言いながら今日もまた部屋にいるし。私のベッドに勝手に座って、小説を書いている私をずっと眺めている。

 あれから彼は私が眠れない夜にいつもやって来るようになった。眠れない日なんてほとんど毎日だし、毎日いるようなものだ。


「まあ、ぼちぼちです」


 そう返すけれど実際はびっくりするくらい捗っていた。自分一人で書いていた今までとは全く違う。

 筆が止まることなくするすると進むし、読んでくれる人がいるというだけでモチベーションになるからかスランプにもならない。


 なんだかんだこの元不審者に助けられているんだと考えると少し変な気持ちにもなるけれど。


 かたかたとタイピング音だけが部屋に響く。彼は唐突に立ち上がり歩み寄って、私のパソコンを覗き込んだ。


「懐かしいねえ」

「何がですか」

「俺も昔小説を書いてたんだよ」

「"月明かり"なのに?」

「人間じゃなくても小説くらい書くでしょ」

「いや、知らないですけど」


 ついツッコんでしまった。

 こんなオカルト話信じたくもないけど、やっぱり人間じゃないんだなあ、とその言葉から改めて思う。なんとなく画面から目を離して彼を見た。

 相変わらずの美青年だ。柔らかそうな猫っ毛の黒髪に長い睫毛、すっと通った鼻筋……辿るようにその頭の天辺からつま先まで眺めても欠点は見当たらない。


 なぜだかため息をつきたくなった。なんでこんな人が私の"月明かり"だなんて言うんだろう。……ああ、でも人じゃないか、と一人で勝手に納得してみる。

 そんなことを考えながら書いた文章はエンターキーを押して一区切り。


「お兄さん、ここまで読んでくれます?」

「了解」


 私の言葉に答え、彼はぐい、と身を乗り出してパソコンの画面に顔を寄せた。


「……近すぎません?」


 彼の顔と画面とはたぶん15センチの定規ほどの距離もない。スマートフォンでもそんな近くでは見ないだろうというくらいに。


「最近目が悪くなったかな」

「人間じゃないのに、ですか」

「難儀な身体だよ、全く」


 そう言いながら彼は目を擦り、また画面を見た。その目線が私の書いた文をなぞっていく。たぶんこの辺を読んでいるのだろうな、とその視線を追いながら思った。

 表現おかしくないかなとか、文章の引きはちゃんとあるだろうかとか心配になるところもありながらどきどきしつつ。

 画面は途切れた物語の最後、空白部分にたどり着いた。

 彼が浅く息を吐く。顔を上げて、そして微笑む。


「やっぱいいね、君の文章」


 どき、っとした。お世辞に聞こえるような言葉でも彼が言うと素直に受け入れてしまう。返されたパソコンを机上に戻して、また執筆を再開した。


「そうですか」

「ちょっと照れてる?」

「照れてないです」

「残念」


 嘘、照れてるかも。なんて言わないけど。嬉しいのは隠しきれない事実で、どうやらそれは滲み出てしまっていたらしい。

 そういうところまで読み取られてしまうのは恥ずかしいけど悪くない気分だ。

 こうして私の文を褒めてくれるのはいい人だな、と思ったりもする。自分勝手な認識かもしれないけど。


「あー俺幸せだな、こうして文章読みながら人の家でゴロゴロできるとか」

「言ってること最悪ですよ」

「まあまあ」


 前言撤回、やっぱり不審者だったかもしれない。彼はへらへら笑いながら続ける。


「ほら、こういうの『運命の出会い』って言うんじゃない?」


 一瞬何も言えなくなった。


「クサいこと言わないでください、私運命って言葉が一番嫌いなんで」

「えー、つれないなあ。俺は運命だと思ってるよ?」

「はいはい」


 ――――運命、だなんて。そんな軽薄な響きにときめいてしまう自分が悔しい。だって運命だなんて、少女漫画の序盤か感動系映画の終盤にしか似合わない言葉で。


「そもそもどうして私のとこになんて来たんですか」


 誤魔化して話題を逸らす。胸の奥に滞った早まる心拍音を隠すので精一杯だった。


「見てたからだよ。言ったでしょ、君を照らす月明かりなんだって」

「……ストーカー?」

「どうしてそうなるわけ……もっとこう、妖精っぽい感じだよ」


 妖精なんてキャラには見えないですけどね、というツッコミはさすがにやめておいた。パソコンを閉じて勉強机を後にする。


「そろそろ寝るの?」

「はい」

「そっか」


 彼は窓枠に手をかけた。やっぱりあともう少し、と言おうとして呑み込む。最後に振り返って、そうして微笑んで。


「おやすみ」


 優しい声が窓の外に落ちた。




 翌日、相変わらずつまんない学校帰り。高校生になってから数ヶ月が過ぎたけれどまだクラスに馴染めていないし友達もいない。

 けど勉強はまだどうにかなっている。課題は学校でなんとか終わらせたから家でやる必要はない。執筆だけに専念できる。


 こんな思考に至ってしまうのだから、どうやらつくづく私は小説というものに魅入られてしまっているらしい。


 段々と暑くなってきた空気の鬱陶しいこと。気温さえ高くなければ夏という概念は嫌いじゃないのになあ。小説の舞台としても最適だし、なんて。

 そんな創作脳は一旦仕舞って日差しで生暖かくなった扉を開け、家に入る。


「ただいま」

「おかえり」


 リビングの母は仕事帰りの上着を脱ぎながら言う。どうやら母もさっき帰ってきたところらしい。


「ああもう、今日も本当に忙しくて――――」


 始まったのはいつも通り、愚痴聞き。私の話を彼女が聞いたことはなかったし、聞いたとして全部反論と正論で叩きのめしてくるから話そうとも思わない。

 早く終われ、と願いながら適当な返事をして聞き流す。


「聞いてる?」

「聞いてるよ」


 本当は全然聞いてない。ソファに身を預けながら新しい小説のネタばかり考えている。


「ああそうだ、夏はお母さんあんたの部屋で寝るからね」

「――――え?」


 呼吸が止まった。


「お母さんの部屋、エアコンがないじゃない。それに一階も荷物が増えて布団が敷けなくなったでしょう」


 それはそうだけど。そうなったら眠れない夜はどうすればいい?

 彼と会えなくなってしまう。話ができない。執筆もできない。どうしよう。それは避けたかった。


「でも、リ、リビングとか……」

「何、お母さんにリビングで寝ろって言うの?」


 ああ、これ無理だ。通じない。通じたとしてもたぶん、後からずっと言われるやつだ。


「……いや、うん、分かった」

「なんなの、文句があるならハッキリ言いなさいよ」

「ううん。何もない」


 何もないわけないのにね。また本音を押し込めた。漏れていようとも隠し通せば問題ないって、黙り込む。


「早く寝るようにしてね、お母さん朝早いんだから」

「はい」


 素直に返事をして、また固い布の貼られたソファに身を任せた。こうして何も考えずにいるときが一番幸せな気がする。目を閉じた。

 ずっと眠りたくないな。

 静かに死にたいと思った。



 今夜は意図して眠らなかった。眠ろうと思えば眠れたかもしれないのに。

 そうしたのはどうしてか、なんて自分でも考えたくはない。開いたパソコンはホーム画面のままで。ただ後ろからの風を待っていた。


 がら、という音とともに部屋の窓が開く。ぬるい風が首筋に吹き付けて、予感した。


「お兄さん」


 待ち望んだ音。咄嗟に振り返るといつも通りへらへら笑う彼がいた。


「やっほ、進捗はどうかな」

「そこそこ進んだよ」

「それはなにより」


 暫く沈黙。どうしようか、と思ったけれどやっぱり黙っておくことができなくて。


「……ねえ」


「夏からお母さんがこの部屋で寝るんだって」


 自分でも声に不満が滲み出て隠せていないのはわかっていた。それが彼にバレてしまうのも癪だったけれど、どうしようもなくて。


「じゃあ話せなくなるってこと?」

「うん」

「もしかして執筆も」

「できないね」


 もうほとんど投げやりな返事。彼は悪戯に微笑んだ。


「寂しいんだ?」

「まあ、そりゃ」

「珍しく素直だなあ」


 言わなきゃよかったかな、と拗ねたくなったのに彼が私に向けるその瞳を見るとそんなことできなくて。細めた目に三日月を見てしまった。


「大丈夫だよ、俺はいつでも味方だから」

「……そうですか」


 彼はそう言って私の頭を優しく撫でた。なんだか少し恥ずかしくなってその手を払う。

 そこから感じたのは、迫り来る夏にはぴったりの冷えた温度だけだった。



 ◯



 結局拒むこともできず、逃げられない夏はやって来る。

 母は私の部屋に布団を敷いた。本棚は別の部屋に押しやられ、もともと狭かった部屋にはとうとう足の踏み場がなくなって。

 自分の部屋があるだけでもありがたいって思うべきなんだろうか。……自分の部屋とは到底言えないくらいプライバシーもなにもないけれど。



 いつも誰かがいるのに孤独って、どういうことだろう。



 苦痛の夏。母が私の部屋で寝るようになって一週間ほど経った。


 二十三時には無理やり布団に入って眠りにつこうとする毎日。執筆時間もほんの少ししかないし、そもそも母がいると集中できない。


 そうなるとどこか別の部分を削ろうとし始めるわけで。まず夕飯を食べるのをやめた。帰ってすぐ部屋に籠もり執筆をするようになった。

 次に湯船に浸かるのをやめた。お風呂は十分くらいで済むようになった。


 そうまでして空き時間を捻出しても執筆時間は少なくて、日に日に上手く書けなくなっていく。


 ――――我慢できない。


 やっぱり眠れないとある深夜。真っ暗な部屋の中こっそりパソコンを抱えて。トイレに行くふりをして部屋を抜け出し、リビングに逃げ込む。母にも父にもまだバレていない、はずだ。

 パソコンを机の上に置いて、ずいぶんおかしくなってしまった身体を少し伸ばす。

 でもなんか、ぼんやりとした眠気があるな。


 よし。


 こっそりキッチンに侵入して冷蔵庫からブラックコーヒーを取り出す。私はコーヒーが苦手だけれどもうそんなの関係ない。今夜は絶対寝ないで書いてやる。


 リビングに戻って扉を閉めようとした。立て付けが悪いな……と、力を入れて。


 がたん。


 大きな音が立った。どうしよう、母が起きてしまったかも。いやもう起きてるだろうか。

 何にせよこんな音が鳴ったらすぐ来るだろうな――――と思ったら案の定階段を降りる足音が響いて。


「何やってるの!」


 響く眠そうな怒鳴り声。まずい、やってしまった。

 バレるかもしれないとは思っていたけれど、こんなに早くバレるなんて。開きかけたパソコンを閉じて震える。結局一文字も書けなかった。

 申し訳ないとかいう感情よりも先にこんな考えが出てきてしまうのは本当に親不孝者だって自分でも思う。


「何をやってるの。言いなさい」


 黙った。こういう時黙り込んでしまうのは悪い癖だってわかっているけれど声を出すことができない。


「言わないとそれ壊すよ」


 母の指がノートパソコンを差す。そう言われると黙っていることもできなくて、なんとか声を絞り出した。


「小説を……書いてました」

「何のために?」

「なん……、……その、コンテストに、出す用で」


 大きなため息。思わず身体がびくりと震える。


「今じゃなきゃいけないの? お母さんを起こしてまでそうしたいの?」


 母はそう言いながら詰め寄る。こういう時どうしたらいいかは知ってる。ごめんなさいと言って、もうしませんと言えばいい。でも私はできなかった。


 そう言ったとしても、その時はもうやめようと思ったとしても、たぶん私はまたこうするだろうから。


「こんな生活してたら身体壊すよ、そうなって困るのはお母さんなんだからね。分かる?」


 わかってるよ、って。言おうとしたけど言えなかった。本当にわかってるのかわかんなくなったから。

 心配してくれてるんだろうな。でも私、素直に受け取れないや。


 小説以外もうどうでもいい。

 こんな人生捨てちゃいたい。めちゃくちゃになってもいい。


 お兄さん、助けてよ。

 私と一緒にこんなところから逃げ出してよ。

 お願い、連れ出して。


 そんなこと口に出せるわけなかった。自分が悪いって分かっているから。そんな悲劇のヒロインぶったって、私はただ自分勝手な社会不適合者でしかない。

 私が悪いんだ。


 そんな自己嫌悪で脳内をぐちゃぐちゃにかき乱しているとまた、母の大きなため息が降り注いだ。


「もういいわ、好きにしなさい」


 吐き捨てるようにそう言って母はリビングを出ていった。部屋に戻る階段を登る音。ここからでも聞こえるようなため息と愚痴を吐きながら。


 もういいや、書こう。


 眠らないように大嫌いなブラックコーヒーを空っぽの胃に思い切り流し込む。舌を撫でるような苦味が一瞬で広がってそのまま全身に広がっていく。

 思わず顔が歪んだ。吐きそうだ。でもこれで眠らないでいられるならそれでいい。


 また机の上にノートパソコンを開いて、執筆途中の小説に向き合った。のに、なぜだかどうも書き進められなくて。


 もしかして私、彼がいないと書けなくなってるの?


 気付いた瞬間惨めになった。私、結局は一人じゃ何もできないみたい。


 そうしてため息をつく。自分から嫌いなコーヒーの香りがする。それだけで嫌なのに頭の中はぼんやりと曇って小説を書けそうもない。小説が書けなくなったら本当に私の居場所はなくなってしまうというのに。


 書くためなら死んでもいいと、どれだけ私の生活がぶっ壊れてもいいと思ったのに。

 食事だって面倒だった。家事だってやってあげようとか思えなかった。親不孝だってわかってるからせめて学校には行って課題はやって、最低限はちゃんとしようって思った。


 でもダメだった。


 最低限すらできてなくて、全て履き違えて。もうどうしようもなくて。

 ごめんなさいって口の中で何度言ったって無駄だった。



「たすけて、」


 どうしようもなく掠れた声が空虚に響いて。


「大丈夫」


 顔を上げるとそこには彼がいた。"月明かり"の彼が。私をいつだって照らしてくれる一筋の光。ふわりと水浅葱色のカーテンが風に揺れる。


「――――お兄さん」

「おいで。逃げよう」


 彼は私に手を差し伸べる。咄嗟にその手を握り、思い切りベランダに通じる窓から飛び出した。真っ暗で、街灯さえぼんやりと私を嘲笑っていて。

 裸足に刺さる砂利が痛くて涙が滲んだ。彼はそんな私を少し申し訳無さそうに見つめてすぐ走り出す。


 満月の下。照らされた私はきっと犯罪者のようで。ただ走る。走っている。光が通過していく。走る。

 逃げ惑って、もうどこに行っていいかもわからない。わからないのに彼はずっと私の手を引いて走り続ける。人通りの少ない住宅街の細道を抜けて、足元はコンクリートから砂利になって、土になって、泥になって。

 そこで初めて、昨日は雨だったんだと知った。


 それでも走る。水溜りに突っ込んだ足から跳ねる泥水がふくらはぎまで汚して、次第に運動に慣れていない脚がぴりぴりと痛み始めて、呼吸が合わなくなっていく。

 気がつけば私が踏みしめていたのは森の中の獣道だった。


「ね、ねえ、どこまで行くんですか」

「もう何も考えなくていいところ」


 彼はこちらを見ない。どこまで来てしまったんだろう、と思うとともに身体が限界を迎えてしまった。

 ひどい息切れ。深く息を吸って、吐いて、吐き出した息からコーヒーの香りがしてまた吐き気がする。咳き込んでその場にうずくまった。


「大丈夫?」


 深呼吸。


「……はい」

「そっか、よかった」


 彼はもうそれ以上動かない。ここはどこなんだろうと見回して、崖なんだってわかった。もしかして、と顔を上げる。


「ねえ、ここで一緒に死のう」


 彼は哀しく微笑んでいた。生きていないのに死のうだなんて変なことを言う。思えばずっと変だったけれど、なんて冗談も言えないような雰囲気で。

 彼が手を差し伸べる。


「……あぁ」


 待ち望んでいたはずだった、こんな日を。それなのに私の心はちっとも晴れない。


 かつて私の中には自己を確立するか抹消するかの極端な二択しかなかった。そういうところは母に似てしまったんだなと改めて自分が嫌になる。

 けれど、今の私は。


 夢を希死念慮で上書きすることができなくなっていた。


 私、死にたくないんだ。


 コンテストだなんて夢を見て、無理だよと抑え込んでいたのに。抑えきれなくなってしまった。

 その手を、取れなくなってしまった。


「……しにたく、ないです」


 向かい合う彼が少し息を吐くのが分かった。暗い中でもその表情はよく見える。それは彼が"月明かり"だからだろうか。それとも、と思うと同時に返事は返ってきた。


「そっか」


 彼は静かに目を伏せる。そこに籠もった憂いも惑いも、瞬きの間に移り変わって隠されていく。お願い、隠さないで、と言おうとして私も人のことを言えないことに気付いた。


「お兄さん」

「分かってるよ。大丈夫」


 何が大丈夫なんだろう、そんな辛そうな顔をしているのに。

 その指先が月明かりに照らされて仄白く光る。行き場をなくした手遊びが私の目に映る。彼、手遊びとかするタイプだったんだって今知った。


「……分かってるんだ、君が俺のようにはなってくれないって」



「俺みたいに死んではくれないって」


 息を呑んだ。


「自覚してる。俺は文学に囚われた亡霊だよ」

「小説を書き続けて、書けなくなって死んだ。それだけなんだ、本当は」

「月明かりだとかって言ってたけどそんな高尚な存在じゃないよ、俺は。知ってると思うけど」

「文学に死んだ。それでいいと思ってた」



「でも、よくなかったみたいだなあ」


 そう言って、困ったように笑った。私を見るその瞳が薄く灯っているのを見て、ああ、やっぱり彼は生きてはいなかったなって、全てが腑に落ちた。

 人外、というのは正しかったけれど彼は"月明かり"と言うには人間臭すぎて。

 彼はかつての私が願ったように死んだのだ。


「生きてるうちに君に逢えたら良かったのにね」


 ひゅう、と風が寝巻き姿の肌を撫でる。暗闇のせいで底知れない崖の下を覗きながら彼は言う。

 そんなの私だって思っていることなのに。


「……じゃあもう一度生まれてきて、その時は私を"お姉さん"って呼んでくださいよ」

「十五歳差はもはや犯罪的でしょ」

「いいじゃないですか、それも運命ってことで」


 自分でも口にした言葉の甘みにむせ返りそうだったけれど、抑える。こんな言葉で貴方が私を受け止めてくれるのならなんだっていい。


「運命って言葉嫌いとか言ってなかったっけ?」

「大っ嫌いですよ、でも貴方のことが好きだから」


 そう言って恥ずかしくなって、視線を落とした。

 思えばあの日から私はずっと変で。なんの情緒もなく現れる明日というものにいつも貴方の影を見てしまっていた。


 ……ああ、こんなにも貴方が"救い"になっているだなんて思いもしなかった。

 月が綺麗だなんて今まで思ったこともなくて。だってそれは眠れない夜に窓から見るぼやけた幻想でしかなかったから。

 ただそこにあって、手が届かないはずの儚い夢。


 そのはずだったのに。


 "月明かり"だなんて名乗る貴方のせいです。

 空っぽの身体に優しく触れる冷たいその指が、私に月光を教えてしまった。



 深く息を吐いて覚悟を決める。自分の言いたいことを正直に言う、だなんて今までやったことがないからわからないけれど、それでも。


「出逢ってしまったから、貴方が好きなんですよ。どうしようもないんです。運命としか言いようがなくなっちゃったんですから」


「……うん、俺も好きだよ」


 そんなことを言いながら苦しそうに微笑む。


「なんでそんな顔するんですか」

「はは、なんでだろうね。俺にも分かんない」


「君といて幸せだったのに――――いや、今だって幸せなのにな」


 自虐的に笑うからどうしようもなくて。


「さっさと生まれ変わって、それでいつか貴方の小説を読ませてくださいよ。その時は思いっきり年上ヅラして評をあげますから」

「俺の方が上手いかもよ、そしたらどうする?」

「もしそうなったら褒めちぎるだけです」

「……うん」

「だから、ごめんなさい。死ねません」

「うん」


 彼は頭を掻いて、それから月を見上げて。


「仕方ないなあ」


 震えた声とともにその瞳から一粒、涙が溢れた。月光に照らされてそれは宝石のように輝く。ああなんでこんな陳腐な表現しかできないの、私は。彼は誰より美しくて何よりも――――愛しいのに。


「あーダメだ、カッコ悪。はは、もうちょっとちゃんとさよならしたかったのに」


 ぎゅっと抱きしめられて、どうしていいか分からない手をおずおずとその背中に回した。

 夏にはありえないほどひんやりとした身体。だけれどそこからは限りない熱さえも感じ取れるような気がした。


「愛してる」


 耳元で聞こえたのは人生で初めて聞く響きだった。本当はそんな甘ったるい言葉嫌いで、そのはずなのに今は愛しい。

 ふわふわした髪が首筋に触れて、くすぐったくて身体を離す。


「えぇ、なんで」

「くすぐったい」

「俺のこと嫌いになっちゃったのかと思った」

「そんな風に見えます?」

「いや、全く」


 笑って、たぶんこれが最後なんだなって思ったから。見つめ合ったその瞳の奥に籠もる愛とかいうものを味わってみたくて、顔を近づけた。


 ――――その先にあったのは何もない口付け。目の前にいる彼の存在を確かめたかったのに、どうやら逆効果だったらしい。ねえ、やっぱり生きてないんですね。


 自分の目から溢れるものを受け入れられないまま、彼を見つめる。ほろり、とその身体が光になって消えていく。美しい色をした人肌の温度を持つ月光が、淡く解けて溶ける。


 辺りには雨の残った匂いが充満していた。


 ああもう、縋るものはなくなってしまったけれど。

 私は生きていられるから、貴方も生き直して。


 裸足の感覚をゆっくりと味わいながらわけのわからない帰路につく。そうして初めて、月が綺麗だと思った。

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