最後の会話

白夏緑自

 子どものころ、一度だけ幽霊を見たことがある。

小学校に登校する前の朝。子ども部屋で何かしていた私がふと廊下を見ると、スーツ姿の男がリビングの方へ歩いていった。


 顔はよく見えなかったが、仕事に行った父が忘れ物でも取りに帰ってきたのだと嬉しくなって急ぎ、あとを追いかけた。


 しかし、そこに父の姿はなかった。不思議に思い、キッチンで洗い物をしていた母へ声をかける。

「あれ? 今、お父さん帰ってこなかった?」

「ううん。そんなことないけど……。なんで?」

「だって今──」

 私の見た男の話をすると、母が洗い物の手を止めた。今でいう、少しヒステリックな母で、きっかけ一つで怒りに達することも稀にあった。今回もなにか変なことを言ってしまっただろうか。私は少し身構えた。

 しかし、この時の母は私に近づき目線を合わせると、静かに「あなたも見たのね」と優しく声をかけてきた。


 当時の私は“あなたも”といった意味に気が付くことが出来ず、思いがけぬ優しい反応にただ困惑するのみだった。

 強張った身体を抱きしめて、母が言う。


「私もね、時々見るの」

 料理をしているとき。リビングで休んでいるとき。掃除をしているとき。時間も場所も様々だが、視界の端っこに現れることもあれば、眠っているベッドの横にハッキリと姿を見せることもあると言う。


「私のお祖父ちゃんが見える人だったから。お母さんもあなたも、少しだけ見えるのかもね」

 母は怖がる私を励ますつもりだったのかもしれないが、当時の私は恐怖を感じていなかった。むしろ、幽霊が見える──霊感──という特殊能力を手に入れて、アニメの登場人物に選ばれたような誇らしさが幼い私の胸を支配していた。


 ただし、それから一度も幽霊どころか怪奇現象に遭遇しないまま大人になり、この出来事は不思議な体験として脳の箪笥に仕舞っては時々取り出して、頭の中で再放送する。その程度の思い出として、私の中では落ち着いていた。


 

 お酒も飲める年になって、母と二人で飲みに行った夜。

 三杯目のジャスミンハイに口を付けた母が「そう言えば」と思い出したように話し始める。


「今だから言うけど。──昔、住んでたマンションで自殺があったの覚えてる?」

「……いや、覚えてないけど?」

「あー、そうだよね。いや、それだったらよかった。お母さん、あんたが忘れられるように頑張ったから」

 変な言い回しだった。忘れられるように頑張った?


「あのとき少し大変だったんだよ。自殺する前のその死んだ人が、最後にエレベーターを一緒に乗ったのがあんただったって、警察の人がウチに来てさ」

「そんなことあったっけ?」

 

「だから頑張ったんだよ」

 エスカルゴの身を殻からくり抜きながら、息子のイヤイヤ期でも懐かしむような口調。僕は母に感じる不気味さをビールで流し込み、好奇心のままに続きを促した。


「とは言っても、特別なことはしていないよ。極力、警察が家に来ないよう、あなたに知ってること話をさせて。それからあとは家で一度も話題に出さなかった。ご近所のママさんたちにも、あなたがいる前で自殺の話題が出ないように根回ししてね」

「はあ、それは……。大変だったでしょ。顔なんて覚えてなかっただろうし」

「他人事みたいに言うじゃん。その通りだけど。どれだけ写真を見せられても、あんたが頷かないんだもん。そこは苦労した」

 子どもと関わる活動をしていたことがあるからわかる。幼い子どもに記憶の全て──しかも、警察が納得するまで喋らせるというのは一筋縄ではいかないものだ。


「まあ、あんたがそんな風に忘れてるってことは、私も上手くやったものだ」

「そうだね」

 誇らしげな母にメニューを広げる。グラスが空だった。

「ジャスハイ」

 四杯目のジャスミンハイが届く。ついでに、私も追加のビールをオーダーする。


「そんなわけで、あんたは私の子育てが成功し、昔の嫌な記憶を抱えぬままこうやって素直な大人になった訳だ」

「感謝しております」

 久しぶりにサシで酒を呑んで、酔っていたのだろう。母は幼子にするように頭を撫でてきて、私もそれを受け入れた。

 さてこのとき、私は嘘──とまでは言わずとも、母に隠し事を敢行していた。


 一つは自殺事件の記憶の有無について。

 母の言う通り、私は自殺があったことなど覚えていなかった。ただし、話題を切り出されたとき。より正確に言えば、私が自殺者とエレベーターで一緒になっていたと教えられた瞬間、埋まっていた記憶が破裂した水道管のように地表へ噴出した。


 脳みそが総毛立つ感触を初めて味わった。


 下校時、スーツ姿の男とエレベーターと一緒に乗ったこと。家に帰り、手を洗ってからリビングへ入ると慌ててカーテンを閉め、青白い顔で「目が合った」と呟いた母。遠くの方から近づく二種類のサイレン。青色の警察官と、コートを着た大人が立つ玄関。コートを脱いだ大人とメモを取る警察官。横で私に語りを促す母。珍しく21時を過ぎるまでに返ってきた父。

 あの日、起こったことを全て思い出す。


 思い出してなお、私はそのことを母に告げなかった。ただ、面倒だったから黙っていた。


 そして、もう一つ。腑に落ちたことがある。

 私はずっと自宅で幽霊を見た事実は覚えていた。晴れて、少し気温が高い7月の頭。窓から入る風が心地よくて、まだまだ物珍しい気持ちでワクワクしながら水泳の授業で使うプールバッグを手に持ったとき目撃した、玄関の方から廊下を通り、リビングへと向かっていたスーツ姿を。


 ここまではっきり覚えているのに唯一、男の顔だけは不鮮明であった。ずっと不思議ではあったのだが、そもそも霊視自体が珍しい現象だ。顔が良く見えなかったなど些細なことだった。


 これも、思い出した。母との会話で全てを思い出した。

 

 あの日、これから死に向かう男の顔には薄黒い靄がかかっていた。だから、よく見えなかったのだ。あの靄を死相と呼ぶのかもしれない。


 エレベーターへ先に乗った男は私へ優しく声をかけた「何階?」。「四階です」素直に答える私。沈黙が続く箱。男はずっと、俯いていた。私は──まだ六歳かそこらだが──人生で初めて遭遇する人間の表情から目を離せずにずっと見上げていた。

 

 四階に着くまでの間、死相の隙間から私を見つめる深く窪んだ瞳に、私は目を離せなかった。

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