自由は青臭く、それでいてみずみずしい
千歳叶
一
『今年最高となる四十一度を記録し――』
何のために置いたかも覚えていないテレビからげんなりするようなニュースばかりが流れてくる。酷い暑さ、酷暑。言い得て妙だ。
これだけ暑いと、夏野菜と呼ばれる連中も苦労するだろうな。なぜか野菜に同情を抱いてしまう。お前たちも大変だな、頑張って乗り切ろうぜ、なんて。連中がこの暑さを乗り切ったとして、行く末は人間の食卓だろうに。
コンビニで買った千切りキャベツを咀嚼し、私の思考は虚空を泳ぐ。辛い現実を忘れるように、懐かしい過去に逃れるように。
あれは十数年前、まだ秋と呼ばれる季節が立派に存在していた頃のこと。当時小学生だった私は、校外学習の一環として障害者支援施設へ向かっていた。いわゆる職場体験である。
清々しい青空に穏やかな気候、それでも私の気分は晴れなかった。クラスメイトの言葉が胸の内で渦巻いていたからだ。
「そこ選んだんだ、偉いねー」
彼女からすれば何気ない台詞、むしろ褒め言葉だったのかもしれない。だが、言われた当人たる私からすれば侮辱以外の何物でもなかった。私に対しても、この施設に対しても。無知ゆえの偏見が人を傷つけるなんて、彼女は考えもしないだろうが。
何が「偉いね」だ、外れクジのように扱いやがって。内心口汚く罵りながらアスファルトを踏みつけていると、気づけば施設の正門前に到着していた。見知らぬ職員が歓迎するように笑いかけてくれる。
施設を案内されていると、すれ違った職員の一人が会釈してきた。あの人には覚えがある。姉が通っている特別支援学校の先生だったはずだ。
「○○さん、知り合いですか?」
「あ、はい。多分姉のことを知ってるんだと思います」
施設利用者との顔合わせを終え、案内してくれた職員が先ほどのやり取りについて尋ねてきた。わかっていた、仕方ないこととはいえ、また姉の話か。ひっそりとため息を一つ。ここで姉の障害をとやかく言われることはないだろうが。
姉の事情をざっと話していると、利用者たちのミーティングが終わった。ここからが職場体験本番だ、失礼がないようにしなければ。
私が体験するのは、朝の運動と農作業のようだ。……え、農作業? 自分の目が点になったような気がした。
そうこうしていると軍手を渡され、施設の外へ出るよう指示される。まさか屋外作業があるとは思わなかった。室内作業ばかりで、運動もストレッチ程度だと思って、油断、そう油断していたのだ。運動嫌いには過酷すぎる。
あれよあれよとクワを持たされ、私は言われるがままに土を耕す。うわ、腰に来るなこれ。明日は体育があるのに。心の中だけでぶつぶつ文句を垂れる。
ただひたすら土と格闘していると、遠くで歓声が聞こえた。思わず手を止めて顔を上げる。視線の先で、男の人がきゅうりを手にしていた。
「……きゅうりって、夏野菜じゃないの」
「最近はこの時期まで収穫できるんですよ。そろそろ終わりですけどねぇ」
独り言に返事が来て驚く。姉のことを知っているであろう職員が、私に微笑んだ。
「大変でしょう、畑仕事」
「あ、いや……」
肯定も否定もできず、曖昧に誤魔化す。しかし目の前の大人にはわかってしまったようで、小さく吹き出された。
「意地の悪い聞き方をしてしまいましたね。涼しくなったとはいえ、これだけ動くと暑いはずです。水分補給はしてますか?」
「はい。ちょくちょく水を飲むように言ってくれるので」
近くに置いた水筒を示す。職員は「そうですか、よかった」と頷き、続けて私に手を出すよう言った。
「お裾分けです。美味しいですよ」
「……これ、さっき収穫してたきゅうりじゃ……」
「いいからいいから」
流されるままにきゅうりを受け取ったものの、どうしていいかわからない。視線をうろうろさせていると、職員は「美味しいですよ」と念を押すように言った。……食べろ、ということだろうか。
口元に運び、相手を窺う。彼は微笑みながら頷き、豪快にかぶりつくような仕草をした。それを真似して一口かじる。確かに「美味しい」と自信を持つだけはあるのだろう。そんな味がした。
「たまには誰の目も気にしない時間が必要ですよ。なんて、元教師が言う台詞じゃないですが」
しゃく、口の中で音を立てたのは空想のきゅうりではなく現実のキャベツだった。ここは爽やかな秋の農園ではなく、酷暑に抗うべくエアコンを効かせたアパートの一室。この家には両親も姉もいない。私は一人で、自由だ。
あの人が何を思って私にきゅうりを勧めたのか、今となっては知る由もない。だが、当時の私は確かに救われた。姉の付属品ではなく「私」を見てくれたのだと、そう思えたのだ。それでいい、それ以外に理由なんて必要ない。
今日はきゅうりを買ってこよう。あと酒も。この自由を祝して。
自由は青臭く、それでいてみずみずしい 千歳叶 @chitose_kyo
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