向日葵

槙野 光

向日葵

 真希まきちゃんをこの腕に抱いたときのことは、今でも鮮明に覚えている。

 蝉さえも声を顰めてしまうような真夏日で、わたしは二十四になったばかりだった。

 産院の室内は白のレースカーテンを透かした陽光で満ちていて、あきらくんが贈ってくれた一輪の向日葵はわたしたちを祝福するかのように黄色の花びらをのびのびと広げていた。

 わたしの腕の中で健やかに眠る真希ちゃんは、雲みたいに柔らかい。明くんは熊みたいな体躯に似合わない繊細な手付きで、真希ちゃんのほっぺたに触れていた。

「ねえ、明くん」

「うん」

「この子の名前、真希はどうかな」

「真希?」

「そう。真夏に生まれた、希望の子。この子が満ち足りた人生を歩んでいけるように、そう願いを込めて」

 わたしが言うと、明くんは明るい笑顔で頷いてくれた。

「真希」

 明くんが小さな声で真希ちゃんに呼びかける。すると、眠っている筈の真希ちゃんの口元が緩まった。その安心しきったような穏やかな寝顔にわたしと明くんは微笑みを交わし、そしてまた、愛おしい我が子をその瞳に映して表情を緩めた。 

「真希、パパはくましゃんじゃないよ。ほら、パパって言ってごらん」

「くましゃん」

「真希、違うよ。パパだよ」

「くましゃん?」

 真希ちゃんが小首を傾げ、明くんはがっくりと肩を落とす。

 三歳になった真希ちゃんの最近のお気に入りは、明くんが仕事帰りに買ってきた熊の絵本だ。

 森の中で迷子になった熊が様々な動物の力を借りながらお家に帰る物語で、綿飴みたいなほわほわっとしたタッチの絵からは想像できない教養が巧妙に入り混じっている。

 真希ちゃんに、真っ直ぐに育って欲しい。

 そんな願いを込めて、明くんが選んだ絵本。その願い通り、真希ちゃんはとても素直に育っている。絵本の中の熊を見て、明くんを「くましゃん」と呼ぶようになるぐらいには。

 予想外の出来事に明くんはショックを受けていたけれど、ポジティブマインドな明くんはめげなかった。真希ちゃんに向かって大きな口を開けては「パ、パ」と繰り返し言い聞かせている。でも、残念ながら明くんの努力はなかなか実らない。真希ちゃんは明くんの顔を見て、「くましゃん」と嬉しそうな笑みを浮かべ小首を傾げている。

「うっ」

 ハートの矢が刺さった明くんが胸を手で抑え、横たわる。真希ちゃんは、きゃははっと突き抜けるような笑い声を上げた。

 台所に立っていたわたしは微苦笑を浮かべ、テーブルの上に飾られた向日葵を見た。

 明くんが結婚記念日に買ってきてくれた一輪の向日葵。のびのびと咲くその姿は真夏の太陽のように眩く、その花びらは橙と黄色が溶け合ったような、まるで、沈んでは昇る陽のように鮮やかで美しい色をしている。

 満ち足りた瞬間には、明くんが贈ってくれた向日葵がいつもそこにあって、わたしの心に希望を与え暖めてくれる。

 向日葵は、わたしにとって幸せの象徴だった。

 いつもそうだった。

 その筈だった。

 でも、どうしてだろう。

 今、わたしの視界の端に映る一輪の向日葵は曇り空のように薄ぼんやりとしていて、幸せも希望も、見出すことができなかった。

「ママっ」

 十四歳の真希ちゃんが泣いている。

夏希なつきっ」

 少し頬のやつれた明くんが顔をぐしゃぐしゃにして泣いている。

 全く。真希ちゃんよりもみっともない顔をして。あなたがしっかりしなくてどうするのよ。

 そう言いたかったけれど、唇の合間からは引き攣るような呼吸音しか出なかった。

 力が入らなくなって、ふたりの声が遠ざかっていく。

 意識が身体から切り離され、痛みも悲しみも全ての感覚が抜け落ちていく。


 もう、何も聞こえない。


 暗闇の中に、一条の光が差し込む。わたしはゆっくりと手を伸ばし、そして、

「ママああ!」

「なつきい!」

 ふたりの悲痛な叫びに、流されるままになっていたわたしの意識が強く引き戻された。

 多分それは、未練てやつだったんだろう。

 真希ちゃんは、来年受験生だ。明くんはわたしがいなくなった後、真希ちゃんの強い支えになってくれるだろうか。いや、熊みたいな体躯のくせして、明くんは繊細なハートの持ち主だ。真希ちゃんはそれを知っているから、きっと、気丈に振る舞うんだろうな。

 ああ、やっぱりだめだ。だめ。ふたりを置いて逝くなんてできるわけがない。真希ちゃん、明くん。死にたくないよ。もっと生きていたい。


 ふたりともっと、一緒にいたいよ!


 強く叫んだその瞬間、わたしは意識だけの状態となって病室内に浮かんでいた。見下ろすと、真希ちゃんと明くんが寝台の上にいるわたしの身体に縋り付いて慟哭している姿が見えた。

 咄嗟に自分の身体に戻ろうとしたけれど、厚壁にぶつかったかのように弾き飛ばされ、電流が走るような痛みが広がっていく。

 わたしには、涙を溢すことも、真希ちゃんと明くんを慰めることもできなかった。

 ああ、そっか。わたしはもう……。

 理解すると同時に、哀しさや悔しさが渾然一体となって押し寄せ、途方もない無力感に襲われた。

 わたしは一体、何のためにここにいるのだろう。何もできないなら、いる意味なんてもう……。

 ゆらりと意識が揺らいだその時、窓硝子越しに影が横切り、「かあっ」と力強い鳴き声がした。見ると、烏が一羽、黒羽を広げ、訴えかけるような強い眼差しでわたしを見ていた。

 真希ちゃんが好きだった迷子の熊の絵本。

 あの熊は様々な動物に頼って、挫けそうになりながらも家にたどり着くんだ。

 今からやろうとしていることは、荒唐無稽だろうか。馬鹿だろうか。でも今は、馬鹿でもカバでも何でもいい。だってほら、扉を挟んだ廊下の向こうから聞こえてくる。

 耳をつん裂くような轟音が、硝子を引っ掻くような悲鳴が、そして、おどろおどろしい嫌な気配が。

 少しずつ、近づいて来る。

 に捕まったら、わたしは終わりだ。

 ない筈の背筋が凍り、ない筈の喉が鳴る。濁流の如く押し寄せる焦燥に動けずにいると、「かあ」と急かすような烏の鳴き声と窓硝子を突っつく鈍い音がして、金縛りが解かれたように意識を引き戻された。

 気が付くと嫌な気配は濃くなっていて、扉の方を見ると、墨を垂らしたような黒い靄が隙間から溢れ出るように、室内に入り込もうとしていた。

「かあ!」

 烏が再び力強く鳴き、わたしは駆けるように窓際に向かう。瞬く間に入り込んだ黒い靄は、鞭のようにしなりながら猛然とわたしを追ってくる。

 捕まる! そう思ったその瞬間、わたしの意識は宵闇のような烏の瞳に吸い込まれ、気が付くと、風を纏い空を飛んでいた。

 眼下では小さな街並みと極彩色の屋根が広がり、頭上近くには刷毛でぼやかしたような白雲が広がっている。

 烏が黒羽を上下に動かしながらゆっくりと振り返ると、わたしの視界も移り変わる。

 遠ざかった病室内で、縦横に伸びては縮まる黒い靄の姿が見えた。行動範囲に制限があるのか、ここまでは追いかけて来れないようだ。

 途方に暮れる様子に少しだけ申し訳ない気持ちになっていると、気にしなくていいのだとでも言うかのように烏は「かあ」と鳴き、我が家へと身体を傾けた。



 わたしは元々、未熟児だった。

 学校に入学した後も同年代の子と比較すると一回りほど小さな体躯で、高熱を出して学校行事を欠席することもしばしばあった。

 ベッドの上で悄気るわたしに、両親が言う。

「夏希は、生きてるだけで偉いんだからね」

 両親の悪意のない激励は、わたしの心を徐々に蝕んでいった。いつしか、挑戦も夢もわたしが抱くには烏滸がましいのだと、そう思うようになった。

 ホームドラマを観て、お嫁さんやお母さんに憧れた。でもその度に、羨望をくしゃくしゃに丸めてゴミ箱に捨てた。縁から溢れ落ちそうになっても、知らないふりをした。

 でも、明くんに出会ってわたしの世界は変わった。

 二十二歳になった夏の暑い日。花屋の前で動けなくなったわたしを、明くんは助けてくれた。

「大丈夫ですか?」

 差し伸べられた、大きな手。

 花屋の向日葵柄のエプロンを纏った明くんはまるで、ヒーローみたいだった。

 わたしはその日、一瞬にして恋に落ちた。

 翌日お礼にと花屋を訪ねると、明くんから食事に誘われた。それからデートを重ね、そして、翌夏。待ち合わせ場所の公園に行くと、スーツ姿の明くんがわたしの好きな向日葵を一輪手にし、立っていた。

 風なんてないのに向日葵が揺れていて、見ると、花束を握りしめている明くんの手が震えていた。

「僕と、結婚してください」

 花屋勤めでスーツなんて普段着慣れてないくせに着て、いつもは俺って言うのに柄にもなく僕なんて言って、ムードなんて何にもない、いつもの公園で顔を真っ赤にして。本当にもう……。

 大好きだよ、明くん。

「……よろしく、お願いします」 

 花束を腕に抱き喉元から絞り出したような掠れ声でわたしが返事をすると、明くんは鼻水を垂らして泣き出してしまった。それがあまりにもみっともない顔だったから、わたしは思わず笑ってしまった。

「もう、仕方ないな」

 わたしは明くんの大粒の涙をハンカチで拭いながら、太陽のような向日葵を見て思った。

 この人と一緒に歩いて行きたい、と。

 そしてその翌年、わたしは真希ちゃんをこの身に宿した。

 不安と期待に揺れながら待った妊娠検査薬の結果。赤紫を目に留めた瞬間、涙が溢れた。

 信じられなかった。夢だと思った。でも、何度見ても赤紫はそこにあって、わたしは便座に座ったままひとりで咽び泣いた。

「かあ」

 烏の鳴き声がし、我に返る。いつ我が家に着いたのか、眼前には玄関の扉が聳え立っていた。

 ありがとう。

 わたしが礼を言うと、烏は照れたように黒羽を持ち上げ頭のてっぺんを掻いた――と思った次の瞬間、張り倒されたような衝撃が全身に走り、一瞬の内にわたしは烏の中から弾き飛ばされた。

 見ると、烏の背後に黒いローブを纏った黒髪の青年が立っていた。

 青年は烏の首根っこを捕まえると、眼前まで持ち上げる。

「全く、何勝手なことをしてるんだ」

 烏がぎゃあぎゃあと喚き立てると青年は烏を睥睨し、深いため息を漏らす。

「今回は多めに見るけど、次同じことをしたら一ヶ月おやつ抜きだからな」

 青年の言葉がクリティカルヒットしたのか、烏はがっくりと項垂れて、スイッチを切ったかのように嘴を閉じ項垂れた。

 青年は烏を右肩に乗せると、わたしの方に顔を向ける。

「あなたが、坪井つぼい 夏希なつきさんですね」

 なんで、わたしの名前……。

 わたしが警戒心を顕にすると、青年は苦笑を浮かべた。

「そんな怯えないでください。ぼくはただ、あなたと話をしに来ただけです」

 話?

 わたしが訊くと青年は頷き、右手を差し出した。すると、掌の上に突然、白い子猫が現れた。子猫は息を荒くし、目を瞑っている。

「あなたが運命から脱線した時、この子猫が巻き込まれました。本来なら、ここで終わることのない命です」

 そんな……。

「ですが、子猫の精神が安定するまであなたが子猫の代わりになれば、子猫の命は助かります。そして、あなたが心の安寧を得た時、あなたは在るべき場所に還り、子猫は目を覚ますでしょう。

 あなたは娘さんと旦那さんの側にいることができ、子猫は助かる。期限付きではありますが、あなたにとって悪い話ではないはず。……さあ、選択をしてください。このままこの世を彷徨い続けるか、子猫の代わりになり命を助けるか」

 青年は口の両端を持ち上げ、わたしに決断を迫る。でも、考えなくても心は決まっていた。

 真希ちゃんと明くんの側に少しでもいられるのなら、子猫だって何だって良い。

 青年はわたしを見た。そして表情を和らげると、何も言わずに姿を消した。

 最後に、声を残して。

「お前は帰ったらお説教だからな」

「かあ⁉︎」

 わたしが笑みを溢すと、「みい」とか細い声が聞こえた。右手を持ち上げると新雪のようなふわふわとした白い毛が見える。

 子猫になったわたしは、ゆっくりと顔を持ち上げた。

 陽が落ち始め周りの家々に光が灯る中、我が家だけは宵闇に紛れるような静けさに満ちている。

 わたしは小さくて重い身体をゆっくりと丸め、真希ちゃんと明くんの帰りを待った。

 暮れゆく空に、欠け月がぽつんと浮かんでいた。

なつー! ご飯だよー!」

 リビングの窓際に置かれた猫用ベッドの上で丸くなっていると、真希ちゃんの声がした。

「なあおん」

 野太い声で返事をし、のそのそと緩慢な動作で立ち上がる。真希ちゃんの足首に頭をすりつけると、真希ちゃんは「くすぐったいよ」と笑った。

 真希ちゃんは、もうすぐ二十四歳になる。

 わたしが子猫の身体に入った日、街灯と月明かりに照らされながら真希ちゃんと明くんは帰宅した。

 ふたりの瞼は腫れぼったく、暑気だというのに青褪めた顔をしていた。

 とてもじゃないけど、見ていられなかった。

 でも、そんな状態でもふたりはすぐにわたしを見つけてくれた。

「……うちの子になる?」

 しゃがみ込んでわたしを抱えた、真希ちゃんの両手。

 優しくて暖かくて、でも、眼前に広がる笑顔に差さる夏の影は濃くて、わたしは真希ちゃんに向かって「みい」と何度も鳴いた。

 真希ちゃんは困ったように眉尻を下げて、明くんは悲哀に満ちた瞳で真希ちゃんとわたしを見ていた。

 わたしが身体を失くした日から、我が家からは笑顔が消えてしまった。

 風鈴が涼やかな音を鳴らしても窓硝子の合間から蝉時雨が聞こえても、我が家には夏が訪れない。

 それでも、結婚記念日には明くんがテーブルの上に一輪の向日葵を飾ってくれた。

 嬉しかった。でも、悲しかった。

 向日葵が黄色だってことは分かる。でも、わたしの瞳に映る黄色と、明くんの瞳に映る黄色はきっと違う。猫と人間は色彩感覚が異なっていて、わたしは明くんと同じ色を見ることは決してできない。

 記憶を掘り起こそうとしても色の記憶は曖昧で、そんな自分が悔しくて堪らなかった。

 たった一度でいい。もう一度だけ、明くんと同じ色が見たかった。



 子猫になって一年が経った頃、わたしを胸に抱えた真希ちゃんが言った。

「前は、ママがわたしを産んでくれた夏が好きだった。でも今は、ママのいない夏が嫌い。……夏なんて、来なければいいのに」

「……真希」

 明くんが真希ちゃんの右肩を抱き、ふたりの啜り泣く声で部屋が満ちていく。視界の端で、テーブルの上に飾られた向日葵の花びらが一枚、はらりと落ちた。

 真冬の重い雲底に包まれたように苦しい日々だった。

 永遠に晴れないんじゃないかと思う日もあった。

 でも、生きていれば、季節は必ず巡るんだ。

「あのね、パパ。私ね、好きな人ができたんだ」

 高校生になった真希ちゃんが向日葵みたいな笑顔を浮かべ、淡く頬を染めて言った。

 わたしが心の中で狂喜乱舞していると、明くんは「えっ」と声を上げ時を止め、長い沈黙の末、トイレに逃げた。

 わたしはダメなパパの代わりに、真希ちゃんの胸に前足をかけ鼻頭にキスをする。真希ちゃんは破顔し、わたしの頭を優しく撫でてくれた。

 真希ちゃんが好きな人――かのうくんと付き合い始めたのは翌夏のこと。

 真希ちゃんは、十七歳になっていた。

 わたしは真希ちゃんを笑えるようにしてくれた叶くんに心から感謝をしていて、だから叶くんが我が家を訪れた時、上り框で仁王立ちをする明くんの隣に行儀よく座り、叶くんを出迎えた。

「きみが叶くんか……」

 明くんが普段しない腕組みなんかして無駄に威圧感を放つから、わたしは明くんを見上げて「なあ」と強く鳴いた。すると、わたしの抗議が伝わったのか明くんは深いため息を溢し、表情を和らげた。

「よく来たね」

 張り詰めた糸が撓む。

 柔らかな微笑みを浮かべた叶くんは、折り目正しく頭を下げた。

 真希ちゃんと叶くんの関係は、大学を卒業して社会人になっても変わらないように見えた。でも、真希ちゃんが社会人二年目になったその年の夏、日曜日。二十四歳になった真希ちゃんは、目元を真っ赤にして帰宅した。

 リビングのソファに腰掛けてわたしを腕に抱いた真希ちゃんは、鼻を啜りながら涙を零す。

「もう、ダメかもしれない」

 わたしが困惑していると、インターホンが鳴った。

「……叶くんか。きみ、どういうことなんだ」

 インターホン越しに応対する明くんのその声は、険しかった。地鳴りみたいに太くて低くて、いつもの明くんじゃないみたいだ。

 まずいなあって思っていると、明くんが突然黙り込む。不思議に思っていると、明くんは何も言わずに玄関に足を向け、しばらくして名状し難い顔で戻ってきた。

 明くんは真希ちゃんの前にしゃがみ込むと、真っ直ぐに真希ちゃんを見る。

「……真希、叶くんが来てるよ」

 真希ちゃんがいやいや、とかぶりを振る。

「真希。今話さなかったらきっと後悔するよ。後悔してからじゃ遅いって、真希もよく、知っているだろう?」

 優しく諭すような、明くんの言葉。

 真希ちゃんはゆっくりと顔を上げ、少しして頷いた。

「うん……」

 真希ちゃんのその声は、今にも崖から落ちそうなくらい不安気に揺れていた。でも、明くんは真希ちゃんを支えるように強く頷く。

「大丈夫だよ、真希。何があっても、ついているから」

 明くんの言葉に、真希ちゃんの瞳に光が差し込んだ。そして、ゆっくりとした足取りで叶くんの元に向かう真希ちゃんを見て、わたしは唐突に理解した。


 ああ、そっか。

 真希ちゃんと一緒に、明くんも成長していたんだね。

 わたしがいなくても、もう大丈夫なんだね。


 瞬間、胸の奥にじんわりと光が灯った。柔らかな熱は、枝葉が伸びるように全身を伝っていく。

 わたしは今にも抜け落ちそうな心を押さえつけ、一歩一歩踏み締めるように真希ちゃんの後ろ姿を追った。

 あと少しだけ、そう願って。


「真希ちゃん誤解だよ。彼女とは何もないんだ」

 明くんの隣に座って玄関からこっそり顔を出すと、スーツ姿の叶くんが右手を背中に回したまま、額に玉の粒を浮かべ立っていた。

「でも、抱き合ってたよね……」

「あれは、軽い熱中症でよろけたところを支えただけなんだよ」

 真希ちゃんが俯く。その後ろ姿は、迷っているように見えた。

 きっとその迷いは、不安は、今に始まったことではないんだろう。でも、叶くんは諦めそうになる真希ちゃんを諦めなかった。

「真希ちゃん」

 黙り込む真希ちゃんに叶くんが優しく促すと、真希ちゃんはゆっくりと顔を上げる。

「……でも、叶くんモテるじゃない。私なんかと付き合っていて本当に良いの? 私より性格いい子も可愛い子もいっぱいいるんだよ?」

 真希ちゃんが不安げに揺れる声で叶くんに言うと、叶くんは真摯な眼差しを真希ちゃんに向けた。

「きみがいい。ぼくは、きみがいいんだ。だから真希ちゃん」

 確かな口調で言い、叶くんは腰を落とす。そして、スーツが汚れるのも厭わず三和土に跪き、背中に隠していた右手を真希ちゃんに差し出した。

 叶くんの手には一輪の花束があった。

 黄色い花びら。それは、向日葵だった。

「ぼくと、結婚してください」

 真希ちゃんはゆっくりと手を伸ばし、花束を受け取る。

「……よろしく、お願いします」

 喉元から絞り出したようなその声は、涙で、揺れているようだった。


「――残念ながら、時間です」


 声が聞こえ、気が付くとわたしの隣には黒いローブを纏った黒髪の青年がいた。

 青年が言う。

「もう少し一緒にいたい気持ちは分かりますが……」

 大丈夫。

「えっ?」

 言葉を遮ったわたしに、青年は瞠目した。わたしは、心の中でくすりと笑みを溢す。

 真希ちゃんには叶くんがいるし、明くんには真希ちゃんがいる。それに、猫の夏もいる。だから、わたしがいなくても、もう大丈夫。大丈夫だって、分かったの。

 わたしが迷いない口調で言うと青年は軽く息を吐き、表情を柔らげた。

「そうですか……」

 そして、恭しく手を差し伸べて言う。

「それでは、行きましょう」

 青年の手に触れると、眩い光に包まれた。そして、わたしの意識は微睡むように揺蕩い、やがて静かに溶けていった。


 光の中で、真希ちゃんの腕の中で揺れる向日葵が見えた。


 真夏の太陽みたいにのびのびと咲く向日葵は、明くんの手を取ったあの日と同じような鮮やかで美しい、色をしていた。

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向日葵 槙野 光 @makino_hikari

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