ないっでしょうが
「ないっでしょうが!」
法律施行から3ヶ月後。
映画を観た帰り道、僕と友人はこんな声を聞いた。
独特のクセがある声を拡声器に通し、世の中への不平不満を訴えかけている。
近づいて姿を確かめてみると、それは威勢のいい声色に違わぬ派手な装いの男だった。
僕たちより少し歳上であろうその男を指差して、友人が僕に説明を始めた。
「あいつ、最近人気になってる奴だぜ。言ってることは滅茶苦茶だけど感情豊かに話すから、輸入相手として引っ張りだこなんだ」
「なるほど。そいつの話はお前のギャグより滅茶苦茶なのか?」
「一緒にすんな!」
また手刀で頭を叩かれる。
僕が呆然としていると、友人は新ネタを考えると言って帰っていってしまった。
二人で食事をする筈だった予定がお釈迦になり、僕はため息を吐きながら空を見上げる。
太陽はまだ高く、帰宅するのはあまりに口惜しい。
リサイクルショップでも適当に見て回ろうかと思っていると、不意にスマートフォンが震えた。
アルバイト先からの連絡で、人手が足りないから援軍に来いとのことらしい。
小遣い稼ぎにはちょうどいいとその頼みを快諾し、僕はアルバイト先に向かった。
「大体君は……」
そして今、僕は店長から説教を受けている。
中肉中背の中年男性である彼は、苗字にも名前にも『中』の字が入っているというから恐ろしい。
黙り込んで嵐が過ぎるのを待っていると、店長の語気はますます強まった。
「なんで君はそう無愛想なんだ!」
なんで君はそれまで見過ごしていたことをいきなり責め立てるんだ。
と口には出さなかったが、僕は内心でそう考えた。
無愛想が嫌なら最初の内に注意すればいいし、そもそも雇わなければいい話なのだ。
それに僕は今回ヘルプで入りいつも通りに働いたのだから、感謝こそされても説教をされる道理はない。
「気づかなかったか? この頃君が対応したお客様、露骨に機嫌が悪くなっていたぞ」
「……気づきませんでした」
ということは、以前までは機嫌が悪くなることはなかったということだ。
仕事ぶりに変化はないから、原因は外部にあるということになる。
思い当たる節は一つしかなかった。
「感情輸入……」
「そうだよ。君はあれを使わずに無愛想な態度のままで仕事をしている。努力不足だ。仕事に対する誠意ってものが全く感じられないんだよ!」
そうか、と僕は納得する。
あの法律が適用されてから、無表情はもう改善できる事柄として扱われるようになったのだ。
治せる所を治さないのは、それは確かに誠意がないと言われても仕方がない。
しかし僕の納得は、次の瞬間粉々に打ち砕かれた。
「ありえないっでしょうが!」
その独特の訛りは、友人と目撃した拡声器男のものだ。
店長は僕を叱責するにあたり、あの男の『怒り』の感情を借りたのだ。
世の中がどうあれ普段通りに働いた僕と、他人の感情を借りなければ叱責もできない店長。
一体、誠意がないのはどちらだろうか。
「……もういい。今日は帰りなさい」
やがて怒りの効力が切れたのか、店長は疲れ切った様子で僕に帰るよう促す。
アルバイト先を後にすると、拡声器男はまだ『ないっでしょうが』を叫んでいた。
思えば彼も哀れな人だ。
不満は届かず、憤りは他人に利用される。
いや、後者はアプリに登録している自分の責任か。
僕もあんな風に激情を曝け出したら、説教をされずに済んだのだろうか。
「ふざけるなよ」
僕は唇だけを動かして呟く。
どうして普通に働いていただけの僕が、こんなに思い悩まなくてはいけないのだ。
法律のくせに国民の生活を変えようなんて生意気にもほどがある。
僕はいつもより少し大股で家に帰ると、ベッドに寝転がってスマートフォンを起動した。
友人の動画チャンネルを開き、手当たり次第にギャグ動画を見る。
やはり出来は酷いものだったが、今はそのつまらなさが心地よかった。
「……彼は偉いな」
皮肉ではなく、心の底からそう思う。
夢があり、努力家で、何より自分の身一つで勝負している。
方向性こそ滅茶苦茶だが、少なくとも他人の感情に頼らないだけあの店長よりはよほどいい。
噂をすれば影とばかりに、新たな動画が投稿された。
「……?」
題名もサムネイルも深刻そうで、明らかに場違いな印象を与える動画。
まるで陽気な集団の中に、陰気な者が一人放り込まれたように見える。
その陰気動画を再生すると、僕の意識は一瞬で昼間の映画の帰り道に飛ばされた。
「これは」
動画の中の友人が、拡声器男と同じことを喋っている。
拡声器男が友人に成り代わっていると言われても信じそうになるほどそっくりな友人の姿を見て、僕は直感的に理解した。
彼もまた、拡声器男の感情を借りたのだと。
行き場のない憤りを抱えながら、僕は動画を見続ける。
やがて僕はこの動画における友人の怒りの発露が、彼本来のそれとは全く違うことに気がついた。
僕も彼とは長い付き合いだから、本気の喧嘩をしたことも何度かある。
だからこそ言える。
これは彼の本心ではない。
そしてそれに気がついた時、僕は感情輸入の本質に思い至った。
「……そういうことだったのか」
友人も店長も、拡声器男の『怒り』ではなく、『拡声器男の怒り』を借りていたのだ。
つまり二人は一時的に自らの思考を放棄し、他人の価値観で行動していたことになる。
時々聞こえてくる誤作動の事例も、価値観の相違を脳が上手く処理しきれなかったことによるものだろう。
当然か、と僕は呟く。
自分自身の感情さえ制御できないのに、他人の感情など扱えるはずがない。
かく言う僕自身も、友人に対するこの憤りをどう解消したらいいか分からずにいる。
懊悩する僕の目に、ふと感情輸入アプリのアイコンが飛び込んできた。
これを使えば、僕は正しく怒れる。
誰かの道案内の下で、適切な感情表現ができる。
きっと店長もそれを望むだろう。
そこまで考えた上で、僕はアプリを消去した。
「ふざけんなよ」
まずはあの馬鹿な友人を殴る。
それから彼を、あてのない心の旅の道連れにする。
二人なら少しは遠くへ行けるだろう。
訳知り顔の連中に道案内を頼むのは、全てに疲れ果ててからでも遅くない。
ないっじゃないか。
ふざけんなよ。
友よ、君の怒りの言葉は何だ?
感情輸入 空洞蛍 @UNBABA_ZOKU
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