雲だけが、みていた。

@zawa-ryu

雲だけが、みていた。

 グラウンドのトンボ掛けを終え、首元の汗をアンダーシャツの袖口で拭うと、俺はふと校舎の時計棟に目をやった。時刻はいつの間にかもう18時を回っている。にもかかわらず校舎を照らす西日は陰りをみせず、早かった梅雨明けに合わせるように、七月初旬の空にはもう入道雲がにょきにょきと顔を出しているのを見ると、今年も夏が来たんだなとしみじみ思う。だが今は悠長に季節を感じている暇など無い。もう間もなく完全下校時刻のタイムリミットだ。吹き出す汗をそのままに、俺は小走りで先輩の元へと急ぐ。


 拾い集めたボールの汚れを一つずつ丁寧に拭き取っていた先輩は、駆け寄ってきた俺をチラッと見ると、手に持っていたボールを籠に戻した。

「グラウンド整備終わりましたッ」

「おう、お疲れ。こっちも終わった。円陣組んで締めるぞ」

「ハイッ」

 円陣と言っても俺と先輩の二人だけだが、お互い中腰になって膝に手を当て、額を突き合わせる。

「熊高ォファイッ」

「オオッ」

 先輩の号令に合わせて声を上げ、今日も一日が終わった。


 県立熊野灘高校。地方都市の片田舎、その中でも過疎化が進む地域の野球部にとって、部員数は年々減り続ける一方だ。それでも俺が入学した当初はまだ、チームで紅白戦が組めるぐらいは部員がいた。しかし夏が来て三年生が引退すると、チームはぎりぎり試合の頭数が揃う程度の人数になった。

 そんな中、新チームのキャプテンに就任した先輩は、典型的な「アツい男」だった。先輩の野球にかける情熱は部員の中で誰よりも熱く、朝練の時は誰よりも早くグランドに立っていたし、放課後の練習ではグランドの隅々にまで目を光らせ、少しでも手を抜いていると見るや否や「全力でやらんか!出来んのなら帰れ!」とたちまち怒声が飛んだ。

 練習メニューもこれまで以上に厳しいものになった。走り込みのメニューも増え、バッティング練習では一球一球に対して真剣に取り組むことが求められた。先輩は指示や指導するだけでなく、率先して練習に取り組み、自分自身にも一切の妥協を許さなかった。

 先輩の厳しさは練習だけにとどまらなかった。

 バットやボール、グローブといった用具に対して丁寧に、大切に扱う事を徹底させた。練習後にボールがただの一つでも欠けていれば、「見つかるまで帰れんぞ!」とまた怒声が飛んだ。

 そんな厳しい先輩の指導についていけず、部員は一人辞め二人辞め、年度が替わる頃には残ったのはついに先輩と俺の二人だけになった。

 そんな状況は、新入生が入って来ても変わらなかった。

 少しでもだらけた態度を見せたり道具をぞんざいに扱えば容赦なくカミナリを落とす先輩に、ついて来れる一年生など皆無だった。

 しかし、先輩はそんなことはまるで意に介していないようだった。

「やる気の無い人間ならいない方がいい」

 先輩の言葉には、迷いのない強さが込められていた。俺は部員が減って練習もままならない状況に戸惑う反面、先輩の言葉に、いやその信念に尊敬の念を抱いていた。それは憧れと言ってもいい。俺は不撓不屈を体現したような先輩の生き様に憧れ、自分もそうありたいと強く願っていた。

 俺達はたった二人の野球部員だったが、野球への情熱だけは誰にも負けないと、日々練習をこなしていた。


 野球は1チーム9人制だ。当然のことながら、二人だけでは試合に勝つことはおろか挑むことさえままならない。そんな中、夏の大会に向けて地方予選が始まると、俺たちは他の高校と合同チームを結成し、試合に挑むことになった。顧問の先生が伝手を辿って近隣の高校に掛け合ってくれたのだ。俺と先輩は久しぶりにまともに野球が出来る、と喜び勇んで練習に参加した。

 合同チームの練習初日、挨拶を済ませさっそく練習に参加した俺たちは、すぐに監督にその実力を見込まれた。先輩は投手として出場した紅白戦で相手チームをノーヒットに抑え、俺は4打数4安打、ホームラン1本を含む打点4を記録し、その日のうちに俺たちはエースと4番に抜擢された。監督は満足そうに「こりゃ今年のチームは夏の大会ひょっとしたらひょっとするぞ」と喜色満面だった。


 だが、喜んでいるのは監督だけだった。選手たちは、急に現れてエースと4番の座を掻っ攫っていったどこの馬の骨ともわからぬ俺たちに対し、敵意をむき出しにした。特に、俺達のせいでスタメンを外れたメンバーからは露骨に嫌がらせを受けた。

 練習中にボールが回ってこない。道具を隠されたりもした。さらにはロッカールームでの陰口。俺と先輩は気にしないように努めたが、そんな態度が逆に気に障るようだった。

 ある日の合同練習日、グランドの隅でトスバッティングの練習をしていた俺と先輩に一人の選手が近づいてきた。彼はスタメンを外れたメンバーの一人だった。

「あんたらさぁ、いったいここに何しに来たんだよ。俺たちのチームを壊しに来たのか?」

 何も返事を返さず黙々とバットを振る俺たちに余計に苛立ったのか、なおもそいつは悪態を吐いた。

「だいたい人数不足でウチに泣きついてきたんだろ?ならもっとしおらしくしてろよ。ただでさえお荷物で邪魔なんだからよ」

 さすがにムカッとして前に出ようとした俺を手で制し、先輩は冷静に返した。

「俺たちは誰の邪魔もしに来たわけじゃない。ただ、野球をやりにきたんだ」

「それが邪魔だって言ってんだよ!」

 そいつの大声に一瞬グラウンドに緊張が走り、すぐに俺たちを取り囲む輪が出来た。

「だいたいお前、二年なんだろ?生意気なんだよ」

 最初に因縁をつけてきた男が俺の胸を押した。

「おい、やめろ」

 先輩が俺を庇って前に出た瞬間、そいつは先輩の胸倉を掴もうとして揉みあいになった。

「よせって、もういい」

「そうだよ、やめとけ」

 見かねた部員が慌てて止めに入ったその時、先輩が利き手を押さえた。

「痛って」

 先輩の人差し指が見る見るうちに腫れていく。

「先輩っ大丈夫っすかっ」

 俺がそいつを払いのけ睨みつけると、男はバツの悪そうな顔をして黙って下を向いていた。

 

 翌日になっても先輩の指の腫れは引かなかった。

「すみません。怪我をしてしまって、この指じゃ投げるのは無理です」

 先輩は冷静に、ただそれだけを監督に伝え、包帯の巻かれた人差し指を見せた。

 なんでこんな時にと監督は頭を抱えていたが、先輩は一切なぜ怪我をしたのか理由について話さなかったし、俺にも他言無用だと念を押した。

 そして迎えた県予選初日。チームの雰囲気は最悪だった。合同チームのベンチの隅で俺と先輩はじっと試合の行方を見守っていた。

 チームは1回の裏に16点を獲られ、あっさりコールド負けを喫した。

 先輩の最後の夏は、マウンドはおろかグラウンドに立つことすらなく、あまりにもあっけなく終わってしまった。

 


 県予選の試合から一週間が経ち、あの日以降先輩とは一度も顔を合わせないまま、学校は夏休みに突入した。

 俺は今日も一人、グラウンドを走り込み、素振りに打ち込んで、誰も居ないネットに向かって、ひたすらボールを投げ込んだ。

 俺をじっと見つめる視線に気が付いたのは、町営放送のスピーカーから正午を告げるチャイムが流れた頃だった。

 アンダーシャツの袖口ではもう汗を拭いきれなくなって、俺は流れる汗をそのままにして、その視線の先にいたTシャツとジーンズ姿の坊主頭を見た。

「……先輩」

「よお」

 腕を組んで俺をじっとみていた先輩は、俺が帽子を取ると片手を上げた。

「指は、もういいんすか」

「ああ、ただの突き指だからな。一週間もすりゃ治ったよ」

「そっすか……」

 長い沈黙の後、先輩は無表情で言った。

「まあとにかく、熊高野球部も俺の代は終わった。これからはお前一人になるけど、伝統ある熊高野球部を絶やすことの無いように頑張ってくれ。時々キャッチボールぐらいなら付き合うからよ」

「ま、待ってください先輩!」

 それじゃなと片手を上げて帰ろうとする背中に慌てて声をかける。

「俺、このままじゃ嫌です。このままただ、そんな言葉で引き継いだだけなんて……。俺が、俺がこれから背負うものはそんな軽いもんじゃないです」

「お前……」

「先輩、俺、このままじゃ終われないっすよ。このままじゃ、この夏を思い出すたびに悔いが残ります。先輩、お願いします!熊高野球部の誇りを、最後に俺に叩き込んでください!」

 そこまで夢中で叫んで、俺はぶん殴られるのを覚悟で言った。

「それに……このまま終わったらきっと、悔いが残るのは先輩も同じじゃないですか?」

「………………」

 即座にパンチが飛んでくるかと思って歯を食いしばっていたが、先輩は何も言わずただ俯いていた。だが先輩の心は、かすかに震える右手の握り拳がはっきりと物語っていた。


「……そうだな、お前の言う通りだ」

 やがて先輩はそう呟くと、俺の肩を叩いた。

「俺は最後の試合、お前に何も残してやれなかった。この熊高野球部が受け継いできた誇りを、魂を、お前に見せることすらできなかったからな。なあ、ならこういうのはどうだ?俺とお前の真っ向勝負で決着をつけるってのは」

「えっ?」

「俺の全てを込めた一球をお前にぶつけてやる。俺の思いを、熊高野球部の魂を打ち返してみろ」

「……先輩」

「どうだ、やるか?」

「ハイッ!お願いします!」


「よっしゃ来ーい!」

 試合さながらに声を張り上げる俺を見て、先輩の口元が少し緩んだ。

「一球勝負だ。気合い入れろよ」

「っす!お願いします!」

 バッターボックスに立ち、バットをグルグルと回す。

「よっしゃ来ーいっ!」

 俺はもう一度これ以上ない大声を張り上げた。


 セットポジションからゆっくりと振りかぶった先輩の両腕が、マウンドから空に向かってすっと伸びていく。

 両腕が頂点まで来てぴたりと止まり、先輩の体が空と大地を一直線に結んだ。

 ああ、……これだ、そうだよ。このフォームだ。

 時間にしてコンマ何秒。その刹那の美しさを、俺は今しっかりと脳裏に焼き付ける。

 マウンドに立つ先輩の姿。俺はいつもバッターボックスからそれを見てきた。

 それも今日が最後だと思うと、目の奥が熱くなり集中力が一瞬途切れそうになったが、再び神経を研ぎ澄ますように、グリップを握る手にギュッと力を込める。

 やがて、流れるようなモーションから振り下ろされた先輩の右腕が竹のようにしなり、来る!そう思った次の瞬間、握られた白球が放たれた。

 

 白球は唸りを上げ、凄まじい回転を繰り返しながら、俺に向かって真っすぐに飛び込んでくる。

 速い!今まで見てきたどんなボールよりも速い!

 そう感じさせるほど、そのボールには先輩の三年間の思いが、気迫が込められていた。

 打ってみせる!

 そんな先輩の思いに応えるように、俺も全力でボールを捉えに行く。

 俺は嬉しかった。先輩との真っ向勝負。

 最後の全力投球を見せてくれた先輩に、先輩の魂に今、俺も正面からぶつかっていく。

 ここだっ!

 狙いを定め、全身全霊を込めた俺のフルスイングが、真っ白なボールをとらえた。



 その日、青空に吸い込まれていくようにして消えたボールは、どこまで転がっていったのだろう。

「見つかるまで帰れんぞ」

 そう言ってくれる先輩は明日からもういない。


 マウンド上で、悔いなしといった表情で頷いた先輩に、俺は帽子を取って頭を下げる。

 

 首元の汗をアンダーシャツの袖口で拭う。ゆっくりと近づいてきた先輩が差し出した右手を俺はしっかりと握り返した。

 ―俺が熊高野球部を引き継いでいきます―

 そんな思いを右手に込めて。


 二人だけの引退式。


 先輩が目を細めて見上げた夏空の下、

 果てしなく、どこまでも伸びてゆくかのような八月の雲だけが、

 俺たちを見ていた。

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