ひゃっこいラムネと腕相撲
楠 夏目
いらっしゃい
氷をたっぷり入れた桶に、ひゃっこい冷水をそうっと注ぐ。桶はからん、と音を響かせながら、あっという間に冷たく満ちた。祖母は湧き上がる汗をハンカチで拭うと、木の椅子に腰を据えたまま、夏の青空を見上げていた。燦々と地を照らす太陽が、駄菓子屋『クスノキ』の看板を焦がす。茹だるような夏の暑さは、いっさいの隙もなく熱を放ち続けていた。
「ばあちゃん、店番なら俺がやるよ」
後方から聞こえた低い声に、祖母がゆっくりと振り返る。駄菓子屋『クスノキ』の店の中から現れた少年は、手にラムネ瓶の箱を抱え、祖母を見つめて呟いた。「ラムネ、それで冷やせばいいんでしょ」
少年が桶を見やる。灼熱の光に晒されながらも、桶の中は確として異彩を放っていた。
「あらあ、わーりわね」
「いいよこれくらい。それより、今日はかなり暑くなるみたいだから、ばあちゃんは中で涼んでてよ」
空ではタッグを組んだ蝉と太陽が、これでもかと夏を盛り上げている。
「そうせばお言葉にあまえて、ちっとばっかいっぷくしようかね」
祖母は少年の言葉にうなずくと、椅子からゆっくりと立ち上がった。すっかり曲がった腰で手組み、優しく笑う祖母の横で──少年もふっと口角を上げて笑った。
桶を満たすひゃっこい氷水が、からん、と音を響かせている。
* * *
祖母が部屋に戻ったことを確認した後、少年は木の椅子に腰を据えると、ラムネ瓶に目をやった。時刻は現在、午前十時と三十分。開店して間もない事もあり、客足はまだ一人も見えない。
ラムネが冷えてきた頃が働き時だろう、と少年は内心で予想する。
「あっつ……」
ひたいに滲む汗を拭き取り、箱からラムネ瓶を取り出す。光に反射してきらりと光る瓶は、桶という名のプールに浸かることを、今か今かと待っているようだった。
ひゃっこい氷水の中へ、瓶を容赦なく入れる。途中、桶から僅かに水が溢れるが、そんなことは気にしない。
少年はラムネ瓶でいっぱいになった桶を見下ろし、安堵のため息を吐いた。どうやら準備は整ったようだ。
駄菓子屋『クスノキ』には──駄菓子はもちろん──冷たいアイスから、キンキンに冷えたラムネまで、さまざまな品が売られている。真夏の現在は、ちょうど夏休みということもあり、子供の来店が多く見られるらしい。少年はTシャツの胸元をぱたつかせながら、客の訪れを待っていた。
少年の祖母は、駄菓子屋『クスノキ』の店主として古くから店を守り続けてきた。今も昔も変わることなく、笑顔で仕事に励む祖母に憧れを抱き──少年は、夏が来る度に祖母の店を手伝うようになった。
本音を言うなら毎日手伝いたいくらいだった。だが、あいにく少年の家から祖母の家まで通うには距離があるため、長期間の休みを利用してでしか手伝うことが叶わないのだ。
「「アイスくださいっ!!」」
そうこうしているうちに、少年の目前から声が響いた。蝉の鳴声も悠々と凌駕する大きな声に、少年は思わず目を剥いて顔を上げる。
現れたのは、虫取り網と虫取りカゴとをひとつずつ抱えた、男子小学生二人組であった。彼らのTシャツには、背中までびっしょり汗が滲んでおり、前髪も同様にびちょびちょになっている。あまりの汗の量に、少年は一瞬ぎょっとしたが、それからすぐに平生を取り戻し、徐ろに椅子から立ち上がった。
「いらっしゃい。なに味にする?」
ふたりの小学生と視線を合わせるよう、かがんだ状態で疑問符を投げる。
「チョコがいい!」
「ぼくはバニラ!」
小学生二人組は、手中の虫取り網を天井へ突き上げながら呟いた。あまりの元気の良さに、少年は思わず笑みを零してしまう。
「チョコとバニラな。ちょっと待ってて」
少年は店の奥へと足を運ぶと、アイスケースから注文通りのアイスを取りだした。ケースを開ける数秒の間で、腕に張り付く冷えた空気が心地よい。
駄菓子屋『クスノキ』を手伝い始めて早数年。昔は働く祖母の横をただ走り回るだけだったが、高校生になり、今は手伝える範囲もかなり増えてきた。そう──もう祖母が横に居なくても、ひとりで店番が出来てしまう程度には。
夏休みなどの長期休みが、少年は待ち遠しかった。祖母が守り続けてきたこの店は、多くの思い出で溢れかえっている。少年自身、小さい頃は客側として駄菓子やアイスを購入したり、ラムネ瓶のビー玉取りに苦戦したりしていた。しかしそれが今、店の人として客を迎え入れる立場に立っているというのだから、何とも不思議な話だ。
閑話休題。少年はチョコとバニラのアイスを片手に、小学生二人組の元へ戻ることにする。暑さも気にせず楽しげに話す彼らの目前にアイスを出すと、ふたりは忽ち目を輝かせた。
「うまそう!」
「早く食べようよ!」
ポケットから財布を取りだし、颯爽とお金を取り出す。余程アイスが食べたかったのだろう。彼らは少年にお金を手渡すと、その場でアイスの袋を開けた。そして、ひえひえのアイスに思いきりぱくついた。
「「ひゃっこい!」」
頬に手を当て、声を揃える彼らを前に、少年は頬を緩ませる。客の喜ぶ顔をみるだけで、夏の執拗な暑さなどすっかりどうでもよくなってしまった。
桶に入った氷が、からん、と独りでに音を立てる。ラムネ瓶はもう、キンキンに冷えている。
* * *
時刻は現在、午後十二時と三十分。駄菓子屋『クスノキ』はその後も客足が途絶えることなく、安定の賑わいを見せていた。小学生から高齢の方まで、幅広い年齢に愛される店が、とても誇らしい。たった数時間で多くの人と出会えることが、どれだけ凄いことなのか──こめかみに伝る汗を拭きながら、少年は大空を見上げて考える。
「手伝うてくれてありーがとね」
店がすいてきた頃合と同時に、店の奥から声が響いた。祖母の声だった。申し訳なさそうに眉を下げ、腰を曲げた状態でゆっくりと進む祖母を見るなり、少年はすぐに傍へ駆け寄る。
「気にしないでいいよ、ばあちゃん。俺がやりたくてやってるだけだから」
祖母の横に並び、視線を合わせる。少年の行動は無意識的なものであり、誰かと話す時にだけ現れる、彼特有の誠意でもあった。
「ふっとつ動いてはら空いたろ。ちゅうはんにするか」
「うん。わかった」
少年は祖母の言葉に頷くと、店の奥へ視線を向ける。駄菓子屋『クスノキ』と祖母の家は繋がっており、店の奥には普段、祖母がひとりで住むための生活空間が広がっている。少年は祖母の歩幅に合わせながら、ゆっくりと前へ進んだ。太陽の日差しから逃れたせいか──日の当たらないその場所はやはり涼しく感じられる。ふたりはゆっくり奥へと進んだ。
あと数歩で寛げるだろう、それくらいのタイミングであった。
「ラムネひとつ! ひゃっこいやつ!」
今日一番の大きな声が、駄菓子屋の奥にまで響き渡る。少年はぴたりと動きを止めた末、素早く後ろを振り返る。声の様子から察するに、小学生くらいの男の子だろうか。午前に来た二人組の小学生とはまた別ベクトルの元気な声に、少年は内心で微笑ましく思った。どうやら新しい客が来たらしい。
「俺ちょっと行ってくるよ。すぐ戻るから、ばあちゃんは先にご飯食べてて」
少年は早口でそう言い残すと、祖母の返答も待たずして、颯爽と店へと戻ってしまった。
蝉の声が絶え間なく響く。祖母は既に居なくなった少年の姿に目を丸くした後、あらあらと困ったように──しかしどこか嬉しそうに至極優しく微笑んだ。
ラムネ瓶は今が絶好の、飲みどきである。
* * *
「いらっしゃい。ラムネ、キンキンに冷えてるぞ」
早々に店へ戻ってきた少年は、ラムネの瓶を指さして笑う。ソレは、桶という名のプールに浸かり、仰ぐように空を見ていた。「拭くからちょっと待っててな」
氷水に浸かってすっかり濡れてしまった瓶の周りの水分を、一度綺麗に拭き取る必要がある。少年はすぐにタオルを取り出すと、手際よく水を拭き取る。
その間、少年はちらりと客に目をやった。目前にいるのは、小学校低学年くらいの男の子。ノースリーブの黒いシャツからは、日焼けした腕が生えている。少年を見つめる大きな瞳は何故か自信に満ち溢れており、凛とした眉毛からは妙な気迫を感じられる。ラムネ瓶の水分を拭き取りながら、少年は内心で目前の子供を『元気くん』と名付けた。
「なあ」
するとどうだろう。まるで少年のあだ名に反旗を翻すかの如く、元気くんが声を発した。やけに鋭い声色を前に、少年は思わず目を丸くする。
「どうした?」
「おれ、今日ともだちと戦ったんだけどさ」
「……たたかった?」
いきなり何を言い出すかと思えば──少年は拭き終わったラムネ瓶を横目に、不思議そうにオウム返しをする。元気くんは、腕を腰にあてると、身体を仰け反らせながら言った。
「そう。それで戦ったら、おれがいちばん強かったんだ。だから今日はお祝いしにきた」
「……そうかお祝いか」
少年は混乱しながらも、元気くんの言葉に優しく頬を緩ませた。「おめでとう。ちなみに、何の戦いだったんだ?」
冷えたラムネを手渡しながら問う。すると元気くんは、左手でラムネを受け取った後──今度は右腕を天井に突き上げながら言った。
「腕ずもう。誰もおれに勝てなかったんだ」
満足気に目を細め、誇らしげに答える。意気揚々とした表情から察せられる通り、元気くんが喜びの絶頂にいることは一目瞭然であった。だからあんなに大きな声でラムネを注文したのか、と──少年はようやく合点がいったように頷いた。
「そうか、おめでとう。それはめでたいな」
「そう。だからおれ、将来は腕ずもうで世界大会に出るって決めたんだ。今日はその決心のお祝いでもあるってわけ」
「なるほど……」
腕相撲の世界大会──なんとも胸が高鳴る目標を掲げる元気くんの話に、少年は驚きながらも耳を傾けた。
「ともだち全員に勝ったから、もう試合してもつまらないんだ。だからさ──」
元気くんは器用に瓶の蓋を開けると、早速ラムネを喉へ流し込む。ぱちぱちと弾ける甘い炭酸が、乾いた喉を潤しているようだった。元気くんはラムネ瓶から口を離すと、ぷはーっと大きく息を吐き、少年を見ながら呟いた。「ラムネの兄ちゃん、おれと腕ずもうで勝負しようぜ」
店内に元気くんの声が響く。駄菓子屋に来たお客と言えども、初対面の子供に、いきなり勝負を挑まれてしまった。予想も出来ないまさかの展開に、少年はしばらく呆然としていた。
まだ桶に浸かったままのラムネ瓶が、からん、と音を響かせている。
* * *
腕相撲をするのは何年ぶりだろう。駄菓子屋に置かれる木で出来た椅子をテーブル替わりに、少年と元気くんは向かい合う。もちろん少年は、初めこそ「どうしたものか」と頭を悩ませていた。さて。そんな少年が、なぜ腕相撲に乗り気なのか。
時は──数十分前に遡る。
「ほら、早く勝負しようって。ラムネの兄ちゃん、もしかして逃げるつもりじゃあないよな? 小学生相手に負けるのが恥ずかしいのは分かるけど、勝負に手加減はなしだからな」
自信ありげに腕を伸ばして、元気くんが少年を見る。敗北を知らない大きな瞳は、澄んでいて、とても綺麗だった。
「いや……、でも俺と君とじゃ」
少年は遠慮気味に首を振る。小学生と高校生で腕相撲をすればどうなるのか。はっきり言って、結果はやる前から見えていた。腕の太さ、筋肉の付き方、手のひらの大きさ。その全てにおいて、少年は元気くんを上回っている。故に、負ける未来など有り得なかった。
すると、一向に頷かない少年に痺れを切らしてか。元気くんは明白な溜息と共に、やれやれと肩を落としながら言った。
「はあー、やっぱり。おれより強いやつは、もうこの町にいないのか」
「え?」
混乱する少年を他所に、元気くんは残念そうに俯いて続ける。
「……ったく、負けるのが怖いならはじめっからそう言えよな。歳上なのに、だっせえの」
元気くんはそう言うと、鋭い眼差しで少年を睨みつけた。さっきまでの大きく澄んだ瞳とは一変して、その目は失望の色を示している。
少年はこれまで、店を出ていく客の姿をたくさん見てきた。小さな子供から高齢の方まで、駄菓子屋『クスノキ』で買い物をして去っていく人々は、みんな決まって笑顔だった。しかし、今はどうだろう。
「もういいよ、帰る。今日はおれ、全国大会に出場した時のシュミレーションしなきゃだし」
元気くんは、そう言ってつまらなそうに宙を蹴ると、ラムネ瓶を片手に回れ右をした。小さな背中がさらに遠くなっていく。笑顔ではなく、不満を残して去っていく。
祖母が守り続けてきたこの店で、そんな客の姿は見たくなかった。
「わかったよ。やろう……腕相撲」
少年は、帰ろうとする元気くんの背中に向かってそう呟いた。
「ほんとか?!」
対する元気くんは、まるでその言葉を待っていたと言わんばかりに、素早く振り返る。再び大きな瞳を輝かせた元気くんに、少年はとりあえず安堵の溜息を吐いた。「ラムネの兄ちゃん、本当に戦うんだな!?」
「うん、いいよ」
少年は頷く。その瞳に、迷いは無い。
* * *
そうして──時は現在。
地面にしゃがんだ状態で、少年と元気くんは向かい合っていた。彼らの間にはひとつの椅子が置かれており、ふたりは今から、ここで腕相撲をする事になっている。
「手加減は無用だからな。ラムネの兄ちゃん」
元気くんが、口角を上げて笑う。
「うん、分かってるよ」
少年はその言葉に頷くと、椅子の上に肘をついた。目前には、元気くんの小さな腕が見える。蝉の声が、妙な緊張を掻き立てた。少年たちは、片手を組んだ状態で向かい合う。
叔母が、お昼を用意して今も尚待っている。故に少年は一刻も早く勝負を終わらせる必要があった。元気くんの言う通り、勝負に手加減は無用。たとえ相手が誰であろうとも、手を抜くことは出来ない。
「レディー、ゴーっ!」
元気くんの合図で、試合は開始した。掛け声と同時に強い力が少年を襲う。
「ほらッ……はやく、倒れろッ……!!」
目前には、真剣な顔付きで少年を倒さんと力を込める元気くんの姿があった。ぎゅっと目を瞑り、全身の力を腕に集めて、懸命に立ち向かってきているのが分かる。
「くっ……ぐおおお!」
呼吸も忘れて試合に熱中しているせいか、元気くんの顔は真っ赤になっていた。力を込める小さな手は、やはり勝利を得ようと希望に満ちている。彼は本当に真剣だった。頑張っていた。しかし、現実はそう甘くは無い。
──とんっ、と小さな音が響く。
それは一瞬の出来事であり、残酷な所業でもあった。
「……えっ?」
目前から、元気くんの驚きの声が漏れる。彼は目を丸くしたまま、ぱたんと倒れた己の腕を凝視した。元気くんの手の甲は、悔しくも倒れてしまっていた。まさかの結末に動揺が隠せないのだろう、元気くんは口を大きくあけ、瞬きもせずにその場で静止する。
そう──腕相撲の試合は、少年の勝利によってあっさり終了してしまったのだ。
(…………大人げなかったかもしれない)
腕相撲中に見せていた、賑やかな盛り上がりが嘘のように静まる。負けたことが余程ショックだったのだろう。その場からすっかり動かなくなってしまった元気くんの傍で、少年は気まずそうに頭を掻いた。
(泣いたら……どうしよう)
勝負に手加減はなしとはいえ、相手は小学生だ。思い返してみると、少しムキになり過ぎたところがあったかもしれない。
元気くんは以前として、俯いたまま何も言葉を発さない。少年は困った様子で眉を下げると、取り急ぎ元気くんに謝罪すべく、口を開かんとした。その時だった。
「す、すげぇ……!」
突然、俯いていた筈の顔を上げ、元気くんが呟いた。両手の拳を握り締め、興奮気味に少年を見上げる大きな瞳は、なぜか尊敬を含んでいた。「もしかして、ラムネの兄ちゃんも全国大会目指してんのか!?」
「全国大会!? いや、俺は目指してな……」
「おれより強いやつなんて初めてだ! かっけえ! 兄ちゃんすげぇ! 」
元気くんが身を前に乗り出して呟く。「おれも負けてられねえ! 明日は勝つから! ぜったい勝つから!」
店にやって来た時の、余裕ありげな様子とは打って変わって──元気くんはまるで本性を表したかのように、満面の笑みで少年を見た。
「こうしちゃ居られないな! おれ、帰ってトレーニングしてくるから! また明日な! 兄ちゃん!」
「いやちょっ、待っ……」
しかし少年の呼び止めも虚しく。元気くんはぶんぶんと手を振りながら駆け出すと、駄菓子屋『クスノキ』を颯爽と後にした。遠くなっていく小さな背中を、黙って見つめる。満面の笑みで帰ったことはいいとして──明日も腕相撲をすると思うと、少年は少し憂鬱だった。
「…………」
からん、と氷の溶ける音がする。唖然とする少年の呼吸音など、執拗に鳴き続ける蝉の声が、いとも簡単に掻き消してしまった。
* * *
「兄ちゃん、勝負しに来た! あとラムネも買いに来た!」
次の日、昨日とほとんど同じ時刻に、元気くんは現れた。駄菓子屋で買い物することはあくまで序で──彼の目的は、やっぱり少年と腕相撲をすることだった。
「いらっしゃい。……ん? ラムネを買うってことは、今日もお祝いの日なのか?」
タイミングの良いことに、今日も元気くん以外の客は見当たらなかった。灼熱の太陽の下、辺りは蝉声だけに包まれている。少年はキンキンに冷えたラムネ瓶の水分を拭き取ると、優しい声色でそう疑問符を投げた。
「お祝いじゃない。今日は兄ちゃんに勝つためにいっぱい練習した、自分へのご褒美」
昨日の今日で、一体どんな練習をしてきたのだろう。元気くんはひえひえのラムネを受け取ると──気合を入れると言わんばかりに、早々にラムネを喉に流した。そのあまりにも良い飲みっぷりに、少年は思わず笑みを零す。
「今日は勝てそうか」
少年が尋ねる。
「うん、しょうじき楽勝だと思うね」
元気くんは笑顔で答えた。「昨日、世界大会の動画を見まくったんだ。なんかコツも掴めたし、ぜったい勝てると思う」
「そうか。じゃあ、お手並み拝見だな」
昨日と同じ椅子をフィールドに、二人は向き合う。混じり合う互いの視線は鋭くて、夏の暑さを掻き消してしまうほどの、熱気に溢れているように見えた。
「レディー、ゴーっ!」
元気くんの合図をきっかけに、第二回目の腕相撲が始まる。駄菓子屋『クスノキ』の上では、大きな太陽が燦々と輝きを放っている。
こうして彼らは、暑くて長い夏のひと時を──腕相撲をして過ごすこととなった。
* * *
十四勝、零敗。
元気くんと腕相撲の勝負を初めて早二週間。試合は毎回白熱し、遂には祖母までもが、楽しげに対戦を見に来るようになった。
粘り強く挑みに来る元気くんは、何度負けても泣いたり怒ったりすることなく、果敢に勝負を挑んでくるのだが──やはり。勝負の結果はどれも、少年の圧勝に終わっていた。
「あーっ、また負けた! ……でも次はぜったい勝つからな! 覚えてろよッ!」
元気くんは負けた後、決まってこの捨て台詞と共に駄菓子屋を後にする。恐らく彼は、勝てるまで勝負を挑みに来るつもりなのだろう。しかし何度やったとしても──小学生との腕相撲勝負に、少年が負ける筈がなかった。
* * *
「ごうぎらねっか。なんべんもなんべんも挑みに来てまあ」
昼飯を食べながら、祖母が笑う。どうやら彼女は、元気くんをいたく気に入ったらしい。少年が聞いた話によると、諦めずに何度も挑戦する彼に関心を抱いたのだという。
「うん。俺だったら三日で諦めてるよ」
少年は祖母の言葉に頷くと、熱々の銀シャリを頬張った。
今日の昼食は、ふっくらした白米と鯖の塩焼き。それから──なすの漬物に、なめこの味噌汁と、どれも美味しいものばかりであった。
少年はゆっくり咀嚼しながら、楽しげな祖母を見つめる。元気に話す祖母を見ていると、なぜか自然と目元が緩んだ。
小学生も高校生も、夏休み終了は同じくらいの時期だろう。夏はいよいよ中盤に差し掛かり、夏の暑さも増していく。腕相撲の世界大会に出場する前に、少年を倒すという目標を立ててしまった元気くんは──恐らくこれからも、少年の元へやってくるのだろう。
しかし。この夏、元気くんが少年に勝つことは恐らく叶わない。なぜなら、たった数日間の努力では、人は急速に成長出来ないからである。積み重ねれば、年の差など関係なしに、元気くんはいつか少年を倒すだろう。
だがその未来が訪れるのは、少なくともこの夏ではない。
(……明日も、来るよな)
せっかくの夏休みを、少年と腕相撲をするためだけに使って良いのか。学校の宿題は順調なのか、外出の予定はないのか──少年は、元気くんが自分との腕相撲に勝つために何かを犠牲にしていないか、気がかりだった。何度も挑戦する度に、「次は絶対勝てる」と思い込んでいる元気くんに、かける言葉が見つからなかった。
からん、とコップに入れられた氷水が、冷ややかな音を響かせる。この日、少年はゆっくりと昼食を食べながら──ふと、ある決心を固めることにした。
* * *
熱風が肌をなぞり、灼熱の日差しが皮膚をさす。今日も相変わらず暑かった。心做しか昨日よりも汗が止まらないので──少年は首にタオルをぶら下げて、水分を取りながら店番に励むことにする。
キンキンに冷えたアイスと、種類豊富な駄菓子たち。そして──桶の中で寛ぐラムネ。少年は椅子に腰掛けると、駄菓子屋『クスノキ』に訪れる客を待っていた。
「今日もあっちぇね」
店の奥から祖母がやってくる。太陽の日差しに目を細めながら、祖母は少年の隣までやって来た。
「ばあちゃん、この椅子座って」
少年は忽ち立ち上がると、祖母へ椅子に座るよう促す。しかしどうだろう。祖母は少年の話に首を振るどころか──こちらの声などまるで聞いていなかったかのように、前方を見つめて黙っていた。
「……ばあちゃん?」
椅子と祖母を交互に見る。少年の言葉を聞かず、心做しか真剣な様子で前方を見つめる祖母の姿を──彼は不審に思った。一体前方に何があるというのだろう。少年は祖母の真似をすべく、チラリと前方に目をやった。そして思わず目を剥いた。
「今日も来たぞ! ラムネの兄ちゃん!」
元気な声が鼓膜を震わせる。少年の視界が捉えたのは、これまで二週間に渡って腕相撲勝負を繰り広げてきた、元気くんの姿だった。
「いらっしゃい」
少年は元気くんを優しく見つめ、これまで同様に彼を歓迎した。
「ふふっ」
祖母が笑う。彼女が少年の言葉に無反応だったのは、こちらへやってくる元気くんの姿に意識を奪われたからなのだろう。
元気くんは祖母に綺麗なお辞儀をすると、「ラムネください」と敬語で呟いた。少年と対話する時とは雲泥の差がある言葉遣いに、なんだか少し憎たらしさを覚える。
祖母がラムネの用意をする間、元気くんと少年は二人きりになった。こめかみに伝る汗をタオルで拭い、少年は元気くんと目を合わせる。
「今日はお祝いか? それともご褒美か?」
少年が疑問符を浮かべて笑う。すると元気くんは──彼の胸元へ拳を突き出して言った。
「違うよ、今日は、勝つための元気チャージ」
「そっか」
少年はふっと優しく微笑む。腕相撲勝負を初めて二週間。その全てで敗北しておきながらも、元気くんは諦めなかった。むしろ日に日にやる気で満ちていく大きな瞳が、少年にとっては重荷だった。やるせなかった。
しかし、それも今日までだ。
元気くんは叔母からラムネを受け取ると、代金を支払い、勢いよく蓋を開けた。キンキンに冷えたラムネが、しゅわしゅわと音を響かせる。元気くんはごくごくとラムネを喉に流し込んだ末、真剣な眼差しで少年を見た。
「今日こそ勝つ! ぜったいに!」
腕をぶんぶんと振り回しながら、元気くんは椅子の前までやってくる。彼は椅子の上に肘を置くと、少年に早く来るよう目で合図した。彼の誘いに乗ってあげるべく、少年も同様に椅子の前でしゃがんだ。
向かい合って、腕を組む。ふたりの準備は万全だった。
「…………」
「…………」
見つめ合うだけの、沈黙が続く。試合の行く末を見守るべく、叔母は少し離れたところから、ふたりを笑顔で見守っていた。
灼熱の太陽が、がっちりと握り合うふたりの手を照らす。さあ、用意は整った。
「レディー、ゴーっ!」
元気くんの掛け声と共に、いよいよ試合がスタートする。瞬間、物凄い力が少年の腕へと降ってきた。
「おりゃあああっ……!」
歯を食いしばりながら、必死に少年を倒さんとする元気くん。額に溢れる汗も気にせず、眉を釣りあげて叫ぶ姿は、まるで咆哮する小さな獣のようだった。
しかし、その力はまだ未熟なもので──少年を倒すには、やはり力が足りていなかった。
「たおれ゙ろおお……ッ!!」
少年が少し力を加えるだけで、元気くんの敗北は決まる。だが、しかし。少年は、普段なら元気くんを倒すであろう頃合になっても、腕に力を込めなかった。
いいや。それどころか──
ぱたん、と誰かの腕が倒れる。どちらかの手の甲が、突然下へと倒れたのだ。
元気くんは目を大きく剥くと、腕相撲をしていない片方の手で、己の目を擦った。何度も瞬きを繰り返すその瞳は、勝負の結果に動揺が隠せないようだった。
元気くんの手が──少年の手の上にある。
十五回目の腕相撲勝負は、少年ではなく、なんと、元気くんの勝ちで終わったのだ。
「あー……! くそ、負けた」
少年は元気くんから手を離すと、悔しそうに額に溢れる汗を拭う。立ち上がり、腰に手を当てて上を向く姿は、どこをどう見ても敗北を悔しがる少年の姿だった。「強くなったな」
唖然とする元気くんの肩を叩き、少年は笑う。それは優しい笑顔だった。これまで負けじと勝負を挑み続けた彼を、褒め称えるような笑顔だった。しかし、しかしどうだろう。
「…………」
元気くんは喜ぶどころか、言葉も発さず俯くだけだった。
「どうした?」
嬉しさのあまり泣いているのだろうか。少年は眉を下げて微笑むと、元気くんの小さな頭を、撫でてやろうと腕を伸ばした。その時だった。
「ふ、ふざけんなよ……!!」
少年の腕を勢いよく叩き、元気くんが顔を上げる。その瞳には一切の喜びも、感動も含まれてはいなかった。想像とは正反対の姿を前にして、少年は思わず目を見開いた。
「小学生だから騙せるとでも思ったのか!? バカにすんなよ! こんな勝ち方、ちっとも嬉しくねえ!」
「え……?」
「最悪だ、見損なった……! もう、もう、兄ちゃんなんか知らねえっ!」
元気くんは少年をキッと睨み付けると、颯爽と駄菓子屋から出ていってしまった。
眉を釣りあげ、怒りのあまり溢れそうになる涙を、必死に堪えていた元気くんの姿が頭に浮かぶ。
この時、少年はようやく気付いた。
自分がわざと負けたことを、元気くんは、最初から見破っていたのだと。
* * *
蝉の声が聞こえない。少年の頭は「取り返しのつかないことをしてしまった」という後悔で、いっぱいになっていた。真剣勝負を挑みに来ていた元気くんに、わざと負けるようなこと──絶対にしては行けなかったのだ。
「しねえばいいのに。なぁしてそんげことしたの」
隣から、祖母の声が聞こえた。少年は俯いたまま口を開く。
「あの子が……ずっと負けてばっかだったから」
「かわいそうだと思うたの?」
祖母の問いに小さく頷く。
それからしばらく沈黙が続いた。蝉の声だけが聞こえる空間は、何だかとても息苦しくて、少年は無意識に唇を噛んでいた。
するとやがて。祖母は小さく息を吐いたあと、まるで少年を諭すような真剣な声色で呟いた。
「もしあんたがそれされたら、どうおもう?」
心に穴をあけられた気分だった。少年は大きく目を見開いた後、己の過ちを受け止めるように静かに目を瞑る。
ずっと負けてばかりだったから──そんな言葉は、単なる言い訳に過ぎない。彼の気持ちを理解せず、勝たせてあげた方がいいだろうと勝手に思い込み、勝負に手加減をした。そんなこと、していい筈がなかったのに。
再び沈黙が続く。少年は言葉が見つからず、ただ後悔に苛まれていた。これから自分がどうすべきか、少年は必死に考えた。眉間に皺を寄せ、拳を握りしめ、やるせなさを押し殺しながら考えた。
すると、どうだろう。そんな彼の肩へ祖母の掌が優しく触れる。ふと我に返るよう顔を上げると、真剣な表情でこちらを見つめる祖母の瞳と目が合った。
「ちゃんとしなせ」
祖母が放った言葉は、それだけだった。それから彼女はゆっくりと椅子に腰かけると、駄菓子屋『クスノキ』の傍を通る人々へ「ひゃっこいラムネあるよ〜」と元気よく呟いた。
どうやら祖母は、店番に励むつもりらしい。
燦々と光る灼熱の太陽が、呆然と佇む少年の頭部を照らす。熱風が肌をなぞり、蝉の声が執拗に鳴り響く。傍にある桶から、からん、と氷の溶ける音が鳴った。
「……っ、ばあちゃん! ごめん!」
少年は祖母に頭を下げると、突然その場から回れ右をした。彼は小さく呼吸した末、駄菓子屋『クスノキ』に背を向けて、物凄い勢いで走り出した。首にかかったままのタオルが、熱風に晒され無防備に揺れる。
小さくなっていく少年の背中を、祖母は静かに見守っていた。
* * *
まだ半分ほど残っているラムネを飲みながら、元気くんは空を見上げる。
彼がいるのは、駄菓子屋『クスノキ』から少し離れた公園のベンチ。目前では、虫取り網を片手に大騒ぎする小学生二人組や、ブランコで遊ぶ子供たちがちらほらと見える。
「……はあ」
元気くんは、ベンチに腰掛けたまま大きな溜息を吐いた。そして、力無く手中のラムネ瓶に視線を移す。
ラムネの兄ちゃんと初めて腕相撲をした時。自分より強い相手に出会えたことが、ただただ嬉しかった。初めての敗北はとても悔しいものであったが──何度も挑戦すればいつかは絶対に勝てると信じて疑わない元気くんにとって、過去二週間の勝負は、とても大切な思い出であった。
そう。元気くんはこれまで、ラムネの兄ちゃんとたくさん勝負をしてきた。だからこそ見抜けたのだ。自分をわざと勝たせるために、ラムネの兄ちゃんが手を抜いたことを。
悔しかったし、バカにするなよとも思った。ずっと負けて可哀想だからと同情された気がして、泣きたくなった。
元気くんはラムネ瓶を空に掲げると、宝石のように輝くそれをじいっと見つめてみる。あまりの美しさに気を取られているうちに、段々と頭が冷えていくのが分かった。
それと同時に、ラムネの兄ちゃんがどれだけ優しいかを身に染みて思い出した。
普通、何度も勝負を挑みに来る小学生など、大抵の人が相手にしない筈だ。しかしラムネの兄ちゃんは、文句のひとつも言わずに勝負を受けてくれた。毎回毎回、優しい笑顔で「いらっしゃい」と言ってくれた。
きっとわざと負けたのも、彼なりの気遣いがあったからに違いない。
分かっていた。本当は全部分かっていた。しかし望んでいなかった勝利を受けて、自分を抑えられなくなってしまった。ラムネの兄ちゃんの気持ちも考えずに、酷いことを言ってしまった。
元気くんは唇を噛みながら俯くと、数分前の己の行いを悔いた。今回の件でラムネの兄ちゃんを怒らせてしまったに違いない。
今後あの駄菓子屋に行っても──もう遊んでくれないだろう。それどころか、いつもみたいに「いらっしゃい」と、優しい笑顔で迎え入れてくれないかもしれない。
この暑さのせいだろうか。目の周りが暑くなる。喉の辺りがつうん、と痛くなり、意図せず鼻水が出てきた。元気くんは目から溢れる大粒の汗を拭わんと、腕を上げた。まさにその時であった。
「居た……!」
聞きなれた声が目前から響き、元気くんは慌てて顔を上げる。汗で視界が霞んで、前がよく見えなかった。それでも、鼓膜を揺らす優しい声には聞き覚えがあった。
その人物は元気くんを見つめたまま、急ぎ足でこちらへ近付いてくる。距離が狭まっていくうちに、目前の人物が肩で息をしているのが分かった。
全速力で走ったのだろう、身体はびっしょりと汗で濡れており、首にかけられたタオルで拭いても足りないくらいの量だった。
一歩一歩、確実に。その人物は真剣な様子でこちらへやってくる。元気くんはゴシゴシと目元を拭った末、ぼやけなくなった視界で、ふと目前の人物を見上げてみることにした。
「見つけられてよかった」
元気くんの目前まで来たその人物は、ぜーはーと呼吸を整えながらも、安堵しているようだった。もう聞くことは叶わないと思っていた優しい声が、鼓膜を揺らす。
そう。元気くんの前に現れたのは──
駄菓子屋『クスノキ』で店番している、強くて優しい、ラムネの兄ちゃんの姿だった。
* * *
「な、んで……ここに」
元気くんは驚いた様子で目を丸くしながら、声を震わせる。大きな瞳が少し赤くなっており、僅かに泣いたあとが見られた。
ここでひとり泣いていたのかと思うと、少年は自分を恨まずにはいられなかった。申し訳なさと自分に対する怒りで身体が熱くなり、息苦しささえ感じてしまう。
少年は乱れた呼吸を整えながら、ベンチに座る元気くんを見やった。そして、彼に向かって勢いよく頭を下げて呟く。
「ごめん。せっかく挑んでくれたのに、わざと負けるようなことして……ごめん」
それは何とも真剣な謝罪であった。頭を下げる少年の姿を、元気くんは呆然と見つめる。それだけでは無い。公園で遊んでいた子供たちまでもが、頭を下げる少年の姿に、「何してるんだろう」と疑問の視線を向けていた。
「な、なんで兄ちゃんが謝るんだよ……!」
元気くんは咄嗟に眉を下げると、ベンチから降りて少年を見上げながら言った。「悪いのはおれだ! 兄ちゃんが優しくしてくれたのに、酷いこと言って傷付けた……ごめん」
元気くんは落ち着きがない様子で、手を前で組んだり離したりしながら、しょんぼりと項垂れて謝った。彼がそこまで思っていたとは知らず、少年は慌てて首を振る。
「違う、君は何も悪くないよ。俺がわざと負けたのが悪いんだ」
だから謝らないでくれ。
少年は元気くんの頭を撫でながら、優しい声色で話す。しかし元気くんは頷かなかった。
「おれが悪いの……! ラムネの兄ちゃんは悪くないんだって! 」
元気くんはぶんぶんと首を振りながら叫ぶ。服の裾を握りしめる姿は、溢れそうになる感情を必死に抑えているようだった。
「違うんだ、悪いのは俺だ。君は悪くない」
「ちがうってば!」
「違わない」
「違うったら違う……!」
するとどうだろう。大声で言い争うふたりの姿は、やがて周囲の注目を奪った。
「もしかして……駄菓子屋のお兄さん?」
少年と元気くんの言い争いに終止符を打つよう、すぐ傍から声が響く。ふたりは慌てて顔を上げると、声のする方へ視線を向けた。そこには──虫取り網と虫取りカゴを抱えた、いつぞやの小学生二人組が立っていた。
「あ、君たちはこの前の……」
駄菓子屋『クスノキ』でアイスを買いに来た二人組だ。少年は冷静さを取り戻すように目元を緩めると、「こんにちは」と挨拶をする。
「喧嘩はだめだぞ」
「でも、ふたりとも謝ってたよ」
二人組はコソコソと何やら会話をしながら、少年と元気くんを見つめている。元気くんにとっては初めて会う人物なのだろう──彼は首を傾げると、少年の耳元で囁いた。
「誰?」
「この前駄菓子屋に来たんだ。お客さんだよ」
「へえ」
元気くんは二人組の正体を聞くなり、納得したように手を叩いた。先までの口喧嘩は何処へやら。二人組の介入によって、少年と元気くんは気が付けばいつものように会話をしていた。
「ぼく、駄菓子屋のお兄さんとこの子が喧嘩してるのかと思った」
すると突然。二人組のうちのひとりが、安心したように声を発した。その言葉を聞いてようやく、少年はここが公共の公園であったことを思い出す。
「だから言ったろ。駄菓子屋の兄ちゃんが、こんなところで喧嘩なんてするわけないって」
二人組のうちの片方が、やれやれと首を振りながら呟いた。どうやらふたりは、少年と元気くんが喧嘩をしてると思い、駆け付けてくれたらしい。
顔が熱い。必死だったとはいえ、まさか小学生に心配されてしまうなんて──立ち去る二人組に手を振りながら、少年は、自分の身の振り方を改めようと強く決意する。
気が付けば、空には夕焼け空が浮かび始めていた。オレンジ色の背景を、墨色のカラスたちが飛び回る。良い子はそろそろ、家に帰る時間だ。
「なあ、……ラムネの兄ちゃん」
恥ずかしさのあまり言葉を失う少年の横で、元気くんが呟いた。少年ははっと我に返ると、その場にしゃがんで目を合わせる。
「どうした?」
「あのさ、その……また勝負しに来てもいい?」
元気くんが、少年に尋ねる。夕日が差し込む公園内は、美しい光で満ちていた。
眉を下げ、心做しか不安そうに疑問符を投げた元気くんを前に──少年は、ふっと優しく微笑みながら言った。
「もちろん、いつでも来てくれ」
「ほ、ほんとかっ!?」
目を輝かせる元気くんの横で、少年は深く頷いてみせる。穏やかな夕日は、笑い合うふたりの間をくぐり抜け──ベンチに置かれた、ラムネ瓶を照らした。
氷がないにも拘わらず。ラムネ瓶は、からん、と音を響かせた。
そんな気がした。
* * *
執拗な蝉声が鼓膜を揺らし、灼熱の太陽が店を照り付ける。少年は今日も相変わらず、駄菓子屋『クスノキ』で客の訪れを待っていた。
「そろそろかねえ」
少年の横で作業をしていた祖母が、時計を見つめて呟いた。些か、いつもより明るい声色を発するものだから──祖母がこの時間をどれだけ楽しみにしているのかは、もう言わずとも分かった。
「ラムネひとつ! ひゃっこいやつ!」
そうこうしているうちに、元気な声が駄菓子屋内に響いた。声のする方へ視線を向ければ──そこには、この夏何度も目にしてきた、元気な子供が立っている。
少年はふっと口角を上げると、目前に佇む彼の元へ近づいた。後ろでは、祖母が優しい笑顔でふたりを見守っている。空いっぱいに広がる青空から、太陽の日差しが駄菓子屋『クスノキ』に差し込んだ。
少年は目前の彼と目線を合わせるよう、その場にゆっくりしゃがんで言うのであった。
「いらっしゃい。ラムネ、キンキンに冷えてるぞ」
ひゃっこいラムネと腕相撲 楠 夏目 @_00
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