名探偵と気まぐれな彼女

楠 夏目

足つぼマット


父さんが足つぼマットを購入したのは、今から半年前のことだった。


──そろそろ健康にも気を遣わないとな。


父さんが我が物顔でそれを買って来た時、僕は笑いを堪えるのに必死だったのを覚えている。

話し合いの結果、その足つぼマットは家の洗面所に置かれるようになった。

朝、起きて顔を洗う時。

家から帰って手を洗う時。

夜、歯磨きをする時。

一日のうちに何度も足を運ぶその場所で、動作の序に足つぼマットを使用する。それは一見すると効果的に思えた。


もちろん僕たち家族も、初めのうちは父さんに習って足つぼマットを愛用していた。体重をかけた瞬間に伝わる足裏の痛みなんて、慣れてしまえば怖くない。長く乗れば乗る程、マットから降りた時の開放感が堪らなく心地良かった。

きっと僕はこれからも足つぼマットを愛用していくのだろう──なんて、漠然と考えながら過ごして来た。

しかしそれも長くは続かなかった。理由は単純、早々に飽きが回ってしまったのだ。


結局、半年経った今でも足つぼマットを使用しているのは、父さんたった一人だけだった。何度でも言おう。我が家で足つぼマットを使用するのは父さんただ一人。それは家族全員が知っている、所謂周知の事実であった。だからこそ、この時の僕は全く予想もしていなかった。


たったひとつの足つぼマットから──まさか、あんな出来事が起こってしまうだなんて。


* * *


暖かな日差しが額を照らす。

それと同時に僕の鼓膜を揺らしたのは、鳥の囀りでもなければ、ミーコの鳴き声でもない──止むことを知らぬ目覚まし時計の音であった。ジリリリと絶え間なく高音を響かせるソレに耐えきれず、僕は渋々身体を起こす。するとどうだろう。活性化する前の脳が、突然「外の景色を見よう」だなんて提案してきた。僕は乱雑に前髪を掻き上げると、溜息混じりに歩き出す。


ベッドを降り、カーテンから透ける光に手を伸ばす。今日の空は澄んでいた。春も終盤に差し掛かり、そろそろ梅雨が来ようとしている。窓を開ければ春の匂いがしてきそうだが、生憎いまはそんな気分じゃない。僕はその場で伸びをすると、眠気を覚ますべく深く呼吸する。


僕の部屋は二階の奥に位置している。

対して、足つぼマットは一階の洗面所に置かれていた。これから、顔を洗ったり歯磨きをしたりする必要がある為、僕の動作は言わずもがな決まっている。


さて、そろそろ洗面所に行こう。

気怠げな足を何とか動かし、出入口へとひた歩く。眠気のせいだろうか──瞼を閉じても目に浮かぶあのマットが、何だか少しだけ憎たらしく思えた。暖かな日差しに背を向けて、僕は洗面所に向かう。


一日の始まりは、暖か且つ穏やかだった。


* * *


「おはよう」


階段を降りて、廊下に出た時。前方から低い声が聞こえた。咄嗟に顔を上げると、そこには父さんが立っていた。ちょうど洗面所から出て来たばかりらしい。びしっと決まったスーツ姿を見る限り、そろそろ家を出る頃だろうか。


「おはよう父さん。もう会社行くの?」


僕は欠伸混じりに尋ねる。意味もなく頭をかいてみると、寝癖があることに気が付いた。


「いいや、まだ行かないよ。さっき母さんに珈琲のおかわりを頼んだところだ」


今日は金曜日。

出勤を前に、腕時計を見ながら答える父さんの姿が、少しだけかっこよく見えた。だがそう思うと同時に、既に準備万全な父さんと違って、まだ顔すら洗っていない己の状況が恐ろしく思えてきた。遅刻する訳には行かない──と、ふと湧き上がる焦燥感に意識を奪われる。そうこうしている暇はない。

僕は「へえ」と適当な相槌を打ちながら、たった今父さんが出て来たであろう、洗面所へ向かうことにした。


* * *


洗面所へ入ってすぐ。

僕の視界が捉えたのは、足つぼマットではなく──白くて大きな物体だった。その物体は僕の存在に気が付くと、足元に歩み寄り、気紛れに頭を擦りつけてきた。


「おはようミーコ。よく眠れたか?」


僕はその場にしゃがみ混むと、ミーコの頭や顎を優しく撫でてみる。自由気ままな彼女は、目を細めながらゴロゴロと喉を鳴らしていた。

ミーコとは、僕の家に住む飼い猫のことだ。彼女との付き合いは足つぼマットより長く、もう出会って三年になる。普段は気紛れなミーコだが、僕が悩んでいたり傷付いていたりすると、彼女は必ず慰めに来てくれる。優しくて自由な彼女を見ていると、自然と冷静さを取り戻せるのだ。


本当ならもう少しミーコと遊んでいたいが、生憎いまは学校の支度がある。僕は渋々立ち上がると、顔を洗うべく洗面所の前へやって来た。そして、大きな溜息を吐いた。


「……まただ」


洗面所に立つであろう絶妙なポイントに、足つぼマットが置かれていた。半年経った今でもこれを使用しているのは父さんただ一人。

僕の家はミーコも入れて六人家族だが、母さんも姉ちゃんも妹もみんな──ここに設置された足つぼマットは、足で端に避けるのが癖になっている。


但し、どれだけ遠くに避けたとしても。父さんが洗面所から出てくると、そのマットは必ず元の位置に直されているのだ。父さんのことはもちろん好きだが、これだけはどうも納得出来ない。足つぼマットを使用するのは父さんだけなんだから、態々元の位置に直さずとも、自分の部屋にでも置いておけばいいのに。


「いい加減邪魔だよな……なあミーコ」


足元のミーコに同調を求める。しかし僕の願いとは裏腹に。ミーコは僕の足元をするりと抜けると、ドアの隙間を器用に通り、洗面所から出て行ってしまった。彼女の気紛れさには敵わない、と僕は微笑する。


但し、そうこうしているうちにも時間は刻々と過ぎていく。学校に遅刻する訳には行かない。僕はハッと我に返るように鏡に映る自分を見ると、足つぼマットを適当に端へ避け、一刻も早く顔を洗うことにした。


* * *


洗面所から出、リビングへ向かう。途中、胡椒のような酸味ある匂いが鼻を掠めた。その匂いに続くよう、卵独特の香りを感じ取り、僕は思わず頬を緩ませる。

広々としたフライパンに油を垂らし、何かをじゅうじゅうと焼いているのが、台所に行かずとも分かった。

間違いない、この匂いは──


「目玉焼きですね」


僕はリビングに顔を出すなり、台所に立つ母さんに向かって得意顔で呟いた。普段からミステリー小説ばかり読んでいるせいだろうか。気付いたことがあると声を出さずにはいられないのだ。


「あら、よく分かったわね。まるで探偵みたいだわ」


出来上がったばかりの目玉焼きを皿に盛り付け、母さんは僕を見た。丸い瞳が驚き混じりに僕を見るので、何だか少し照れ臭くなる。


「何言ってるのよ母さん。そんなの当てずっぽうに決まってるじゃない」


だが、僕が照れていられたのもそこまで。食卓テーブルから聞こえた呆れ混じりの声色を前に、僕は明白に眉を顰める。


「せっかく良い気分だったのに……水差さないでよ姉ちゃん」


既に朝食を食べ終えたのだろう。姉ちゃんは僕の言葉に構うことなく、空になった皿を満足気に見下ろしていた。同じ高校の制服を纏っているにも拘わらず、まだ入学したての『服に着せられた』僕とは違って、姉ちゃんの格好はかなり様になっている。


「何言ってんのよ。探偵ごっこなんてしてる暇があるなら、さっさと朝ご飯食べて学校行きなさいよね」


ご馳走様でした。

ジト目を送る僕に向かって姉ちゃんは淡々と言葉を吐き捨てると、食べ終わった食器を持って台所へと去ってしまった。

さっきまでの良い気分が台無しだ、と僕は大きな溜息を吐く。


すると突然──リビングの奥から甲高い泣き声が響いた。妹の声だった。


「あらあら、もう起きちゃったのかしら」


僕には二歳の妹と、高校三年生の姉がいる。まだ妹は幼いが──つい最近、僕や姉ちゃんのことを「にいに」や「ねえね」と呼べるようになった。懸命に名前を呼ぶ妹の姿を見た時。僕だけじゃなく、あの姉ちゃんの表情までもが涙目になっていたのが懐かしい。


「……あれ、そう言えば父さんは?」


朝食を食べるべく席に着いた時、僕は漸く父さんの不在に気が付いた。「珈琲のおかわりを頼んだ」なんて言っていたのに、トイレにでも行ったのだろうか。


「なに馬鹿なこと言ってるのよ。父さんならもうとっくに会社へ行ったわよ」


無意識のうちに呟いていた、小さな小さな疑問符。だが、姉ちゃんはそれを聞き逃さなかった。呆れ声で放たれた返答に、僕は思わず振り返る。するとそこには、姉ちゃんが通学鞄を抱えて立っていた。


「でもさっき、母さんに珈琲のおかわり頼んだって──」


「それはもう何十分も前の話でしょう? アンタが洗面所から出た時には、もう家を出てたわよ」


姉ちゃんはそう淡々に述べると、リビングに飾られた大きな時計を指さした。「それよりアンタ、時間は大丈夫なの?」


「……あっ!」


僕は大きく目を見開いたまま、即座に時計に目を向ける。するとどうだろう。短針と長針が指し示す時間は、いつもなら僕が家を出る筈の時間になっていた。


「遅刻したって知らないからね。それじゃあ、お先に」


静止する僕に構うことなく、姉ちゃんは「行ってきます」と元気よく家を後にしてしまう。食卓テーブルに取り残された僕は、出来たてホヤホヤの目玉焼きを見つめながら顔を歪める。朝食を食べずに学校へ行くか、それとも今すぐ朝食を食べるか。究極の選択に眉を顰めずにはいられない。

気が付けば、甲高い声で泣いていた筈の妹の声が聞こえなくなっていた。一体、起きてからどれだけ時間が経過したのだろう。身体を巡る妙な焦りが、大波となって僕の心に襲いかかって来る。その時だった。


──にゃーお。


ミーコの鳴き声で我に返る。僕の心中などお構い無しの彼女は、再び気紛れにリビングへやって来ると、ソファに腰掛け、大きな欠伸を披露していた。目を細め、大口を開ける彼女を暫く見つめる。しかしミーコは僕の視線など「どうでもいい」とでも言うように、ボーッと窓の外を見つめるばかりである。

その冷静ぶりを見ていると、まるで「早くしなよ」と急かされているような気さえ感じた。


こうしているうちにも、時間は刻々と過ぎていく。

焦りと後悔で満ちた僕の叫びが、家中に響き渡ったのは──それから三秒後のことだった。


* * *


慌ただしく過ぎ去っていった金曜日とは打って変わって、土曜の朝は穏やかだった。どれだけ寝ていても怒られないし、目覚ましの音だって鳴り響きやしない。今日も明日も休みなんだ、まだ寝ていていいだろう。部屋に差し込む暖かな日差しに目を背けるべく、僕はくるりと寝返りを打った。僕の睡眠計画は着々と進んでいたのだ。そう──


にゃーお、と容赦なく僕の腹へ飛び乗ってくる彼女の姿を目にするまでは。


「……ミーコ、重いよ」


僕は力無く声を上げる。しかしミーコは僕の言葉を聞いても尚、その場を動こうとしなかった。気紛れな彼女には本当に敵わない。


「分かった、起きる。起きるから」


渋々身体を起こしてみると、ミーコは満足気に僕の腹から飛び降りた。おはようの挨拶はしてくれないのか。彼女は僕に背中を向けると、気紛れに部屋から出て行ってしまった。


* * *


部屋から出、顔を洗うべく洗面所へ向かう。特に予定のない休日は、ある意味最高の時間かもしれない。これから買ったばかりのミステリー小説を読もう──なんて、ぼんやり考えながら廊下を歩く。


しかし、僕がお気楽気分で居られたのもそこまで。洗面所の扉を開けてすぐ、僕は忽ち顔を歪めた。


「……またか」


お決まりの通り。僕の視界が捉えたのは、綺麗に整えられた足つぼマットの姿だった。もちろん父さんの仕業だろうけど、あの人もよく飽きないものだ。僕はその場で溜息を吐くと、いつも通りに足つぼマットを端へ避け、顔を洗うことにした。


眠気を覚ます程よい水が、顔全体に飛びかかる。すぐ側に掛けられたタオルを手にし、僕はゴシゴシと顔を拭く。目を開いてすぐに視界が捉えたのは、柔らかいタオルの姿だった。日差しの強さを忘れさせる涼しい青色が心地良い。今日もいい一日になりそうだ。


それから僕は──避けたマットを元に戻すことなく、洗面所を後にした。


* * *


「おはよう」


リビングに足を踏み入れてすぐ。中にいるであろう家族に向かって、僕は朝の挨拶をした。しかしどうだろう。


(……あれ、誰もいない)


テレビはついているというのに、リビングには誰もいないようだった。


焦らずともそのうち戻って来るだろう。

僕は構わず部屋の奥へと突き進むと、朝食を食べるべく台所へ向かう。有難いことに、母さんは休日でも平日でも構わず、僕たち家族の朝食を作ってくれているのだ。バランスのとれた美味しい食事に、感謝せずにはいられない。


台所へ辿り着くと、ラップに覆われた二つの食事が目に入った。どちらもラップの上から黒の油性ペンで名前が書かれている。これを見るにまだ朝食を食べていないのは、どうやら僕と姉ちゃんだけらしい。

味噌汁に焼き魚、それから野菜炒め。食欲の唆る最高の食事に、僕はごくりと喉を鳴らす。炊飯器に入ったご飯を盛り付ければ最後、朝食の準備は万全だ。


「あら、今日は珍しく早起きね」


突然背後から声が聞こえ、後ろを振り返る。そこには、妹を抱っこした母さんの姿があった。


「ミーコに起こされたんだよ」


茶碗にご飯を盛り付けながら、僕は答える。熱を持った米粒たちが、茶碗を介して僕の掌を温めてくれた。


「良かったじゃない、早起き出来て。丁度いいわ、天気も良いし散歩にでも行ったらどう?」


「いかないよ。今日は部屋で小説読むから」僕は母さんの言葉にかぶりを振ると、早々に話題を切り替えることにした。「父さんは?」


「買い物を頼んだの。一時間前に出たから、もう少し経ったら帰ってくると思うわ」


明白な僕を見て。母さんはくすりと笑みを零すと、妹を抱っこしたままリビングの奥へと消えてしまった。きっとオムツでも変えるつもりなのだろう。

僕は意味もなく茶碗を握り直すと、気を取り直してご飯を盛りつけていた。


「おはよ」


すると。妹と母に続くよう、新たな人物がリビングへやって来た。視線を向けると、首にピンクのタオルをかけた状態の、姉ちゃんの姿が見えた。前髪が湿っているのを見るに──洗面所で顔を洗ってきたばかりなのだろう。


「おはよう姉ちゃん」


「えっ、アンタが私より早く起きるなんて珍しいじゃない。今日は予定でもあるの?」


「だからミーコに起こされたんだって」


不思議そうに首を傾げる姉ちゃんに向かって、僕はまた同じ言葉を吐き捨てる。ミーコはいつも気紛れだけど、こういう時は決まって姿を見せないから悔しい。


窓から差し込む暖かな日差しが、我が家の食卓テーブルを照らす。ぐうっと響いた自分のお腹の音を聞いて、僕は漸く空腹を理解した。テーブルの上に朝食を並べ「いただきます」と手をあわせる。

空っぽの胃を満たすべく、姉ちゃんより一足先に朝食を食べることにしよう。


まずは味噌汁から食べようじゃないか。ゆっくりとお椀を持ち上げれば、野菜の旨味を多分に含んだ濃い味噌の香りがした。この匂いを感じる度に、母さんの料理の上手さには頭が上がらない。僕は元気よく口を開け、味噌汁を食べようと動く。

まさにその時だった。


──にゃーお。


突然現れた気紛れな彼女が、僕の足元で鳴き声を漏らした。此方を驚かせる気満々の勢いある鳴き方に、僕は思わず肩を震わせる。それだけじゃあない。驚いた反動で、僕は手中の味噌汁を服に零してしまったのだ。味噌を含んだ温かな液体が腹を滑る。


「あっ! ミーコおまえ……」


幸い、ミーコの身体に味噌汁は零れていないようだった。僕は慌てて立ち上がると、真下の彼女を睨み付ける。しかし、そんな僕の怒りを知らない彼女は、特に悪びれる様子もなく颯爽とその場から逃げ出してしまった。


嵐が去った後の静けさとは、まさにこの事か。室内には小さなテレビ音声だけがただただ響いていた。服から香る味噌の匂いに、落胆の溜息を抑えられない。


「早く洗って来なさい。シミになるわよ」


全てを見ていた姉から、同情混じりの声が響く。僕はその言葉に力無く頷くと、渋々洗面所へ向かうことにした。


* * *


全く酷い目にあった。

気紛れな彼女に腹を立てつつも、本当は構って欲しかっただけなのかもしれない──なんて考えが頭を過ぎる。ミーコはいつだって気紛れだが、実は案外頭が良かったりするのだ。この家に住んで三年。普段、家中を歩き回って生活する彼女は、この家の全てを把握している。この前だって、僕が筆箱をなくして困っていると、ミーコが場所を教えてくれたのだ。


朝ごはんを食べ終えたら、ミーコの好きなオヤツでもあげようかな──彼女のことを考えながら、僕は洗面所への扉を開ける。

しかしどうだろう。中に入ってすぐ、僕の思考は停止した。ミステリー小説を読んでいるせいか、少しの異変にも敏感なのかもしれない。僕は大きく口を開けたまま、瞬きをも忘れて一点を見る。驚くのも無理は無かった。



父さん以外、誰も使わない筈の足つぼマットが──綺麗に整えられていたのだ。



おかしい。どういうことだ。

僕は訝しげな表情を浮かべ、足つぼマットを静かに見下ろす。服に着いた味噌汁の汚れなど、最早どうでも良くなっていた。


母さんの話によると、父さんは一時間前に買い物に行ったらしい。そしてまだ帰って来ていない。平生、父さん以外の家族はみんな足つぼマットを端へ避けていた。実際、今朝の僕も足つぼマットを端へ避けてから顔を洗った。

だが現在。そのマットは至極綺麗に元の位置へと戻っている。


なら一体、誰が足つぼマットを元の位置に戻したっていうんだ。


沸き上がる疑問符と共に、謎を解明したいと思う探偵欲が溢れ出てきた。僕は拳を握り締めると、服に着いた味噌汁の汚れも忘れて洗面所を飛び出した。


この謎を、何としてでも解明してやる。


* * *


自分の部屋に戻って来た僕は、胡座をかいた状態でベッドに座り込むと、早速推理を始めることにした。


まずは容疑者を洗い出してみよう。

この『足つぼマット事件』において──犯行が可能だったのは、妹と、姉ちゃんと、それから母さんの三人だけだ。


理由は簡単。

僕が起床した時、父さんは既に買い物へ出掛けていた。僕は起きて早々に足つぼマットを蹴り飛ばした為、時間の関係上、父さんが犯行を行うことは不可能なのだ。


更に容疑者を絞ってみよう。

ここで忘れてはならないのは、妹がまだ二歳だということだ。妹は寝起きの機嫌が悪く、起きて早々に泣き出してしまったり、母さんに抱きついたまま離れようとしなかったりすることが多々ある。果たしてそんな妹が、自らの意思で洗面所に行き、足つぼマットを綺麗に整えるだろうか? いやしない。第一、妹ひとりでは洗面所の扉を開けるなんて不可能だろうし、妹の傍には常に母さんが居た筈だ。異変があればすぐに察知出来るに決まってる。

故に、妹が犯人だという線は薄いと言っていいだろう。


となると──残るは姉ちゃんと母さんの二人。

ここまで絞れれば後は簡単だ。犯人を見極めるべく、今から二人にそれとなく探りを入れてみよう。


僕はベッドから立ち上がると、勢いよく部屋を飛び出した。


* * *


リビングにやって来た僕が最初に目にしたのは、食卓テーブルで朝食を食べる姉ちゃんの姿だった。焼き魚に醤油をかけ、熱々の白米と共に勢いよく口へ運ぶ。美味しそうに食事を進める姉ちゃんの様子を見ていたら、ぐうっとお腹の音が鳴ってしまった。


「アンタ朝ごはん食べないの? 要らないなら私が二食分食べるけど」


お腹の音だけで僕の存在を察知したのか。姉ちゃんは僕を見ずにそう呟くと、今度は味噌汁に手を伸ばしていた。

推理に夢中になって、朝食のことをすっかり忘れていた。腹が減っては推理も出来ない。僕は「食べるよ」と口を尖らせ、姉ちゃんの隣に腰掛ける。するとどうだろう。隣に座った僕を見るなり、姉ちゃんはすぐに箸を持つ手を止めると、目を見開いて言った。


「ちょっとアンタッ……洗面所に行ったんじゃないの!? 信じらんない。その服、汚れたままじゃない」


「あっ、忘れてた」


「忘れてた、じゃないわよ。まったく……食べる前にさっさと着替えて来なさい」


姉は僕を睨みつけると、虫を追い払うような勢いでシッシッと手を振る。姉ちゃんが几帳面なのは重々承知だが、流石にそれはちょっと傷つく。


「はいはい……わかったよ」


いまは一刻も早く空腹を満たしたい。僕は足早にリビングを出ると、汚れた服を着替えることにした。


* * *


気を取り直して。

食卓テーブルに戻った僕は、横目でこっそりと姉ちゃんを見てみる。足つぼマット事件の犯人は──姉ちゃんなのか、それとも母さんなのか。それを見極める為にも、容疑者に揺さぶりをかける必要がある。


「姉ちゃん」


僕はこほん、と咳払いすると、探偵のような鋭い瞳で姉ちゃんに疑問符を投げることにした。「今朝、起きてからの行動を教えてくれない?」


「はあ? ……なによ急に」


僕の言葉を聞くや否や、姉ちゃんは眉を顰めて此方を見てきた。焦りを隠すためか、疑うように目を細めるその表情は、まるで言い逃れる方法を探す犯人のようだった。


「実はいま、ある事件を追っていましてね」


だが僕は怯まない。どんな些細な異変も見逃さないよう、瞬きせずに姉ちゃんを見る。体内を流れる血液が沸騰しているのが分かった。ミステリー小説で何度も目にした状況が、いま自分自身に起きていると思うと──ワクワクせずにはいられない。


「ある事件って……はあ。悪いけど、アンタの探偵ごっこに付き合ってる暇はないわよ」


「姉ちゃんは起きて直ぐに洗面所へ行きましたね」


呆れ顔をする姉ちゃんに構わず、僕は質問を繰り返した。「その時、足つぼマットはどのような状態でしたか」


「普通に端へ避けられてたわよ。ていうか、足つぼマットの話なんか聞いてどうすんのよ」


「なるほど──あくまで言い逃れを狙うつもりですか。面白いですね」


「なにも面白くないわよ。アンタいい加減にしないと蹴り入れるわよ」


足つぼマット事件の容疑者は、姉ちゃんと母さんの二人だけ。しかし実のところ──この名探偵である僕は『姉ちゃん』が犯人なんじゃないかと推理しているのだ。


事件が起こる前のことをよく思い出してみよう。僕が足つぼマットを端へ避けたあと、洗面所へ行ったのは誰だろう?

まず一人目の容疑者である母さんは──僕が洗面所を出てすぐ、妹を連れてリビングの奥へと消えてしまった。その為、母さんに犯行を行う余裕なんてない筈なのだ。


対して。二人目の容疑者である姉ちゃんは、僕が洗面所を出た後に現場で顔を洗っている。リビングに来た時、前髪が濡れていたのが何よりの証拠だ。


つまり──犯行が可能だったのは姉ちゃんただ一人だけ、ということになる。


「貴方は起床してすぐに洗面所へ行き、顔を洗った。犯行に及んだのはその時だ」


「はあ……?」


「僕の目はごまかせません。この足つぼマット事件の犯人は──姉ちゃん、貴方だッ!」


椅子から立ち上がり、隣の姉ちゃんを堂々と指さす。ミステリー小説のように犯人をズバリと言い当てた瞬間、妙な興奮と達成感が身を包んだ。

だが、まだ終わりじゃあない。僕はその場に立ったまま、唖然とする姉ちゃんに言った。


「動機も言い当てましょう。貴方、実は足つぼマットを愛用していたんじゃないですか。だから端へ避けられたマットを見た時──元の位置に整えてしまった。そうですね」


決まった。完璧だ。

胸を張って推理を述べ終えた僕は、犯人の自白を静かに待ってみる。するとどうだろう。姉ちゃんは徐ろにその場から立ち上がると、いつの間にか空になった食器を持って僕を見上げた。

そして動揺せずに言ったのだった。


「はあ……アンタの考えは何となく分かったけど、私じゃないわよ。その犯人とやらは」


「……え?」


僕は大きく目を見開くと、首を傾げて姉ちゃんを見る。さっきまでの探偵モードも、いつの間にか消えてしまっていた。


「だって私が洗面所から出てきた時、廊下で母さんとすれ違ったんだもの。オムツを替えた後だったみたい。手を洗いに洗面所へ入っていったわよ」


「……なんだって?!」


鋭い一閃が身体に走る。「でも、リビングに来たのは母さんの方が先だったじゃないか!」


僕は堪らず疑問符を投げた。

動揺のあまり声が震える僕を他所に、姉ちゃんは至って平然と答える。


「そうでしょうね。私、洗面所に行ったあとトイレに行ったから」


瞬間。鈍器で頭を殴られたような、妙な感覚が僕を襲った。自信をもって推理してみたのはいいものの、どうやらそれはハズレだったらしい。

真犯人は──母さんだったのか。


「……ごめん姉ちゃん、疑って」


僕は明白に肩を落とすと、姉ちゃんに向かって頭を下げた。無実の人を疑ってしまうだなんて、探偵失格だ。


「良いわよ別に。チョコレートアイスで許してあげる」


姉ちゃんはそう言って笑みを浮かべると、「ええっ」と口を尖らせる僕を無視して、台所へと去ってしまった。食卓テーブルに取り残された僕は、その場でがくりと肩を落とす。


どうやら、事件をもう一度洗い直す必要があるようだ。


* * *


朝食を食べ終えた僕はもう一度、洗面所に戻ってみることにした。そして未だ綺麗に整えられた足つぼマットをじっと見つめてみる。どんなに些細な異変も見逃してはならない。真犯人が母さんだと言うのなら、その証拠が必ずどこかにある筈だ。


──にゃーお。


推理に夢中になる僕の傍ら、背後からミーコ鳴き声が聞こえた。彼女は気紛れに僕の足元を動き回ると、その場で大きな欠伸をしている。


「ミーコ。この足つぼマット事件は、僕が何としてでも解いてみせるからな」


強い決心を語ってみる。きっと彼女には何を言っているのかサッパリ分からないだろう。だがそれでも構わなかった。

謎を解明したい、と思う気持ちが僕を駆り立て、興奮させる。今日は僕が探偵として事件と向き合った、記念すべき日になるかもしれない──ミーコの頭を優しく撫でながら、僕は口角を上げる。残る容疑者は母さんただ一人。

さあ──推理再開だ。


まずは、事件があった時のことをもう一度考えてみよう。

起床してすぐ。僕は一階の洗面所へ行き、足つぼマットを端へ避けた。僕のあとに洗面所へ入ったのは、姉ちゃんと母さんの二人だけ。姉ちゃんの証言が正しければ──最後に洗面所へ入ったのは母さんということになる。


母さんは、手を洗う為に洗面所へ行った。端に避けられていた足つぼマットを、元の位置に戻したのは、きっとその時だろう。


姉ちゃんの証言も十分な証拠になるだろうが、それだけじゃあ足りない。もうこれ以上推理ミスをしない為にも、もう少し証拠を見つけなくては。


僕は地面にうつ伏せになると、普段見ないような低い場所から高い場所まで、念入りに見渡してみる。洗面所には、洗濯機や洗濯カゴ、タオルやドライヤーに、収納ケースなんかが揃っている。この中に、母さんが洗面所へ来たという証拠はあるだろうか。


僕は目を細めると、真剣な表情で周囲を見渡す。歩いたり止まったりを繰り返していると、うっかり足つぼマットに足先をぶつけてしまった。斜めにズレたマットが、黙って僕を見上げる。現場を荒らしてしまうなんて探偵失格だ。僕は見落としがないよう注意を払いながらも、マットを元の位置に直そうとした。その時だった。

ふと──洗濯機の中が気になった。


今日は土曜日。我が家の洗濯担当は父さんと母さんが曜日ごとに請け負っており、平日は母さんが、休日は父さんが洗濯をしている。土曜の朝にも拘わらず、早起きする事が習慣づけられている父さんは、起きて早々に溜まった洗濯物を洗うクセがあるのだ。


つまり──父さんは買い物へ行く前に、洗濯を行った筈。


僕は徐ろに洗濯機へ近づくと、蓋を開けて中を覗いてみる。するとどうだろう。中には、湿った服がごろりと入っていた。ビンゴだ。


次に洗濯カゴの中を見てみる。中に入っていたのは一枚の青いタオルだけだった。



「……そういうことだったのか!」



僕は大きく目を見開くと、カゴの中に入れられた青いタオルを取り出してみる。僕は今朝、顔を洗った時にこのタオルを使用したのだ。まだ微かに冷たいのをみるに、僕以外の人物も、このタオルを使用したに違いない。僕はタオルを洗濯カゴに戻すことなく、その場で強く握りしめた。


つまり──コレが洗濯カゴの中に入れられていたということは、僕より後に来た人物が、そのタオルで水分を拭き取り、カゴに入れたということになる。



(間違いない……足つぼマット事件の犯人は、タオルを洗濯カゴへ入れた人物だ!)



そしてその人物は恐らく、母さんだと思う。

顔を洗った姉ちゃんが、リビングへやって来た時のことを思い出してみよう。そう──僕は、姉ちゃんの首にピンクのタオルをかけていた事をこの目でハッキリと見ているのだ。


もし姉ちゃんが、青いタオルを洗濯カゴに入れて、尚且つピンクのタオルを首にかけていたと仮定しよう。その場合、姉ちゃんのあとに洗面所へ行った母さんは『新しいタオル』を取り出す必要が出てくる。しかし、周囲にそんなものは見当たらない。


(だとすると……やっぱり犯人は母さんだ)


心中で盛り上がる沸騰寸前の血液に加え、謎を解いてしまったという爽快感が混沌しながら僕を襲った。ここまで分かればあとは簡単だ。


「よし。母さんの所へ行こう」


僕はタオルを握り締め、颯爽とその場から走り出す。さあ、名探偵の本領発揮だ。


* * *


「母さん、ちょっといい?」


リビングの奥に辿り着いた僕は、妹の世話をする母さんに向かって声を掛けてみた。


「勿論いいわよ。どうしたの?」


僕の疑問符を耳にするなり、母さんは首を傾げて僕を見てくれた。妹が産まれてからというもの、何をするにも妹優先だった母さんが、僕だけを見ている。それが何だか、少しだけ嬉しく思えた。


だが、いま僕は母さんとお喋りをしに来たワケじゃない。名探偵として、足つぼマット事件を解決しに来たのだ。僕はその場でコホンと咳払いをすると自分の脳内を探偵モードに切り替えて言った。


「実はいま、ある事件を追っているんです」


「ある事件……? あらあら凄いわねえ、一体どんな事件なの」


母さんは僕に微笑むと、優しい声で尋ねてくる。緊張感の欠片もない状況だと言うのに、心が弾んでしまうのは何故だろう。


「あ……足つぼマット事件って言っていうんだけど、その、父さん以外の誰かが、洗面所の足つぼマットを元の位置に直してるんだ」


「そうなの? あの人以外にも足つぼマットを使ってる人が居たのね」


母さんが楽しそうに微笑むせいで、推理に集中出来やしない。

だが、こんなところで怯む訳にも行かない。僕は手中のタオルを握り締めると、それを母さんの前に突き出して見せた。


「これを見てください。これは洗濯カゴの中に入っていたタオルです。僕の推理だと、端へ避けられていた足つぼマットを元の位置に戻した人物は──タオルを洗濯カゴへ入れた人物と『同一人物』である可能性が高いんです」


僕はタオルを持っていない方の手で母さんを指さすと、自信満々に言葉を放った。「そう、足つぼマット事件の犯人は貴方だ……! 母さん」


僕の推理を耳にして、母さんは一瞬驚いた様子で目を丸くさせると──別段動揺する訳もなく、また優しく微笑んだ。「言い逃れは出来ませんよ」と僕が呟いても、母さんの笑みは止まることを知らなかった。


「凄いわ、本当に名探偵みたいね」


「……それは犯行を認めるということですか?」


気が付けば、タオルを持つ手が震えていた。今思うと、妹が産まれて以来──母さんと二人だけでこんなに長く話したのは久しぶりだった。食事の時や出掛ける時は勿論話すけど、それ以外の時、母さんは大抵妹の世話をしている為、あまり機会が無かったのだ。推理中だというのに『嬉しい』と思う感情の方が強く湧き出るせいで──僕の心中はいつになく混乱しているのが分かった。


「ええそうね。確かにタオルを洗濯カゴへ入れたのは母さんよ。新しいタオルを出そうと思ってたんだけど、うっかり忘れてたみたいだわ。ごめんなさいね」


「じゃあやっぱり犯人は──」


「でも、足つぼマットを元の位置に戻したのは母さんじゃないわ」


「……え?」


僕は大きく目を見開くと、首を振って答える母さんの姿を唖然と見つめていた。どういうことだ。容疑者は間違いなく、母さんと姉ちゃんの二人だけの筈なのに。


「母さんが洗面所へ来た時、足つぼマットは既に端へ避けられていたの。だからそのまま動かさずに手を洗って、洗面所を出たわ」


「……そんな馬鹿な」


なら一体、誰が犯人だって言うんだ。

僕は肩を震わせながら、必死に思考を巡らせる。まさか妹が犯人だったのだろうか。それとも、姉ちゃんと母さんが嘘をついていた可能性も──


「ただいま」


その時、玄関から声が響いた。その声は紛れもない父さんの声だった。


「あら、おかえりなさい」


玄関の方を向いて、母さんが声を発する。いつもこうだ。僕と話している時も、そうじゃない時も──普段から忙しい母さんは、休む間もなく次から次へとその場を去るように動き出してしまう。妹が産まれてからは特に、一緒に話してくれる時間が減った。ひどい、あんまりだ。




今は、僕の大事な推理中なのに。




「…………はあ」


探偵モードもいつの間にか切れ、やる気がなくなってしまった。僕は意味もなく手中のタオルを握り直すと、その場で回れ右をして、洗面所へ戻ることにする。


折角の休日だと言うのに、かなりの時間を無駄にしてしまった。今すぐ部屋に戻ったとしても、もう今日中に読みたかったミステリー小説を読み切ることは不可能かもしれない。


何だか妙に身体が重くて、妙に心が痛かった。やる気がなくなったからしょうがない──と言い訳をしながらも、態と歩みを遅らせている自分にどうしようもなく腹が立った。



名探偵だ、なんて言っておきながら。

幼稚な僕はただ──誰かに構って欲しかっただけなのだから。



リビングを出る途中、父さんと鉢合わせした。その後ろには母さんもいる。


「もう起きてたのか? ほら、買い物の序にアイス買って来たよ」


お前の好きなチョコレートアイスもある。

ビニール袋からアイスを取り出し、父さんが呟く。顔を見あげずとも、父さんがどんな表情をしているのかなんて容易に想像出来た。母さんと同様に、父さんも優しくて眩しい。


そのせいだろうか。

高校一年生にもなっても幼稚で面倒臭い自分が、どうしようもなく惨めに思えた。


「……いらない」


「えっ?」


「部屋に戻る」


「ど、どうしたんだ……? もしかしてこのアイス、好きなやつじゃなかったか」


「うるさいなあ! 僕のことなんて構わないでよ」


僕は父さんの腕を跳ね除け、その場を立ち去ろうと急ぐ。急に冷たい態度を取られて、父さんは混乱しているに違いない。八つ当たりもいいとこだ。なんであんな事を口走ってしまったのだろう。


不器用な自分が嫌になる。急に目も周りが熱くなった。風邪を引いた訳でもないのに、喉の辺りが苦しくなった。推理を前に興奮したんじゃない、妙な辛さに感化されて、身体が燃えるように熱くなったんだ。


部屋に戻って頭を冷そう。僕はよく周りも見ないまま、勢いだけで廊下を走る。

その時だった。


「待ちなさい……!」


背中から響いた怒声混じりの声色に、僕は思わず我に返る。ぼやけた視界が捉えたのは、こちらを見つめる父さんと母さんの姿だった。二人がどんな表情で僕を見ているのか──涙で霞んだ視界では、それを確認することすら不可能だった。


怒られるのだろうか。

行き場のない不安感が背筋をなぞった、妙な汗が流れて出て来て、心臓の拍動が早まっていく。僕はその場に立ち止まると、地面を見つめて本音を呟いた。


「父さんも母さんも嫌になる! いつもいつも忙しくて……妹が産まれてからは特に、全然僕に構ってくれないじゃないか」


自分はいま、世界一ダサい高校生かもしれない。それでも構わなかった。いつの間にか溜め続けていたこの思いを、吐き出す機会は今しかないから。「そんなに妹のことが大事なら、妹だけ可愛がってればいいのに……!」


ふと、顔を上げる──そして僕は絶句した。

僕の言葉を耳にした両親は、今まで一度も見たことの無い表情をしていた。後悔、苦痛、吃驚。まるで自責の念に駆られたような、至極重苦しい雰囲気に息苦しささえ感じてくる。その時だった。僕の言葉を重く受け止める二人を見て──僕は漸く気が付いた。自分は今、最低なことを口走ってしまった、と。


全身の血の気が引いていく。

声が出なかった。産まれたばかりの妹を傍で見守るのは当然のことなのに。二人が忙しいのは僕たちを守る為でもあるのに。身勝手に怒り、二人を傷つけてしまった。探偵失格どころじゃない。僕は、人間として最低なことをしてしまったんだ。


「ご……ごめ、なさ……」


上手く言葉が出てこない。

締め付けられるように痛む喉が、僕から声を奪い取る。逃げ出したいのに身体が動かない。たった数秒の出来事だったが、僕にとってはとてつもなく長い時間に感じられた。


そう──僕の身体を強く抱き締める、二人の体温を感じるまでは。


「……え」


呆然とする僕に構わず、父さんと母さんは僕を抱きしめた。決して離さないように、強く強く抱き締めた。混乱のあまり上手く話せない僕に構わず、二人は必死にこう言ったのだ。


「すまない。不安にさせてしまってすまない」


「ごめんね……今まで気付いてあげられなくて」


暖かな温もりが全身を巡る。父さんは僕の背中を撫でると、今より強く僕を抱き締めた。混乱する僕を他所に、母さんは僕の目を見て呟いた。


「母さんたちは貴方のことが大好きよ。だからお願い、構わないでなんて言わないで」


眼差しも、体温も、父さんと母さんから与えられるその全ては温かかった。


「ごめん、酷いこと言って……ごめんなさい」


そんな二人を見て居たら、僕もなんだか可笑しくなって、思わず大声で泣いてしまった。熱を持った目から大粒の雫が零れ落ちる。重力に従うそれらは、僕の頬を忽ち濡らした。


痛む喉を激しく震わせて、咆哮混じりの泣声を放つ。僕の涙は、暫く止まらなかった。


「え? ちょっ、ちょっと……どうしたの」


騒ぎを聞き付けてやって来た姉ちゃんに、困惑の疑問符をかけられても尚。


* * *


涙が枯れてしまう程に、酷く長く泣いたあと。僕たちは、おもちゃで遊ぶ妹を見守りながらも──みんなで父さんが買ってきてくれたアイスを食べることになった。


「あの時は本当にビックリしたわ。部屋で勉強してたら、突然アンタの泣き声が聞こえたんだもの」


「……ごめん姉ちゃん」


「高校生にもなって母さんと父さんに構って貰えなくて寂し泣きするなんて。アンタもまだまだ子供ってことね」


身体が熱い。口の端を釣り上げ、楽しげに笑う姉ちゃんを他所に──僕はあまりの恥ずかしさに、顔が真っ赤になっていた。


「そう言えば、足つぼマット事件はどうなったの?」


そんな僕に構うことなく、姉ちゃんは此方に疑問符を投げてくる。急いで止めようと首を振るも、時既に遅し。


「足つぼマット事件……? それは一体どんな事件なんだ?」


父さんは興味深そうに目を輝かせると、僕と姉ちゃんを交互に見てきた。


「この子ったら凄いのよ。まるで名探偵みたいに推理しちゃうんだから」


「ちょっ……母さんも! 恥ずかしいからやめてって。誰が足つぼマットを元の位置に戻したのか分からず仕舞いだし──」


僕は勢いよく首を振ると、話題を切り替えようと思考を凝らす。身体が沸騰するように熱いせいか、アイスがいつもより溶けているようにさえ感じた。


(……そうだ。結局、真犯人は分からないままだったな)


手中のアイスを口に入れ、咀嚼しながら思考に耽る。容疑者だと思っていた母さんも姉ちゃんも違うとなれば、一体誰が犯人だったっというのだろう。


──にゃーお。


気紛れな彼女の鳴き声に、僕は振り返る。アイスを食べている僕たちを羨ましく思ったのだろうか。ミーコは僕の足元までやってくると、すりすりと頭を擦り付けて来た。


僕はそんな気紛れな彼女を撫でてやろうと、優しく手を伸ばしてみる。そうして漸く、気が付いたのだ。



「ははっ……本当に、ミーコには敵わない」



ミーコの足元には、見慣れたマットの姿があった。一体どうやってここまで運んできたのだろう。

名探偵の目を欺き通すなんて──彼女の頭の良さには参ったものだ。


僕の後に続くよう、真実を知った姉ちゃんが笑った。母さんも、そして父さんも。挙句の果てには、おもちゃで遊ぶ妹でさえも楽しげに手を叩いていた。

ミーコの頭を撫でてみる。彼女は目を細めると、ごろごろの喉を鳴らした。



窓から差し込む暖かな日差しは──僕たち家族を、優しく優しく、照らし続けた。










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名探偵と気まぐれな彼女 楠 夏目 @_00

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