猫に同情はするな

草迷宮ひろむ

猫に同情はするな

 叔父がY県にある湖の畔で、民宿と貸し舟屋を営んでいる。夏になると叔父から、仕事を三週間ほど手伝って欲しい、と頼まれることがあった。

 当時、大学生だった私はちょっとしたリゾートアルバイト気分で、依頼を快く引き受けていた。仕事の内容は観光客向けに舟や釣り竿、自転車を貸したり、それらを整備したりするというもの。そうして仕事の合間に湖で釣りをし、あるいは湖畔をサイクリングして過ごした。


 湖畔にある貸し舟屋から民宿まで自転車で二〇分ほどの距離があった。朝、宿から湖畔へと向かい、日が暮れる頃に湖畔から宿に戻るというのが一日のサイクルだった。朝食と夕食は叔母が用意してくれた。その日の仕事が終わると、宿の食堂で叔父と叔母と一緒に食事を取った。


 宿と湖畔を結ぶ道は交通量が多かった。観光客の運転する乗用車の他にトラックやダンプカーも頻繁に走っていた。自転車を漕いでいると猛スピードで追い越す車にヒヤヒヤすることがよくあった。


 その日、湖畔から宿に戻ろうと自転車を漕いでいると、路肩に停車する一台のトラックが目に留まった。八月中旬、黄昏時といった頃合い。風のない、生ぬるい空気が纏わり付くような気候だった。ドライバーが降りてきたかと思うと、車体後方に回り込み、路傍の茂みに視線を向けている。何かをつま先で蹴っているように見えた。それから何事もなかったかのように運転席へと戻り、トラックを発進させた。


 私は自転車を止め、ドライバーが何かをしていた茂みの方を見た。茶トラの猫が横たわっていた。先のトラックに轢かれたらしく、腹から内臓が飛び出ていた。ドライバーが足で蹴ってここまで移動させたらしい。いかにも新鮮そうな臓物が、青々と茂った雑草の上に撒き散らされていた。

 

 ぞっとして思わず目を背けた。何も見ない振りをして立ち去ろうとしたが、それも憚れるような気がしてならなかった。さりとて何ができるわけもなく、ただ猫に向かって手を合わせるばかりだった。運が悪かったな、と胸の内で同情した。

 一頻りの思いを込めた後、改めて視線をやると目がまだ見開いているのに気づいた。黄色い瞳がどこか遠くを、薄らぼんやりと見ていた。私は見てはならないものを見てような気がして、猫から逃げるようにその場を後にした。


 宿に戻り、叔母の手料理に舌鼓を打ちながら、私は先の出来事を語った。すると叔母は、神妙な顔をして思いも寄らぬひと言を告げた。

「猫にはね、決して同情したらダメよ」

 私は要領を得ず、なぜかと理由を尋ねた。

「そりゃ、猫の霊がついて来るからよ」

 叔母の口ぶりは真剣そのものだった。私は呆気にとられたが、それ以上その話を聞く気にもなれなかった。脳裏に飛び散った臓物のイメージがちらついて、食事が不味くなる気がしたからだった。叔母の言葉は、よくあるオカルト話しとして軽く受け取ることにした。


 その日の晩の出来事だった。夕飯を済ませた私は宿の浴場でシャワーを浴び、部屋に戻った。夜間はエアコンがなくても過ごせるくらい涼しかった。私はいつものように布団を敷き、窓を少し開け、部屋に夜風が通るようにすると、床についた。普段ならすぐに寝付けるはずが、その日は一向に眠気が訪れなかった。とはいえ明日の朝も早かった。せめて目だけは瞑っておこうと、はっきりとした意識の中で瞼を閉ざした。


 どれくらい経過しただろうか、ふと頭上に気配を感じた。コンビニ袋が微かに音を立てたのだ。嫌な予感がした。浴場の壁を手のひらほどの蜘蛛が徘徊しているのを見たからだった。あれと同衾などたまったものではない。私は咄嗟に首をもたげ、薄く目を開いた。


 窓から薄らぼんやりと光る何かが侵入してきた。思わず声を上げようとしたが、どういうわけか声が出ない。それどころか首から下が一寸も動かなかった。必死に力を込めてもぴくりともせず、必死に叫ぼうとしてもうめき声ひとつ出せなかった。それでも視界は、ぼんやりと光る何かを捉え続けた。


 状況を飲み込めずにいると、光る何かの動きに変化があった。こちらに気づいたかのように、するすると近づいて来た。およそ生き物とは思えないなめらかな動きで首元へと迫り来る。そして、ついには私の胸の上にのし掛かるのだった。


 身体も動かせなければ、声も出ない。気が動転した私は、何かに縋るつもりで脳裏に浮かんだある言葉を声にならない声で叫んだ。

「ピザッツ」

 それはコンビニで買ったエロ雑誌のタイトルだった。頭上のコンビニ袋の中身でもあった。寝付けない夜だから、もう一度読み返そうかと思っていた。


 そんな欲に塗れた言葉を吐いた途端、ふっと身体が軽くなった。気がつくと胸の上にのし掛かる光が消え失せていた。あれは何だったのか、思いを巡らす間もなく、次に訪れたのは深い睡魔だった。


 翌朝、湖畔に向けて自転車を漕ぎながら昨晩の出来事について思った。叔母の言うとおり猫の霊魂がついて来たのだろう、と私は結論づけた。改めて事実を確かめるべく、昨日の事故現場を訪れてみたのだが、奇妙なことに猫の死骸はおろか、痕跡すらどこにも見当たらなかった。

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