ナムカミナムカミツツガナキヤ
西季幽司
ナムカミナムカミツツガナキヤ
通勤電車が止まった。
車両故障のようだ。参った。会社に遅刻しそうだ。駅で遅延証明書をもらった方が良いかもしれない。まあ、不幸中の幸いと言えば、満員電車で吊革に摑まって立っているのだが、隣に僕のマドンナがいることだ。
名前は知らないし、話をしたこともない。毎日、同じ電車の同じ車両に乗り合わせるので、顔を覚えてしまった。小柄でショートカットの似合う美人だ。さっぱりとした性格の爽やかな女性だ――と勝手に思い込んでいる。
その彼女が隣に立っていた。時間を気にしているようだ。大事な用事でもあるのか、列車の遅れが気になるらしい。
重苦しい空気の中、「ナムカミナムカミツツガナキヤ」と唱える声が聞こえた。
一度、その声を耳にすると、皆、思い出したかのように、「ナムカミナムカミツツガナキヤ」と唱え始めた。
都市伝説があった。
電車で吊革に摑まって、「ナムカミナムカミツツガナキヤ」と唱えると、吊革の魔人が現れる。魔人が「お前の願いを叶えてやろう」と言うので、願いごとをすれば叶えてくれると言うのだ。魔法のランプの吊革版だ。満員電車の暇つぶしとして、暇な学生が考えたのだろう。吊革の魔人だなんて、そんな変なもの、いる訳がない。だが、都市伝説はSNSで拡散し、今や、電車で通勤、通学している人間で知らぬ者などいないほど広まっている。
馬鹿らしいとは思ったが、暇だ。「ナムカミナムカミツツガナキヤ」と唱えてみた。隣の美人の視線が気になる。
すると、もやもやと雲のようなものが広がり、「わたしにご用事ですか~?」と吊革の上に小男の上半身が現れた。薄くなった額、卵型の顔、昔風の両端がぴんと撥ねた口髭、魔人というより、名探偵といった風貌だ。吊革の上に広がった雲の中に、名探偵の上半身が浮かんでいた。
「うわっ!」と声が出てしまった。魔人だ。吊革の魔人が、本当に現れた。
僕は周囲を見回した。
隣のマドンナと目が合った。どうやら、僕が吊革の魔人と出会ったことが分かったようだ。興味津々の眼差しで僕を見つめている。気がつくと、周囲の人間の視線が僕に集まっていた。みな、分かったのだ。僕の目の前に吊革の魔人がいることに。だが、視線は僕に集まっている。みなには魔人の姿は見えていないようだ。
――彼女が欲しい!
と頼みたかった。田舎にいた時は、そこそこモテたのに、都会に働きに出て来てからは、さっぱりだった。東京にいる年数、イコール、彼女がいない歴になっていた。
願いを声に出しかけて、躊躇った。隣のマドンナが見ている。いや、マドンナだけじゃない。車両故障で身動きが取れない車内で、やることがない周囲の乗客は、僕の一挙手一投足を見守っていた。
車内にいる全員が、僕がどんな願いごとをするのか、聞き耳を立てているのだ。
「どうしました~? 願いごとを言って下さい~」
魔人がにこやかに言う。
(彼女がダメなら、お金持ちしてくれと頼もうか)と思って、首を振った。
そんなことを言えば、隣のマドンナに軽蔑されてしまう。
(じゃあ、どうする? 金持ちなんて、直接的な表現はダメか。社長にしてくれと頼もうか? いや、待てよ。僕なんかが社長になったって苦労するだけかもしれない)
「おやおや、お悩みですね~まあ、時間はたっぷりあります。ゆっくり考えて下さいな~」
言葉とは裏腹に願いごとを催促している。考えただけではダメなようで、願いごとは口に出して言わなければならない。日頃の喧騒に満ちた車内なら、周囲の雑音に紛れて願いごとを言っても、人に聞かれることなど、ないかもしれない。或いは、周囲の視線に頓着しない、神経の図太い人間ならば、願いごとを声に出して言うことを躊躇わないだろう。
だが、僕はそういう人間じゃない。周囲の視線が気になって仕方がなかった。
――うむむむ~何を頼もうか・・・ああ!もう、何でも良いや‼
考えすぎて、頭がパンクしそうだった。つい、言ってしまった。「魔人さん。電車が遅れて、困っています。この電車を動かして下さい」
「お安いご用です~あなたの願いを叶えてさしあげます~」
魔人は吊革の上でくるくると回転すると、消えていった。
次の瞬間、ガタンと音がして、電車が動き始めた。「車両故障が治りましたので、運転を再開いたします」とアナウンスがあった。
馬鹿らしい。願いごとなんかしなくても、早晩、列車は運転を再開していただろう。咄嗟に口に出てしまった。もっと、有意義なことをお願いすれば良かった――と直ぐに後悔した。
そう思った時、パラパラと周囲から拍手が聞こえた。「ありがとうございます」と小さな声で礼を言ってきた乗客もあった。
みな、電車が遅れて困っていたのだ。
良いことをした――のかな。少し、気分が晴れた。
駅に到着する直前、隣のマドンナが話しかけてきた。「ありがとうございました。絶対に遅刻できない会議があって、困っていたのです。本当に、助かりました」
「いえ、そんな――」
「吊革の魔人が現れたのでしょう? みんなの為に、電車を動かしてくださるなんて、なかなか出来ないことだと思います。他に、いっぱい願いごとがあったでしょうに――」べた褒めだ。
僕は「はは」と照れ笑いするしかなかった。思い切って、「朝、この電車でよくご一緒しますね?」と切り出した。マドンナは「ええ」とほほ笑んだ。まるで天使のような笑顔だ。
「じゃあ、また明日」マドンナはそう言って、電車を降りて行った。
(やった! マドンナと知り合いになれたぞ。また明日って言ってくれた。話しかけて良いみたいだ。明日が楽しみだなあ~)
人間、良いことはしておくものだ。願いが叶ったかのようだ。
了
ナムカミナムカミツツガナキヤ 西季幽司 @yuji_nishiki
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