第6話 ウソ
(六)
和上さまが、あんな年寄りが、独りで、なんで鬼山の天辺の暗い洞窟にいたのか、おれはそれを疑問に思わなかった。お坊さんという人はそういうことをするもんだとかんたんに片づけた。山好きのおれとしては、むしろ、自分もああいう生活をしてみたいと憧れるようなところもあった。孤独をかこって空をながめる、鳥の歌をきく、雨音をたのしみ、暴風雨におびえる、いいじゃないか、というのがおれのモウソウだ。
どのくらい経ってからだったか、両樹院の和尚さまが旅に出たらしいが、どこまで行ったんだろういう話が大人の中にも子どもの中にものぼった。ある大人はきっと京都だと誇らしげにいった。ある子どもは九州の果てか北海道の果てを一人で宇宙人のようにゆうゆうと歩いているといった。要するにみんな出まかせだった。そんなとき、ある人が、
「お寺の人の話じゃー」
といったので、そこにいた人らは耳をそばだてた。お寺の人というのは和上さまのお連れ合いということだ。
「和尚さまくれえ偉(えれ)え坊さんになると、一生になんどか秘密修行という旅に出るそうだ。密教とかいうだろ、それに磨きをかける修行らしい。そんときゃーお連れ合いにも誰にも行き先はいわねえもんらしい。なんつうたって五度も遭難した末の六度目に日本のくににやってきた鑑真和上さまの教えにつながる人だからナ、ふつうの者にゃー察しもつかねえことをするんだ、ああいう立派な人っつうのは」
といったある人というのは、いつも「あいつの口はウソ作りがうめえからな、つい食わされちまう」と陰口をたたかれる人だったが、そのときは、密教ということば、五度も遭難ということば、鑑真和上さまということばに非常な重さを感じて、みんな真剣にうなずいた。うなずきながら誰かがひょいと聞いた。かならずそういう人がいるものだ。
「葬式や行事が誰がするんだい」
「修行僧っていう坊さんが来てるだろ、もう何年も。あんひとはやるから世話はねえっていってた。あん人も偉え坊さんらしいぜ」
みんな、それで納得した。
でもおれは黙っていた。独り、宇宙人のように阻害された気持ちでそれを聞いていた。
あとで、というのは1年後くらいあとのことだったか、もっとあとだったか。真実らしきことが伝わってきた。
和尚さまは両樹院に住みこんでいた修行僧にいったという。
「旅に出る、分かったな」
修行僧は対(こた)えていった。
「成仏を念じます」
和尚さまの奥さまは、
「哿(よ)い旅になりますよう」
といってから一つぶ二つぶ涙を落とした――ということだ。
和尚さまは死にゆくさまを独りで味わいたかった。だが寺でそれをやると家族が堪(た)えられないだろうからと旅に出るというかたちを採った。
のちに和尚さまの遺体が即身成仏として発見された。
「おまえは鬼山に登ったそうじゃないか。伊一郎が登ったとゆうておったぞィ。そこで何か見たじゃろ。和尚さまを見たんじゃねえか。なぜ黙ってた」
父がたたみかけるように迫った。おれはいった。
「登ってない」
「ウソをいうんじゃない」
「ウソをいったんだ」
「何だ、その返答は」
「伊一郎君に勝とうと思って、登ったって、ウソをいいました」
向こうで針仕事をしていた母が、片頬に笑みを浮かべた。
(了)
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鬼山(きざん) 鬼伯 (kihaku) @sinigy
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