第92話 小熊の夏

 小熊と南海は、カブのオイル交換をすることになった。

 交換場所は南海の家から徒歩十分ほどの大手チェーン系バイク用品店。南海は今使っているヘルメットもここでフィッティングし、父親から送金された電子マネーで購入した。

 オイルなら小熊の家に行けば五分かそこらで交換できるが、小熊はこの店を選んだ。 

 南海がこれからバイクを趣味とするのなら、バイク整備の初歩である工具の扱い方やボルトの外し方から学ぶことが出来るオイル交換を自分でやらせてもいいと思ったが、南海の趣味はあくまでも夜の散歩を中心としていて、カブはそれを効率的にサポートするツールにすぎない。

 小熊はバイクが好きでバイクを愛することが好きだが、同時にバイクへの愛情を押し付ける人間を忌避している。

 南海が自らの進路を決めるこれからの時期、バイクのメンテナンスは南海にとって不必要な負荷になると思った。

 夜の散歩の道具である靴や服、タブレット型のスマホやカブC一二五、それをどう扱うかは南海が決める事。


 小熊は南海に手順を見せながらスマホでオイル交換の予約を入れ、翌日の正午頃にいつも通り南大沢のハンバーガーショップで待ち合わせた。

 時間通りにやってきた南海は、夏の太陽の下で淡く輝く桜色のカーディガンに昨日とは色違いだがブラウン系のコーデユロイパンツ。小熊は変わり映えしないスイングトップとデニムパンツ。炎天下では少々暑いが、火傷のような日焼けをするよりいい。

 昼食を早めに済ませてきたらしき南海がハンバーガーショップでお茶でも飲もうか迷っている様子だったので、コーヒーなら作業待ちの時間に飲めると言って南海を連れ、カブで走り出した。

 エンジン内のオイルを暖め、循環させるため少し遠回りしてバイク用品店に到着した小熊と南海は、付属の整備ピット前にカブを駐める。

 ツナギ姿の整備士にオイル交換の予約で来たことを告げ、タブレットに表示された車両の預かり証にタッチペンでサインした小熊と南海は、ハンターカブのキーとカブC一二五のキーレスリモコンを整備士に渡した。

 今回は小熊がバイク便会社から借りているハンターカブもオイル交換することにした。どうせついでだし、たまには他人にオイル交換してもらうのも新鮮な体験になるだろう。

 一応会社にはLINEを入れておいたが、一緒に行きたいと返答してきた葦裳社長は割り込んできた秘書の重見さんからストップをかけられていた。勤め人というのは大変なんだな、と気楽なバイト大学生の小熊は思った。

 プリントアウトされた受け取り証を受け取った小熊は南海を連れて店内に入った。

 

 店の中は小熊から見ればヨダレが出そうなバイクグッズが所狭しと並んでいた。

 南海も自分の知らないジャンルの趣味用品を興味深げに見つめていたが、真夏の外出で少しバテ気味に見えたので、作業待ちのスペースに連れて行く。

 ソファにドリンクの自販機、託児スペースまである作業待ちスペースで、自販機で買った冷たいコーラを開けた南海は人心地ついた様子。小熊もコーラを買って飲んだ。店内は冷房が効いているが、つい先ほどまで外を走ってきたせいかまだ体に熱が残っている。

 こんな居心地のいいところで過ごしているうちにオイル交換が終わる。小熊は北杜の中古バイク屋で経験した初めてのオイル交換を思い出した。

 中古バイク屋店長のシノさんは金の無い小熊のために色々と便宜を図ってくれたが、小熊が親の居ない奨学金頼りの高校生だということは、ずっと後になるまで知らなかったという。もしも不幸な生い立ちの女の子として同情してくれたなら、小熊は二度とその店には来ていない。

 シノさんは小熊と、後に店に出入りすることになった礼子や椎のような、原チャリ小僧と呼ばれる奴らが店に集まるようになった事が嬉しいと言っていた。シノさん自身も自分が原チャリ小僧の一人だと思っているから。

 後にシノさんはその考えを、後に小熊や礼子、椎がコーヒーメーカーやキャンプテーブルを持ち寄り、店を好き勝手に居心地いい場所に変えられたことで思い切り後悔することになったが。

 小熊が数年前の夏を思い返していると、南海のスマホがLINEの着信音を鳴らした。

 スマホを見た南海によると、送り主は本郷の国立大学で民俗学を専攻する教授で、南海の論文に興味を持った旨の内容だった。

 南海は安堵した表情を浮かべた。自分が以前より本郷の国立大学に出入りしやすくなった事ではなく、その教授一人だけから論文を読んだと言われた事に安心していた。どうやら南海によって書かれた論文は、多くの大学関係者が自由に読めるような杜撰な管理はされず、正しく扱われているらしい。

 南海はまた一つ、自由になった。

 

 それほど待たされることもなく、オイル交換終了のメッセージがスマホに入る。

 小熊と南海はサービスカウンターに行き、スマホで料金を払った。小熊はバイク便会社の経費にするため手書きの領収書を貰い、南海は電子マネーで決済する。

 整備ピットでバイクを受け取った小熊と南海は、カブで走り出した。新しいオイルになったという感触の変化はとくに無い。変化が顕れるほどオイルを劣化させてはいけない。

 ネットミームではカブは食用油でも走ると言われているが、カブを長く維持している人間はほぼ例外無くオイル管理に手を抜いておらず、強度に優れたカブのエンジンも劣化したオイルのまま走らせているとあっさり壊れる。

 小熊のハンターカブは一〇〇〇kmに一回のオイル効果だが、南海のカブC一二五は今回百kmで交換した。

 早すぎるがそうすることでエンジン寿命が延び、トラブルの発生率を減らせると小熊は思っている。

 工場で加工された新品のエンジンは、初期の慣らし運転の段階でスラッジと呼ばれる金属粉を発生させる。長期放置された中古車体のエンジンも然り。オイルに混ざって循環するスラッジはエンジン内部の各に損傷、摩耗を発生させる。それらのスラッジを洗い流すためにプロはフラッシングオイルと呼ばれる洗浄油、あるいは灯油を循環させてエンジン内部を洗浄するが、それらより少々割高ながらエンジンオイルを洗浄に使ったほうが簡単でローリスク。どんな機械にも避けられない初期不良も早期に発見しやすい。

 それらの情報は小熊が今まで見知った伝聞だが、違う情報も聞いたことがある。現在の加工精度なら新しいエンジンの慣らしやフラッシングは不要という話や、新品のエンジンは発生したスラッジの金属粉で研ぎ磨かれることで「当たりが取れる」と言われるエンジン稼働上良好な摩耗が促進され、うまく当たりが取れないと以後も慢性的に回らないエンジンになると。

 小熊にはそれらの情報のどれが正しいがわからなかったが、双方にリスクがあるならどっちに転んでも被害を最小限に留めるべく両方に賭け金を張っておくほうがいい。

 結局南海には、自分がやってうまくいった方法を勧めることにした。南海もそれが最善だと認めてくれて、百kmで一回、五百kmで一回、以後は千kmで一回オイル交換をすることに決めた。

 オイル交換の作業については、これからもあの店にお願いするらしい。ヘルメットをオーダーした時も誠実な対応をしてくれたし、煩わしい売り込みも無い。何より家から徒歩圏というのは大きなメリット。費用については、南海よりもカブに興味津々らしき南海の父親が電子マネーでチャージしてくれるらしい。

 

 小熊と南海は、おそらく体温よりも高い気温の幹線道路をカブで走った。

 照りつくような日差しに、小熊は長袖の上着を着ていてよかったと思った。東京もいずれインドや中東のように、真夏になると体温を逃がさないように上着を着る事が当たり前になるのかもしれない。少なくとも、熱帯のスコールは東京でもよく見られるようになった。 

 このまま走っていたら古式バーベキューのような燻り焼きにでもされそうだと思ったが、小熊はカブで走り続けた。南海も帰りたそうな様子を見せずについてくる。

 そのうち耐え切れずどこか冷房の利いた店に逃げ込んむことになるんだろう。しかし少々涼んだところで夏の陽はなかなか落ちない。きっとまた灼熱の下を暑い暑いと言いながら走ることになる。

 初めて経験する東京の夏。甲府のような盆地を除けばいくらか人道的な山梨の夏に比べ、人を焼き殺すんじゃないかというくらい暑い。

 暑いのに辛いのに、バイクで走るのがやめられない。それが今だけしか味わえない宝石だから。来年の夏が今と同じかどうかなんて誰にも分らない。


 小熊の十九歳の夏には。

 バイクがある。




 スーカーカブ10(終)

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スーパーカブ10 トネ コーケン @akaza

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