第91話 紙コップ
翌日から小熊と南海は午後に南大沢のハンバーガーショップで会い、南海が論文を書いて小熊が質問に答えるという日々が続いた。
小熊は気分転換のために駅前のペイストリーショップか大学のカフェダイナー学食に行こうと南海を誘ったが、南海はここが一番いいですと言ってハンバーガーショップの薄暗い二階席で論文を書き続ける。
もしも南海が将来、彼女の知能に相応しい進路を選んだならば、研究室の奥ではなく適度に孤立できて適度に人の賑わいが感じられる、このハンバーガーショップみたいな場所で論文を書くのかもしれない。小熊たちが居るハンバーガーショップは全世界チェーンでどこにでもあるし、南海はきっと変わらない。
小熊は南海が何かの研究をする仕事に就くには必須となる、論文書きだけでなく他人に何かを教える義務を負わされた時のことを想像したが、きっと大丈夫だろう。学校では孤立しほとんど人と話す事は無いが、南海は普段の会話と同じ速度で論文を書く事が出来るし、その内容は自分のような凡庸な知能の人間にも充分理解できる文面になっている。
案外、南海本人より彼女の打ち込んだ文字をボイスとして出力するバーチャルアバターのほうが、彼女の言わんとしている事を上手く人に伝えられるかもしれない。
唯一の困り事は、どんなに高名なイラストレーターやキャラクターデザイナーにも、南海の生身を超えるほど美しいキャラを描けないこと。少なくとも今ここでスマホに論文を打ち込む南海の姿に魅了されている小熊はそう思っている。
こんな日々がずっと続くのかと小熊が甘い幻想を抱いた頃合いに、終わりの時が訪れた。
スマホをフリック入力からスワイプ操作に切り替えた南海は、一つ息を吐いて右手に持ったスマホをテーブルに置いた。
南海は左手でノートに何かを書き込みながらファンタオレンジが満たされた紙コップを手に取り、胸の上にコップを置いてストローでファンタを吸い、左手での書き込みをしながら右手のスマホをタップする。
画面を盗み見た小熊には、送信完了の文字が見えた。南海は胸の上に置いたファンタを飲んでいる。小熊もファンタグレープを飲んでいたが、南海と同じことをするほど命知らずじゃない。白いシーアイランドコットンのTシャツをファンタ色にしたくはない。
南海はペンを置いてノートを閉じ、スマホをカーディガンの胸ポケットに収めながら言った。
「今、論文のファイルを大学に送りました」
少々虚を突かれた小熊が聞き返すと、南海はつまらなそうな顔で言った。
「終わっちゃいました」
小熊なら大学から課せられた論文書きの作業から解放され、とてつもない解放感を覚えているであろう場面。それとも教授に合格の判定を貰えるかズルがバレないか戦々恐々としているか、少なくとも必死で論文を読み返し誤字脱字を再点検しているような状況で、南海は発売を待ちわびてダウンロードしたゲームをクリアし終えてしまったような表情をしている。
小熊は以前人文学の講義で似た顔を見た記憶がある。昭和時代の作家について話していた教授は、その作家が不摂生による病で死んだ時よりも、作家がその生涯の中で残した作品を全て読み尽くしてしまった時に虚無を覚えたという。
教授がどうしたのかについては小熊はよく覚えていないが、もう読むものが無いならしょうがないから自分で小説でも書こうと思ったらしい。しかし実際に行ったのは、作家が死んでから作品を一つ残らず読み漁る日々で放置していた身の回りの雑事を片付ける事だったという。
妻子を行楽に連れていき、部屋があらかた片付いた頃になって、まだ存命し執筆活動を続けている若い作家の小説に出会い、今度はそっちを読み進める事になった教授は、最後に言っていた。
「心の飢えは、そうでもしないと紛らわせられないのかもしれません。きっと満たされることはない」
今、目の前でファンタを啜っている南海はどうなんだろう、と小熊は思った。紫のバイクについての論文を書き終わり、一時的に書くべきものを失った状態。彼女が再び新しい研究題材を見つけるべく尽力すべきなのか。そのための最善はなんなのか。
小熊は自分のファンタグレープを飲み干して南海に言った。
「カブのオイル交換をしよう」
南海は何か新しい事、面白い物を見つけなくてはならない。それも小熊が導くのではなく自分の意志で。
少なくとも高校で課せられた宿題などでは南海に微塵の負荷も与えられない。南海が何かを探しに行くならば、とりあずその足の準備をしなくてはいけない。
南海は息を呑み、驚いたような目で小熊を見ていた。
胸に乗せていた紙コップが、氷の音を立てて落っこちた。
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