第90話 将来

 それほど急ぐ距離でもないのに、小熊は無駄に飛ばして南大沢駅近くのハンバーガーショップまでハンターカブを走らせた。

 目の前の信号を通過する速度を調整して、三つ先の信号までスムーズに抜けられるように走る。

 こんな事をするのはバイク便の仕事で非公式に最速でのお届けを依頼された時くらいだが、人間には仕事って奴より大事な物がある。

 自宅から目的地までの距離なら正直なところ、市街地でいくら飛ばしたところで到達時間はさほど変わらないし、サイクリングロード等を使ったり車道走行を柔軟に歩道走行に切り替えたりして信号ストップを回避できる自転車のほうが早いかもしれない。

 とりあえず、南海が論文執筆のためにどこかに連れてって欲しいと言った時のためにも、出来るだけエンジンとタイヤを暖め、オイルを充分に循環させたほうがいいだろうと自分自身を納得させながら、小熊は南海が待つ店までの道を急いだ。

 

 早くも遅くもない時間にハンバーガーショップに到着した小熊は、まだ夕方の陽が照る駐輪場にハンターカブを駐めて、一応は会社からの借り物なので手すりにワイヤーロックした。

 南海のカブC一二五は見当たらない。南海の自宅は店から大通りを挟んで向かい側で、ほぼ新車のカブを手に入れた今も、彼女の活動における中心となっているのは徒歩での散歩、それは変わらない。

 店に入ろうとする時に窓に映る自分自身の姿を見たが、今さら何も変わり映えしないデニムパンツとスイングトップ。

 髪型もいつもと変わらないが、今ははそういう物を見て貰うためにこの店に来たんじゃないと思い、店に入ってセルフサービスのカウンタ―に向かった。

 もう顔なじみだが何度行っても初めて来たかのように対応してくれて、小熊もそれを気に入っている店員に一番早く出してくれそうなホットコーヒーを注文し、店員の丁寧な仕草に少々もどかしい思いをしながらコーヒーの乗ったトレイを受け取った小熊は二階席への階段を登った。


 外はまだ明るく店内には西日が差しているが、時刻は勤め人や学生が家に帰る時間。それなりに混みあった店内で、南海はいつもの席に居た。

 トイレに近く衝立で人目から隔てられた、通常なら通路にされるか、フロアに広々とした印象を与える空間になるであろう場所に、半ば強引に客席を置いたような二人席。

 どこか欧州のバーで見かける便所番の婆さんが居座る席を思わせる薄暗い席に、吉村南海が着席していた。

 服装は見慣れた桜色の手編みカーディガンにダークブラウンのコーデュロイパンツ、いつ見ても店内に満開の桜の木が現われたかのような印象を受ける南海は、テーブルに大学ノートとロットリングの三色ボールペン、ホットコーヒーのカップを置き、スマホを操作している。

 学生街の南大沢ではありふれた、ハンバーガーショップで課題を片付ける学生のような姿。一つ違うのは、座席に一緒に宿題に励む友達の姿が無い事。

 南海がスマホで執筆しているのは、本郷にある日本の最高学府に提出する、その大学でなければ正しく管理する事の出来ない論文。

 小熊は自分が今の南海に唯一足りない物。一緒にノートを見せ合う友達になれるのかと思いながら南海の席に近づいた。

 周りが見えなくなるくらい集中しているように見えた南海は、意外なことに人の気配に気づき、スマホから顔を上げた。

「小熊さん、あなたを待ってました」

 どうやら自分は南海にとって必要な存在だと思われている。安堵した小熊は南海の向かい側に座った。

 

 コーヒーを一口飲んだ小熊は、再びスマホに文章を打ち込む作業を再開した南海の集中力を乱さないように気を使いながら話しかけた。

「論文、書いてるんだ、何かわからないところはある」

 南海も片手でスマホを持ったまま、まだ湯気を立てている自分のコーヒーを口にしながら言った。

「わからないところだらけです。だから小熊さんに助けを求めたんです」

 特に課題や義務に疲れている様子の見られない南海は、まるで大容量のゲームをダウンロードした直後のような顔で微笑んだ。

 小熊は南海の言葉に答えた。そうじゃないかと概ね察し、そう言うと決めてきた言葉。 

「何でも聞いてほしい。私の知っている事はそう多くないけど、一緒に考えることが出来る」

 南海はまた微笑み、再びスマホにフリック入力する作業を始めた。途中でテーブルの上に置かれた、草薙から聞いた話のうちで印章的な言葉だけを書きとったノートを一瞥すると、スマホから目を離さないまま言った。

「小熊さん、夜中に上高地の山奥で、ダックスのタイヤがパンクしたらどうするんですか?」

 小熊は草薙に実車を見せて貰ったダックスの車体構造を思い返しながら答えた。

「普通はバイク屋か自転車屋に持って行って修理するけど、草薙のダックスは旧式でチューブタイヤだから、夜なら灯りが使える場所でチューブ交換。無くてもパンク修理材を注入すればしばらく走れる」

 新型のダックス125はチューブレスになりパンクしにくくなったが、タイヤの穴にプラグを埋め込む応急修理はチューブタイヤより簡単ながら、一度パンクしたタイヤは原則として新品交換。チューブだけ補修するなり買い替えればいいチューブタイヤに比べ、高校生の財布には少々厳しい。


 南海は論文執筆における制約となる枷が一つ取れたように、速いペースでフリック入力を続ける。質問に答えた小熊に感謝の言葉ひとつ述べない、くだらない礼より作業に集中して、と小熊がいちいちお叱りを述べる必要も無い。

 南海はフリック入力を再び止め、小熊の顔を見もせずに質問を発した。

「上高地ってダックスの部品を注文したらどれくらいで届くんですか?」

 小熊は自身の経験と長野すに住んでいる知人から聞いた話を総動員して答えた。

「大手通販ショップに在庫があれば、だいたい注文した翌日くらい。明日じゃ間に合わない時は松本市のホンダ部販まで直接買いに行く方法もある。カブ系の部品なら欠品は無いし、同じ松本市だから放課後に部品を買いに行ってカフェでお茶したり買い物を済ませたりしても、夕飯までには帰れる」

 南海はノートをめくり、再び一瞥した。草薙が川崎に引っ越した頃の事が書かれ、話を聞いた南海が自分の記憶を思い起こすワードの周囲に、赤や青のボールペンでびっしりと書き込みがしてある。南海はもう一つ小熊に質問した。

「それは川崎市だと、もっと早く届くんですか?」

 小熊は思わずくすくす笑いながら答えた。

「体感ではあまり変わらない、長野でも川崎でも、通販業者の威信をかけて翌日に届けてくれる。でも、たまに注文や在庫のタイミングで、朝に注文した部品がその日の夕方に届くことがある」

 環境は上高地とさほど変わらない山梨北杜から町田市に引っ越した小熊が驚いたことの一つ。きっと草薙もびっくりしたに違いない。

 地域格差のほぼ無くなった現代の物流に残る細やかな綾は、いずれドローンによる即時配達が実用化されるまで残り続けるんじゃないかと小熊は思った。


 それからも南海は、小熊に主に原付バイクの技術的知識について色々と質問をしながら論文執筆を続けた。小熊には一つ問いに答えるほど南海のフリック入力がスムーズになっていっているように見えたが、速度はあまり変わらない。南海が言葉を話すのと同じ速度で文章を打ち込む事だ出来るというフリックによる文章入力。

 小熊は不意に、何年後かの南海の姿が見えたような気がした。フリック入力ではなく言葉で、ハンバーガーショップの薄暗い席ではなくどこかの壇上で、南海が自らの知悉を一般的な知能の人間にも理解できるレベルまで噛み砕き、多くの人に伝えている姿。

 小熊はそうなった時の南海の表情が見たくなった。自らがその能力を何にも縛られることなく発揮し、幸福に包まれた顔をしているのか、それとも普段やっている当たり前のこと普通にこなしている、無表情ながら平穏な顔をしているのか。

 小熊は南海を見た。南海もスマホの操作を止めて小熊を見た。小熊が想像した事を全て見透かしたような目をしている南海は、小熊の目を見つめ、微笑みながら言った。

「小熊さん、私は幸せです」

 とりあえず論文執筆を一休みすることに決めたらしく、スマホを置いた南海を、小熊は自分に出来る限りの方法でもっと幸せにすべく、スマホを取り出して二人分のファンタとダブルチーズバーガーを注文した。

 日は暮れ、夕方の空が夜になる直前。

 小熊と南海とが何度も共にした紫の時間がやってきた。

 

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る