第89話 論文執筆
夏の遅い夕暮れ。
草薙との対面を終えた小熊と南海は、南大沢までの短い道を二台のカブで走った。
おそらく論文執筆の事で頭が一であろう南海のカブC一二五は危なげない走り方で、通勤ラッシュで混雑した道に溶け込んでいる。
小熊もそうだった気がした。くだらない学校の課業や仕事の報告書作成で頭の中が散らかった時は、カブを走らせたり整備したり、料理や掃除をして考えを纏めた。
高校の同級生の礼子はそういう時によく森を歩き、住んでいるログハウスに使う薪を拾い集めていたらしい。椎はサッカーの試合動画を見ていて、応援に熱が入りすぎてよく考え事をすっかり忘れては小熊に泣き付いていた。
南大沢の駅近くにある小高い丘に建てられたタワーマンションの監視カメラつき駐輪場にカブを駐めた南海に、小熊は言った。
「論文、頑張って。大変だけどきっと南海の将来をいいものにしてくれる」
カブを降りた南海は小熊を抱きしめて言う。
「本当に大変です、こんな楽しい事をしていると,
やらなくちゃいけない事を全部忘れそうで」
きっと小熊のような人間にとって苦行に過ぎない論文も、南海にとってはオモチャの山で遊ぶような楽しみの時間で、日々の生活における義務のほうがよっぽど大変なんだろう。
小熊は南海の手編みカーディガンの香りに包まれながら、そういう時に助けてあげられるのは南海の成長と才能の発揮、なにより一人に人間としての幸せを見守り続けている両親で、自分ではないんだろうと思った。
一応風呂や歯磨きをサボっても怠ってはいけない事を忘れないため、まだキーレスのスイッチを切ってない南海のカブの走行距離計を見た。新古車として葦裳社長から譲渡されて半月弱の南海のカブC一二五は順調に走行距離を重ていて、新車のエンジン
小熊は横目で自分が乗っているバイク便会社貸し出しのハンターカブを見た。こっちは一〇〇〇kmに一回の定期的なオイル交換の時期を過ぎてしまっている。来週あたりにでも会社と提携している自転車屋兼業のバイク屋に持って行かなくてはいけないと思った。
社長秘書の重見さんの話では、その店は長らくこの地で商売をしていて、近隣で酷使されている新聞配達や蕎麦屋、銀行や保険屋の乗っている原付の面倒を見ている自転車屋で、無口ながらただのオイルやブレーキ、タイヤや電球、ワイヤー類の交換だけでなく、それらに顕れる原付の寿命を縮めるような扱いを指摘してくれるらしい。
無論、それらの消耗部品の中では最も交換スパンが長いが、たまにそうならない事もある、乗る人間についても。
次のオイル交換では南海をその店に連れていき、小熊が行くたびにスーパーカブが全国の自転車屋で販売された時に頒布された宣伝ポスターや藤沢専務直筆のダイレクトメールを見せてくれる店で、一緒にオイル交換してもらうのもいいなと甘い空想をしているうちに、南海はおそらくバイク泥棒はおろか、バイク買取のチラシをミラーにつける詐欺業者も入れないであろう管理厳重な駐輪場に駐めたカブを施錠した。
住人の娘を泥棒しようとうする不届者については、それなりに許容されているのか、それとも西部開拓時代の牛泥棒のように柱に吊るされるのかはわからない。
マンションのエントランスで南海と別れ、自宅に戻った小熊は、草薙の家でたっぷりとした食事を済ませたせいか、まだ夜の浅い時間にシャワーを浴びて早々に眠りに落ちた。
翌日から、宿題らしき物が何もない大学の夏休みにバイク便の仕事をこなすつまらない日々が始まると思いきや、意外な事に二日後の夕方、小熊のスマホに南海からの連絡が入った。
「今から会えませんか? あのお店で」
小熊はデニムパンツとTシャツを身に着け、ウォーキングで行くべきか少し迷ったが、何かあった時に臨機応変で選択選択肢の自由度が利く対応することを考え、スイングトップの上着を羽織りハンターカブで家を出た。
南海をカブのオイル交換に誘いたいという気持ちもあった。
それより優先すべき用は、小熊には無かった。
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