第11話 『Déglaçants』
▼ ▼
カランと涼やかな音を鳴らしながら、扉を開ける。差し込む西日の眩しさに思わず目を細めた。
暦はすでに九月に切り替わっており、晩夏を迎えている。とはいえ、まだまだ残暑は厳しく、九月に入ったからといって気温にそこまでの変化はない。これから秋に移り変わるとともに徐々に下がっていくのだろう。
「お疲れ様、
背後からの声に振り向くと、海涼さんがそばに寄ってくるところだった。
「お疲れ様でした、
「うん。──今日まで、本当にお疲れ様」
今日が【
わかっていたことだが、しんみりとした気持ちになってしまうのは仕方がないだろう。なにせ、ここでのバイト生活はあまりにも濃度が濃すぎた。もちろん、充実していたという意味で。そうなれば、うら寂しさを覚えるのも無理からぬ話だ。
「本当にお世話になりました」
約一ヶ月半。思えば、あっという間だった。怪しげなお店だと思っていて、海涼さんからアルバイトしないかと誘われた時は、どうしようかあれほど悩んでいたというのに。今は離れがたく思っているのだから不思議なものだ。
視線をやれば、店内には精霊たちが普段と変わらずにふよふよと遊泳している。この光景も、今日で見納めか。
「こちらこそ、栄路くんは働き者で、とっても助かったわ。バイトは今日でおしまいだけど、またいつでも遊びに来て」
「はい、もちろんです」
俺が頷くと、海涼さんはふふっと笑った。
「栄路くん、変わったね。初めて会った時とは顔つきが全然違う」
「そう、ですか?」
「ええ。前は迷子みたいだったけど、今はそれとは真逆の顔をしているわ」
まぁそうだろうな。一ヶ月半前はどれだけ辛気臭い顔をしていたんだという話だ。
なんだか少しいたたまれなくなって後頭部を掻いていると、海涼さんがふっと微笑んだ。
「出口、見つけられた?」
「――はい、たぶん」
伊東夫妻の一件から、今日までしっかり色々考えた。そして、俺はどうすべきかを見つけられた、と思う。本当にこれが正解かは正直わからない。でも、これはやらなければいけないことなのだ。
俺がこうしてやるべきことに辿り着けたのは、
俺の返答に、海涼さんはそれならよかったとだけ言って、深く追求しては来なかった。興味がないわけではないことはわかる。だって、海涼さんの目から俺への信頼が見て取れるんだから。
事が上手く進んだら……いや、たとえ満足する結果にならなかったとしても、ちゃんと報告しに来よう。ここでアルバイトしなければ、今の俺はなかった。海涼さんは言わば、俺の恩人なのだ。
「栄路くんなら大丈夫。がんばって」
「ありがとうございます」
海涼さんのエールを受けたあと、俺は視線を少し下へずらした。
「メルも、本当にありがとな。お前のおかげで、俺は【Glace】に巡り合うことができた」
海涼さんの腕の中にいたメルがフニャッと元気よく鳴くと、片前脚を上げた。ぱちくりと目を瞬かせた俺だが、メルの意図に気づくと思わずニヤッと笑ってしまった。
俺もメルに倣って片手を上げると、肉球と手のひらがをポンッと当たった。ハイタッチである。触れた箇所がじんわりと温かくなった気がする。がんばれ、とメルが俺にエールを送ってくれたのだと、自信を持って言える。さすが、俺の兄貴分だ。
「じゃ、俺、行きますね」
「うん。またね、栄路くん」
「はい、海涼さん、メル」
俺はふたりに向かって深々と頭を下げ、そうして【Glace】に背を向けた。この夏、不思議な雑貨店でのバイトは終了した。あとは、心残りに決着をつけるだけ。
しっかりと前を向いて、帰り道を進む。大丈夫だ、今の俺なら。もう、逃げない。
――駅のホーム。帰りの電車を待つ間、俺はスマホのチャットを開き、ずいぶんと下のほうにいってしまった相手とのトーク画面を久方ぶりに開いた。
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ぼんやりと空を眺める。木陰になっているのもあって、さほど眩しくはない。柔らかく吹く風にあおられ、さわさわと葉がこすれる音が耳を撫でる。昼下がりのまだ暑いとも言える気温だが、木陰と優しい風のおかげで心地いい。
思わず目を閉じる。このまま昼寝してしまえたら、さぞ気持ちがいいことだろう。
だが、それはまたの機会に。なぜなら、待ち人が近寄ってくる足音がしたからだ。
「──栄路くん」
目を開け、そちらを見やる。視線の先には案の定、俺が呼び出した人物が立っていた。
「
片手を上げると、早紀はふっと笑んだ。
――久しぶり。よかったら、学校始まったら一度話さないか?
俺は二週間前に早紀へメッセージを送った。正直、応じてくれるかどうかは賭けだったのだが、彼女は承諾してくれた。そうして、場所と時間だけ決めて、今日ここに来てもらったのだ。
キャンパス内で人気が少ない場所。彼女と何度かここで話したことがあるし、付き合うことになったのもこの場所だった。
狙ったわけではないが、色んな人がいるキャンパス内で数少ない落ち着ける場所のひとつがここなので、邪魔されずに落ち着いて話をしようとすれば必然的に選んでしまう。
まぁいいだろう。特に深い意味はない。俺は、ただ彼女と話がしたいだけなのだから。
「来てくれてありがとな」
「ううん。……それで話って?」
早紀がさっそく要件を促してきた。俺も無駄話をするつもりはなかったから、素直に話を切り出す。
「――俺さ、早紀に謝らないといけないんだ」
相槌はなかったが、早紀の目線が黙って続きを促している。
「やっとわかったんだよ、早紀の言いたかったことが」
──栄路くん、私といても楽しくなさそうだから
早紀から別れを告げられたあの日、会話の中で彼女からそう言われていた。フラれたショックで忘れていたが、伊東夫妻が和解した場面に出くわした時に思い出したのだ。
私といても楽しくなさそう。その意味が、今の俺ならわかる。
――その子と付き合ってて、お前は楽しかったのか?
――兄ちゃんって、今何が楽しいの?
順平や佳奈に聞かれて答えられなかったのは、つまりそういうことなのだ。俺はたしかに、彼女と付き合うという行為に必死すぎて、彼女といる時間を純粋に楽しいとは思えなくなっていた。
いや、恋人を作る以外の大学でのサークル活動だとかも、周りに合わせるのに精いっぱいで心底楽しめていたかも今思えば怪しい。俺はただ、大学生っぽいことをしている自分に酔っていただけなのかもしれない。
だから、彼女にフラれた時、俺は自分自身の生活に楽しみが残らない状態になってしまったのだ。
自分の要望はほとんど出さず、彼女の要望だけを聞こうとした。無論彼女を想ってのことだったが、それは間違っていたのだ。
「早紀は、俺の好きなことも共有したかったんだな」
相手の希望を叶えてやりたい、そう思うこと自体はけっして悪いことではないだろう。けれど、自分のやりたいことや好きなことを我慢して共有しないのは、大きな間違いだった。それは、相手に自分をさらけ出していないのと同じこと。つまり、信頼していないとも捉えられかねない行為である。不安に思われても仕方がない。
……そうだ。俺は早紀の希望を叶えようとしていたのではない。雑誌やネットなどで知った〝カノジョ〟が喜ぶことを片っ端からやろうとしていただけ。
付き合うという行為にしか目を向けられていなかった俺は、早紀自身のことを見てやれていなかった。一緒に楽しむ、ということができていなかったのだ。
雑誌に載っていたことを鵜呑みにして、勝手に決めつけて、俺は自分の好きなものを無理やり封じ込んだ。それが、彼女を不安にさせてしまっていた。
そんなことに今更になってようやく気がついた。同じことをされたら俺だって不安に思うだろうに、相手に対して失礼極まりないことをしていた。きっと彼女を傷つけたんだと思う。本当に、ひどいことをしてしまった。
「悪いことしたと思ってる。本当に、ごめん」
「……ううん。栄路くんだけが悪いわけじゃない」
俺が謝ると、それまで黙って聞いていた早紀がふるふると首を横に振った。
「私もいけなかったの。もっとはっきり言えていればよかった」
俺が無理していることに気づいて、早紀は何度か伝えようとしたらしい。だが、俺の好意を無下にしたくないという気持ちもあり、結局何も言えなかったのだと彼女は言った。
だから、きちんと気持ちを伝えなかった自分も悪いのだと、早紀は俺の目をまっすぐに見て頭を下げた。
「私も、ごめんなさい」
俺は黙ってその謝罪を受け入れる。それを聞いてもなお俺が悪い事実に変わりはないのだが、早紀は悪くないと否定するのもまた違う気がした。それは慰めにはならず、きっとまた同じ思いをさせてしまうことになるからだ。
俺も早紀も、お互いに足りなかったものがある。それが、すれ違いを生んでしまった。
「…………」
「…………」
静寂が流れる。気まずいものではない。二人とも落ち着いている。
「栄路くん、変わったよね」
「そうか?」
「うん、夏休み前とは全然雰囲気が違うから。――何かあったの?」
「……ああ、大事な経験をさせてもらったんだ」
口には出さないが、夏休みの間のことが走馬灯のように脳内を駆け巡る。だって、あの一ヶ月半のことを不思議現象を抜きにして話すにしても、どうしたって手短には済ませられそうにないから。
またこうして早紀と話せるのも、【Glace】での日々が俺をここまで導いてくれたおかげだ。
――兄ちゃんって、今何が楽しいの?
ふと妹の言葉が蘇ってくる。何度思い返しても辛辣極まりないが、その言葉が唐突に俺の脳にある刺激を与えた。
何が楽しい、か。そうだな、人々の笑顔に溢れたあの場所。あの精霊のいる不思議な雑貨店での日々は楽しかった。今なら自信を持ってそう言える。
……そうか。わかった、今の自分が本当に求めていることが。
「もうひとつ、早紀に伝えたいことがあるんだけど」
「……何?」
「俺、やりたいことができたんだ。だから、サークルは辞めようと思う」
息を呑んだような気配がした。俺は正面を向いたままだったからその表情は見えない。あえて、見なかった。
少しの沈黙の後、そっかとこぼれるような呟きが聞こえた。
「――いいと思う。がんばってね、栄路くん」
「ああ、ありがとう」
早紀は以前と変わらず、とてもいい子だ。散々思い悩んでようやく答えを見つけた俺なんかと違って、早紀は自然と人の背を押すことができる。その人間性に、俺は惹かれたんだ。
さて、と俺はすっと立ち上がった。
「今日はありがとな、来てくれて。早紀と話ができて良かった」
「ううん。こちらこそ、ありがとう」
早紀のことは、確かに好きだった。話してて、一緒にいて楽しかったのも本当だ。でも、ヨリを戻すつもりはなかった。俺は今日ここへ、ひとつの関係に決着をつけに来たのだから。
けっして彼女を嫌いになったわけではない。ただ、俺たちはきっと、以前のように友人という関係でいたほうがいい。自然とそう思ったのだ。
「俺は行くけど、早紀は?」
「私はちょっと休憩してくね。ここ気持ちいいから」
「そうか。じゃあ、またな」
「うん、またね」
お互いに軽く手を振り合い、俺は彼女に背を向け、足を踏み出す。
俺と彼女の道は分かたれた。次から話す時は、ただの友人としてになる。俺はようやく、この関係に、この気持ちに、ピリオドを打つことができたのだ。
寂しい気持ちがないと言えば嘘になる。けれど、それよりも清々しい気分のほうが大きい。
長らく燻っていたものとのケリはついた。しかし、またやるべきことが増えてしまった。こんなつもりではなかったのだが、気づいてしまった以上は仕方がない。俺はもう、自分に嘘をつきたくないから。
◇ ◇ ◇
「……あーあ、やっぱり、元通りに──なんて無理だよね」
ベンチに腰を下ろし、木陰と風の心地よさを感じながら独り言ちる。
「栄路くん、私もね、同じなんだよ」
あなたと同じ、張りぼてなの。私もそうだから、あなたのことはすぐにわかった。あなたは気づいていないようだけど。だから、あなたに惹かれたのかもしれない。
でも、無理しているのがわかって、しんどそうにしているところを見るのがつらかった。自分ではあなたを楽しませることができない。そう思ったから、別れを切り出した。
だって、私は本当に――。
頬に一滴の雫が流れ落ちていくのがわかった。それをそっと拭って、ぼそりとこぼす。
「……私も、切り替えなきゃ」
もしかしたらと思ったけれど。あなたに、もう気持ちがないと気づいてしまったから。
だから、私も送り出すことにしたのだ。
「……っ」
もう少ししたら、立ち上がろう。
今度は、友人としてきちんと関係を築けるように。
◇ ◇ ◇
「……そうだったんだ。ごめんね、
「いや、悪いのは俺だ。真木が謝ることじゃない」
講義終わりに、俺は
「でも、いいと思う。せっかく見つけたやりたいことなら、やるべきだよ」
ありがとな、と言うと、真木はううんと首を振り、俺をまじまじと見つめた。
「三ヶ嶋くん、なんだか前と雰囲気違うね」
「そんなに違うか?」
「うん。前から三ヶ嶋くんはかっこよかったけど、今のきみのほうがもっとかっこいいよ」
真木は邪心もなさそうに言ってくる。こういうことをなんの
海涼さんしかり、早紀しかり。色んな人から変わったと言われる。どんだけ前の俺が辛気臭い面をしていたんだって話だが。
そうだ、俺は真木にお礼を言わないといけないんだった。
「真木、ありがとか」
「え? な、なにが?」
「俺、夏休み入る前にバイト先で働くか迷ってただろ? そんな俺に、真木は一度やってみろって言ってくれたじゃないか」
あのひと押しがなければ、もしかしたら俺は【Glace】でバイトすることをやめようと考えていたかもしれない。だから、真木には本当に感謝している。
真木はびっくりしたように目を見開いたが、俺の真剣な表情を見て受け止めてくれた。
「そっか、うん。三ヶ嶋くんの力になれたのならよかったよ」
そうして、俺たちは笑いあった。大学で真木と友達になれて本当によかった。
「じゃあ、僕そろそろ行くね。また明日!」
「おう。また明日な」
真木と別れ、俺も大学構外へ向かって歩き出した。
▼ ▼
「あれ、樋口さん?」
「三ヶ嶋くん。久しぶりね~」
駅に辿り着いた俺は、樋口さんにばったりと出会した。アニメショップで会って以来、実に一か月半ぶりだ。
「元気だった?」
「はい。樋口さんも元気そうでよかったです」
「おかげさまでね」
樋口さんは朗らかに笑った。その表情に陰は見受けられない。本当に迷いは晴れているようだ。そこには安心した。ひとつ気がかりなのは、今日は平日かつまだ十五時頃だというのに、樋口さんが私服でこんなところにいることだ。
「なんでここに? 会社は休みとかですか?」
「ううん、今日は有給なの。推しのコラボカフェに当たったから取っちゃった」
樋口さんは茶目っ気たっぷりにぺろっと舌を出す。相変わらず趣味を全力で楽しんでいるようで何よりだ。
「アパートの最寄り駅がここなんだけど、ちょうど三ヶ嶋くんが通ってる大学の近くだったから、いつか会いそうだなって思ってたけど」
まさか本当に会うとはね、と樋口さんが笑う。たしかに、以前自己紹介した時に俺が通っている大学を伝えると自分の家もその近くだと言っていたような気がする。
「あ、そうだ。三ヶ嶋くんってインスタやってる?」
それから少し立ち話をしていると、樋口さんが出し抜けにそんなことを聞いてきた。
「まぁ、一応アカウントは持ってますよ。ほぼ見るだけなんですけど」
ファッション研究もかねてアカウントを作ったのだ。樋口さんはふむふむ頷く。
「よかったらなんだけど、あたしをフォローしてくれない?」
「あ、はい、全然いいですよ」
「ありがとう! あたしもフォローするね」
そうして、俺たちはアカウントを教え合った。樋口さんのアカウントの投稿をちらっと見ると、自撮りがいくつもあった。俺は化粧については全然知識がないが、なんというか、どれも日常的なメイクとは違っているようだった。
フォロワー数は一桁で、投稿された写真へのいいね数も数件程度。それでも、樋口さんは確かにスタートを切ったのだ。
「今ね、コスプレのためにメイクの勉強をしているの。それを投稿してモチベ上げててね」
衣装もこれから手を付け始めようと思ってて、まだまだきちんとした格好はできないんだけど、少しずつ形にしていくつもり。
樋口さんは楽しそうに語る。本人が楽しんでいるなら、それが一番いいことだ。
応援してます、と言ったあと、ふと思いついて軽口を叩いた。
「もし、投稿が滞ってるようなら、コメントで催促しますね」
「うわー、鬼教官……でも、望むところ!」
樋口さんもノッてくれて、俺たちは笑い合う。かくして、俺は樋口さん公認の観測者になったのだった。
樋口さんと別れ、電車に乗って目的の駅についた俺は、改札を通って外に出た。
街中を歩いていると、通行人の中に制服を着た学生がちらほらと混ざっていた。時間的に、下校中なのだろう。
「あ」
遠目に、見知った顔があった。卓也だ。何人かと一緒に談笑しながら歩いている。何の話をしているのかまではさすがにわからないが、時折笑い声がこちらまで届き、卓也も心底楽しそうに見えた。
よかった。卓也も、友達と上手くやれているようだ。卓也はこちらに気づいていないようだが、水を差したくないので俺は特に声をかけようとは思わなかった。ただ、心の中で卓也に感謝する。
卓也の一件があったからこそ、俺も自分の友人を失わずに済んだ。あれがなかったら、俺はあのまま友人たちと疎遠になってしまっていたかもしれないのだ。
お盆に地元へ帰ってからこっち、俺は友人たちと頻繁にチャットを交わしており、ゲームも一緒にやるようになっていた。
元々ゲームを再開しようかと考えていた俺だったが、自分が持っていたゲームをほとんど処分してしまっていたこともあり、それに頭を悩ませていた。バイト代が出たとはいえ、ハードとソフト両方買い揃えるとなると一ヶ月半の給料ではなかなか厳しい。ゲームを再開するにしても、当分先のことになるだろう――そう思っていた。
しかし、それを相談した時、その問題はあっさりと解決した。ソーシャルゲーム、いわゆるスマホゲーである。その存在をすっかり失念していた俺だ。
マルチプレイができるゲームアプリをインストールし、それを四人で時々遊んでいる。やっぱり、友人とやるゲームはめちゃくちゃ楽しかった。次のイベントで来るレイドバトルを一緒にやろうという話にまでなっていて、俺はそれが楽しみで仕方がなかった。
そんなことを思いながら離れていく背中を見送り、俺は俺の進むべき方向へ足を向けた。
もはや通い慣れた道を以前と同様に辿っていく。たったの二週間だというのに、随分と久しぶりに感じてしまうのだから不思議だ。
そうして俺は目的地――【Glace】に到着した。
扉にかかっている看板が『OPEN』になっていることを確認し、取っ手に手を伸ばしかけたその瞬間。扉が開き、カランと涼やかな音が響いた。
かと思いきや、何やら黒い塊が弾丸のように俺に向かって飛んできた。
「うおっ」
咄嗟にキャッチしたそれは、青と黄のオッドアイをクリクリさせ、フニャッと元気よく鳴いた。
「メル、危ないだろ?」
ついキャッチしてしまったが、冗談抜きで一瞬心臓が止まるほどびっくりした。まったく仕方がないなこの猫は、とメルを抱えて頭をうりうり撫で回す。半分はお仕置きのつもりだったが、メルは普通に気持ちよさそうにしている様子だった。ったく、怒る気もなくなる。
「――いらっしゃい、栄路くん」
今や聞き慣れた涼やかな声が耳に届く。そちらを見やると案の定、扉を開けた張本人、【Glace】の店主が笑顔で俺を出迎えてくれた。
「海涼さん、こんにちは。今、忙しくないですか?」
「ええ。少し前までお客さんがいたんだけど、落ち着いたところにメルが突然扉のほうに行ってね」
もしかしたらって思ったら、やっぱり、栄路くんだった。
朗らかに笑う海涼さんに、俺はどこか照れくさくなって頭を掻くことしかできない。
「お客さんも今はいないし、どうぞ入って」
「はい、ありがとうございます」
海涼さんの言葉に甘え、俺はメルを抱えたまま店内に足を踏み入れた。
精霊がふよふよと遊泳しているのが真っ先に目に入った。この光景も相変わらずだ。最初はあれほど疑っていたのに、安心感さえ覚えている。
テーブル席に座って待つことしばし、海涼さんがお茶を出してくれた。うん、やっぱり海涼さんが淹れてくれたお茶が一番美味い。
「そうだ、栄路くん、
「? はい、もちろん」
「文子さんと
そう言って、海涼さんはスマホを見せてくれた。そこには写真が表示されており、川を背景に伊東夫妻の姿が映っていた。文子さんは柔和な笑みを浮かべている。浩さんは笑っているわけではないが、表情は柔らかく、どこか嬉しそうな雰囲気を感じた。
「二人とも楽しそうですね」
「そうなの。ちょっと心配してたんだけど、二人でちゃんと楽しんだみたいだから本当によかったわ」
伊東夫妻が満足そうで、俺も当事者のように嬉しい。一時はどうなることかと思ってヒヤヒヤしたものだが、丸く収まってくれて本当によかった。
「あの、俺からも報告あるんですけど、聞いてもらっていいですか?」
「ええ、もちろん」
海涼さんが優しい表情でしっかりと頷いてくれたのを見て、俺は今日の目的のひとつである早紀とのことを話した。
「――そう、よかったわね」
口を挟むことなくただじっと聞いてくれていた海涼さんは、安堵したようにそう言ってくれた。
「納得できる結果になった、ってことでいいのかしら」
「はい」
逃げることをやめた俺が早紀に謝罪ができて、また話せるようになった。考えうる限り、一番いいところに収まったのではないかと思う。
「じゃあ、サークルにもまた顔を出せそうなのね」
「あ、いえ、サークルは辞めることにしたんです」
「え? どうして?」
驚いたような顔をされた。まぁそうもなるだろう。俺は自分でも驚くほど落ち着いた心持ちで話し出す。
「俺、サークルに明確な意志を持って入ったわけじゃなかったんです。誘われて、ただ大学生っぽいからって理由で入っただけで」
早紀とは仲直りできたがそれとは関係なく、サークルに所属している理由がなくなったのだ。なぜなら――。
「サークルよりも、やりたいことを見つけたんです」
「やりたいこと?」
はいと頷き、俺は海涼さんの目を真剣に見ながら口を開いた。
「──海涼さん。俺を、ここでまた働かせてくれませんか?」
「……え?」
目を丸くしている海涼さんに、俺は真剣な気持ちを伝える。
「俺は【Glace】に救われました。海涼さんと出会って、【Glace】に巡り合って──」
言いかけた途中でフニャッと不満気な鳴き声が上がる。俺は苦笑してそうだったと付け加えた。
「わりぃ、メルもな。メルにも出会って、ここでのバイトを通して出会った人たちを見て、自分の気持ちやダメだった部分がはっきりしたんです」
だから、俺のように迷いがある人たちの力に少しでもなりたいと心の底から思った。
無論、俺なんて完璧とは程遠い人間だし、人生経験もそんなに積んでない青二才だ。そんな俺が、人の助けになれるかなんて正直わからない。
それでも、今までのように流されたわけではなく、本当にやりたいと思ったのだ。
「お店の事情もあると思うし、手伝いってかたちでも構いません。俺も海涼さんのように誰かの助けになれる人間になりたいんです」
海涼さんは俺に道を示してくれた。さながら迷子を導く出口への案内人のように。
そのお陰で、あの時から凍てついていた心が氷解して、俺はまた前に進むことができたのだ。
「……栄路くんは、勘違いしてるわ」
「え?」
「栄路くんは私が何でも知っている人みたいに思っているようだけど、私にそこまでの力はないの。前にも言ったけど、私はただ、ここに来るお客さんの話を聞いているだけ。本当に解決に導いてくれるのは精霊だもの」
海涼さんは少し物悲しげな表情で、どこか遠くを見るように目をした。
「精霊とは別で、おばあちゃんはここに来るお客さんに元気をあげてた。私もそうなりたくて、おばあちゃんならどうするかをいつも考えて、それをただ真似しているだけなの」
海涼さんも常に自信に満ち溢れているわけではないのだろう。雰囲気からそう思ってしまっていたが、海涼さん自身も自分が本当に正しいなんて思っていないのだ。そんなことに今更になって気づく。
「もし、俺の勝手な思いが重荷になってたらすみません。……でも、真似ってそんなに悪いことですかね?」
「え?」
「あ、気を悪くしたらすみません。俺はクリスさんには会ったことがないからよくわかりません。でも、たとえ海涼さんの行動がクリスさんの真似だったとしても、俺に温かい言葉をかけてくれたり、俺を信じてくれたりしたのは、他の誰でもない海涼さんなんですよ」
たとえ見様見真似だったのだとしても、海涼さんは迷っている人に手を差し伸べられている。そして、それは確実に誰かの助けとなっている。助けられた俺が言うのだから間違いない。
「だから、その、もっと自分に自信を持っていいと思います、というかなんというか……」
言っていて、なんだか偉そうなことを言っているかもしれないと思い始めてしどろもどろになってしまった。
「……そっか」
海涼さんは俯いて肩をわずかに震わせた。しまった、こういう時、ど、どうすればいいんだ? と、俺がおろおろするのも束の間、彼女はおもむろに顔を上げた。
海涼さんは泣いていなかった。若干目が潤んでいるように見えるのは気のせいということにしよう。
「私も、おばあちゃんに少しでも近づけてるって、思ってもいいのかな」
腕の中のメルがフニャッと鳴き、海涼さんの手を舐めた。メルなりに海涼さんを元気づけているのだ。
ありがとうメル、と飼い猫をひと撫でした【Glace】の店主は、居住まいを正して俺を見た。
「栄路くん、こちらからお願いするわね。まだ【Glace】にいてくれないかな」
「……! い、いいんですか!?」
「ええ、お給料もきちんと出すわ。やっぱり、そんなに多くは出してあげられないんだけど、それでも良ければ」
「全然大丈夫です! なんならタダでも――」
「それはダメ」
乗り出すように言いかけた俺の言葉は、海涼さんにぴしゃりと制されてしまった。ダメか、さすがに。
「実はね、栄路くんがいなくなってからメルが寂しそうにしててね。栄路くんがいた時は、すごくはしゃいでいたから……」
え、そうなのか?
思わずメルに視線を向けると、メルはふすふすと鼻息を漏らしている。ど、どういう反応なんだそれは?
「メルだけじゃなくって、私もちょっと寂しいなって思ってたの」
だから、栄路くんがここでまだ働いていたいって思ってくれたのが、正直嬉しかった。
そう言って、海涼さんがはにかむように笑った。俺の心臓が跳ねる。整った顔でそんな風に微笑むのは、反則ではないだろうか。
内心で落ち着かない心臓を必死になだめていた俺に海涼さんはこう言った。
「それに、栄路くんには誰を元気づけることが十分できる人よ。だから、きっと向いてると思うわ」
「海涼さん……」
「改めて、栄路くん。これからもよろしくね」
「は、はい! よろしくお願いします!」
メルがフニャッとひと声鳴き、俺の肩に飛び乗ってきた。こいつは相変わらず高いところが好きなようだ。
「メルも、まだまだよろしくな」
小さな頭を撫でると、メルはぐるぐると喉を鳴らしている。俺がここで働くことを喜んでくれているのなら、俺も嬉しいんだがな。
かくして、【Glace】でのバイト続行が決まった。またここで働くことができる。そう思うと、胸の辺りがじんわりと温かくなって心地よかった。俺もすっかり、【Glace】が好きになっていたみたいだ。
「じゃあこれ、栄路くんのエプロンね」
「あ、ありがとうございます」
海涼さんがカウンターの裏から取り出したのは、俺が使っていたエプロンだった。取っておいてくれてたことが単純に嬉しい。
エプロンを受け取った俺は、それにしてもと視線を店内に向ける。こんな空気の中でも、店内の精霊たちは変わらず自由気ままに遊泳を続けている。こいつらは本当に自由気ままだな、とやや呆れていたその時。
ふいにその精霊たちの様子が変わった。音は一切ないがざわめくといった表現が正しいほど、精霊たちが落ち着かないような動きをし出したのだ。
おいおい、さっそくかよ。
直後、カランと氷同士がぶつかるかのような涼やかな音を鳴らしながら、扉が開かれる。
「いらっしゃいませ!」
言ってからハッとした。しまった、つい口から言葉が飛び出しちまった。バイトの継続が決まったからって、いくらなんでも気が早すぎだろう。慣れというのはかくも恐ろしいものなのか。
顔から火が出そうになっていると、海涼さんはくすっと笑い、苦言を呈すことなくそっと俺に耳打ちした。
「栄路くん、奥で着替えてきて」
そう言って、海涼さんはお客さんの元に向かっていく。それを横目に、俺は慌てて裏手に入るのだった。
こうして、俺の不思議なひと夏は終わりを迎えた。だが、その不思議な日々はどうやらまだ続いていくようだ。
さて、今度の
奇び雑貨店【Glace】 玖凪由 @kunagiyu
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