第4話 命と同じ金額
しかし、そのもうすぐが、一向に訪れなかった。彼は辺りを見回す。醒めかけた酔いが胃に沈み始めた。
「どういうことだ?」
薄汚れた壁は、底のない沈黙を決め込んでいる。蝶ネクタイの男も、硬直したように動かなかった。
彼は両腕を広げた。痺れも何もなかった。
「待てよ、おい」
つぶやいて、彼は床に崩れる。
「俺は、山ほど借金があるんだぜ? どう考えたって払えないんだよ」
息が続かなかった。涙が溢れて、両手で覆っても足りなかった。
「何だよぉ、毒薬をくれたんじゃないのかよぉ。……友達だったのに」
彼は声の限りに吠えた。声がかれて頭が痛かった。顔中に涙が張り付いて、強張った。
「どうぞ」
頬に暖かいものが触れた。見ると蝶ネクタイの男が差し出したおしぼりだった。
彼が顔を拭くと、次は水の入ったグラスをくれた。
「お客様」
「何だ」
「お客様はよくない人だ」
彼は驚いて蝶ネクタイの男を見上げた。表情は硬い。
「でも、死んで喜ばれるほどじゃない」
彼はしばらくぼんやりしていたが、不意に立ち上がろうとした。彼の足元がふらつくと、男が手を差しのべた。ぽつぽつドアに向かって歩くと、タクシーが一台目映く通り過ぎる。彼はドアにもたれ、財布を取りだした。
「いくらですか」
「何がでございますか」
蝶ネクタイの男は首を傾げる。
「席代と酒」
彼は財布に一枚だけ残っていた1万円札を差し出した。
「そんなものは、今はいいです」
男はお札を押し戻す。また、眼が細くなり、皺に消えた。
「だめだろう。だって、世界に一つしかないあなたのグラスも弁償も」
「もう一度、彫りますよ」
彼は男の痩せた手を見つめた。果たしてその手に、力強く模様を彫る力があるだろうか。彼には、そうは思えなかった。
「あれは、弁償できない。申し訳ありません。働いて稼いでおっしゃる分だけ払います。きっと」
蝶ネクタイの男は、彼の目の奥を見つめていたが、ふと、うなずいた。
「では、お客様の命と同じ金額を。――あなたが生きているならば、支払いは求めません」
彼はドアから背を起こし、蝶ネクタイの男に一歩、踏み出した。
だか、男は相変わらず丁寧にお辞儀をして、こう言った。
「またのお越しをお待ちしております」
〈おわり〉
BARタクラマカン 江東うゆう @etou-uyu
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