第3話 薬を飲む

 彼は死ぬときのことをあれこれ考えはじめた。


 ――死ぬのは、どんな感じだろう。眠ったら、目覚めない、というのであれば良いが。花畑を歩いて、小川で遊んで、高校時代に好きだった女が向こうで手招きしている。長い髪は、大人になって茶色く染めてしまっただろうか。できればあのときの黒髪のまま、迎え入れてほしい。死ぬ瞬間なんて、一生に一度しかないんだ、いい目をみたい。


 昔の思い出を天井に描くと、涙が出た。死んでいく自分が、切なかった。


「オンザロックでございます」


 男の細いズボンがテーブルの脇に立って、氷が鳴った。


「お客様」


 呼ばれて顔を向けると、血の気の失せた顔で、蝶ネクタイの男がテーブルの上を見つめている。視線の先には薬があった。


「それは一体」


 男が手を伸ばす前に、彼は薬をつかみ、グラスに口をつけた。

 途端、彼は立ち上がってむせ込んだ。

 濃いカルピスのきつい甘さがアルコールに混じって、脳まで駆け上がったような痛みが、眼の裏に走っていた。


「てめぇ! これはカルピス割りじゃねぇかっ」


 蝶ネクタイの男は今まで皺に隠していた眼を丸く見開き、こめかみに青筋を立てていた。彼はとっさに薬包紙を見た。

 薬はまだ無事だ。カルピス割りであろうと、酒であることには変わりがない。

 包みを開き、口に運ぼうとすると、男が飛びかかってきた。男の痩せた腕をかいくぐって薬を口に寄せる。酒は十分残っていた。手彫りのグラスは手に馴染んで持ちやすい。

 男は手を振り回し、彼から薬を奪おうとする。彼の左手が男とぶつかった。グラスが飛んで壁に散った。

 二人は一瞬動きを止めた。しかし、すぐに彼が大きく喉を鳴らして、へへと笑う。


「飲んじゃったよーだ」


 蝶ネクタイの男は割れたグラスを見なかった。ただ、彼を見上げて、緩く首を左右に振っている。ボタンの千切れたシャツに、歪んだネクタイがぶら下がっている。


「やったぜ。俺はもうすぐ死ぬんだ。保険金が下りて、借金はチャラだ」


 ――妻は、泣くだろうか。息子はどうだろう。みんな、お父さんはよくやった、と誉めてくれるのだろうか。


 それこそ夢物語だったが、彼はそういう夢も今はいいものだ、と思った。


「馬鹿げていますよ」


 男の声はにじんでいた。


「何が」

「死にたいなんて馬鹿だ。――どうせ、一生かかって死ぬんですよ」

「何だ、泣いているのか」

「あんたのような迷惑な客に流す涙はありません」


 けれども、口を囲うように刻まれた皺には水たまりができている。


 ――そう、最初から、この店と決めていた。


 琥珀色の店に、萎びたバーテンダーが優しそうだったから。


 蝶ネクタイの男の涙が愛おしかった。このまま死んでもいいと思った。初恋の女に看取られるのではないが上出来だ、満足の内に息絶えられるのだと。

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