第30話 魔女の願い

 川の轟音が耳を打つ中、リンネアの視線は河原に立つ小さな影に釘付けになった。先ほどまでただのぬいぐるみだったはず。それがまるで生き物のように二本足で立っているのだ。


「リンネア……」

 ラーシュに名前を呼ばれてハッとする。驚きのあまり、無意識のうちに彼の首に腕を回していたのだ。


「きゃっ。ち、違うんですっ、これは……」

 自分から男性に抱きつくなんて、恥ずかしすぎる。パッと首から手を離し、夢中で彼の体を押し返した。


 逆らったら怒られるだろうかと、上目遣いでラーシュの方を見れば、彼は顔を赤くして呆然としたようにこちらを見つめている。


 ――は? なんですか、そのかわいい表情は。


 思わぬ光景に胸がきゅっと締めつけられる。


 こんな彼を見るのは初めてで、その普段との違いに心がざわめく。泣きそうなラーシュにも驚かされたけど、立て続けに感情を表に出されると、かえって反応に困る。


「お、お前……」

 ラーシュは軽く後ろによろめきながらも、赤くした顔を掌で覆いながら眉をしかめる。


「今のは不意打ちだぞ、リンネア」

 手で隠せていない耳が真っ赤だ。


 それにつられてリンネアもますます顔が熱くなるのを感じた。


 彼は責めるような硬い口調だったけれど、言葉とは裏腹に視線をあちこちに彷徨わせる。


 ――自分からは遠慮なく抱きついてくるくせに、ほんの一瞬こちらからくっついただけで動揺するなんて、『冷血皇帝』はどこに行ったんですか?


「ねえねえ、いちゃついてるとこ悪いんだけど話を続けてもいい?」


「いちゃついてません!」

 リンネアは慌てて否定し、しゃがみ込んでぬいぐるみを両手で抱き上げた。


「聖剣って……喋れるの? どうしてぬいぐるみのフリをしていたの?」

 目の前にその愛くるしい顔を持ってきて、彼女は首を傾げる。


「聖剣……ね」

 含みを持たせた言い方に、リンネアは眉をひそめた。


「違うの?」


「その様子だと何も伝わっていないんだね。竜を封じてから何年が経った?」

 ぬいぐるみがリンネアの真似をして首を傾けてみせる。


「三百年だ」

 答えたのはラーシュだった。いつのまにか隣へ立ち、警戒するようにぬいぐるみを睨みつけている。


「人間にしてみれば長い時間か。話が伝わらなかったとはいえ、こうしてエインヘリアの王族にまで辿り着けたんだから運命を感じるね」

 ぬいぐるみも表情は変わらないのに、なんだかからかうような口調のせいで笑っているように見える。


 勝手に運命を感じないでほしい。


「竜を封じた聖剣は、ボクのあるじ……つまり初代の魔女が持っていった。ボクはかわいそうな身代わりダヨー」

 ぬいぐるみは短い前脚を目元……まで届かず顎のあたりに当てて泣く動作をする。


「身代わりって?」


「ボクは主に呼び出された悪魔さ。彼女の願いを叶えたら自由にしてくれるって契約だったのに、三百年もかかったせいで魔力をほとんど失って動くことも話すこともままならなくなっていた」

 ぬいぐるみはため息をついた。


「願いとはなんだ?」

 ラーシュが厳しい表情で詰問する。


「主の願いは、自分が叶えられなかった想いを子孫が成し遂げること、それは……エインヘリアの王族との結婚」


 聖剣を持つ乙女がまさかの魔女で、自分の先祖かもしれないということをすぐに飲み込むのは難しかった。


「聖剣の乙女……というか魔女は、ヘリオス一世のことが好きだったの?」


「そう。だけど、あの男にはすでに婚約者がいた。それこそ魅了の魔法でも使って奪ってしまえばよかったものを、馬鹿真面目に身を引いたのさ」

 主人に対してひどい言いようだが、中身が悪魔だというなら仕方ないのかもしれない。


「その代わり、子孫の誰かに王族と結ばれてほしくて聖剣を抜いた乙女が王族と結ばれるなんて話を作り上げた。いつの間にか『皇妃選定の儀』とか呼ばれるようになってたけど、今でも続いてたんだ」

 ぬいぐるみはおかしそうに、ぱたぱたと腕を振る。


「じゃあ聖剣が抜けたのは……私が魔女だから?」


「そう。ほとんど眠っていたから急に魔力を感じでびっくりしちゃってさ、君が心の中で望んだイメージに反応してこんな姿になった。でも変化の術って結構疲れるんだよね。だからしばらく何もできなかったけど、見たり聞いたりすることはできてたよ」


「では、竜というのは存在しないの?」


「残念。それは本当。でもどこに眠っているのかはわからない。水の魔物が目覚めたのは竜の復活も近いせいかもしれないけど」


「竜を倒したのは本物の聖剣なのだろう? それは今どこにある?」

 ラーシュが、ずいとぬいぐるみに顔を近づける。


「さあ。主がどこにいったのか知らないもん。それより早く二人が結ばれてくれないと契約完了しないんだよ。ボクを自由にしてよ」

 ぬいぐるみは万歳をするように前脚を掲げる。


 先祖が大昔に悪魔と契約していたなんて信じられないし、自分には関係のないことなのに。


 ――ああ、もう。魔女の力を利用する人間はいるし、契約完了しろと迫る悪魔もいるし、絶対に離さないって宣言する人はいるし、私はどうしたらいいの?


 リンネアは大きなため息をつく。


 とても困ったことになった。

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冷血皇帝と最後の魔女の契約婚〜期間限定ですから義理で愛さなくても大丈夫ですよ?〜 宮永レン @miyanagaren

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