第29話 ふりだしに戻る?

 目の錯覚でも幻でもない、まぎれもなくラーシュだ。彼は一瞬の迷いもなく、勢いをつけて橋から飛び込んだのか、あっという間に距離を詰め、ぎゅっと抱きしめられる。


 リンネアは彼の胸元に顔を埋め、その温もりを感じながらも、冷たい風が二人の間をすり抜けるのを感じていた。


 落下の速度は加速し、川の水面がますます近づいてくる。リンネアは一瞬、彼の腕の中で何もかもが終わるのかもしれないと思った。


 しかしその時、二人の間から光が溢れだし、思わず目を眇める。


「えっ⁉」

 リンネアが抱き込んでいたぬいぐるみの柔らかな感触が消えたかと思うと、鋭利な切っ先がリンネアの喉元を掠めた。それが首にかかっていた魔導具に触れると、首輪は音もなく砂のように崩れ落ちる。


 ――消えた? 暴発しなかった!

 これが聖剣の力なのだろうかと考える間もなく、リンネアは咄嗟に詠唱していた。


「ヴィルミス!」

 それは風の力を引き出す魔法だ。


 落下する二人の周りに強烈な風が巻き起こり、その勢いで彼らの落下は急停止する。川の水面がすぐ下に広がり、冷たく揺れる波が彼らを飲み込もうと待ち構えていたが、リンネアの魔法によって二人は空中に留まることができた。


「……やったわ!」

 だが安心する暇もなく、今度は水の魔物がその巨大な体を現し、凄まじい勢いでこちらに向かって襲い掛かってくる。リンネアたちの足元に激しく波が立ち上がり、その勢いで二人の体が揺れた。


「俺のリンネアを危険に晒した代償は高くつくぞ」

 ラーシュの声が冷徹に響き渡る。


「リンネア。このままやつを迎え撃つ」

 彼はリンネアを庇うように片手で抱きしめつつ、もう一方の手で聖剣の柄を握りしめると魔物に向かって構えた。


「は、はいっ」

 リンネアは、自分たちがその場に留まる続けられるように魔力を放ち続ける。


 禍々しい牙の並ぶ巨大な口が迫ってきたが、ラーシュはその鋭い目で魔物の動きを読み取り、一瞬の隙を見逃さなかった。


「あの世で後悔しろ!」

 怒りと共に放たれた一撃が、魔物の分厚い鱗を貫く。


 その切っ先がのたうち回る魔物の体を深く斬り裂き、巨大な体は断末魔の叫びと共に川の中へと沈んでいった。紅く染まった水面は激しく揺れ、しばらくの間波が立ち続けたが、やがて静寂を取り戻し始める。


 リンネアは風の魔法でそのまま川岸まで自分たちの体を移動させ、ようやく地に足をつけたところでホッとする。


 ラーシュは聖剣を静かに地面に置くと、リンネアを両腕で強く抱きしめた。それは包む込むというより、縋りつくという表現の方がたしかだった。


「リンネア、間に合ってよかった……」

 耳元に落ちる彼の声は掠れている。抱きしめる腕がかすかに震えているのを感じてリンネアは驚いた。


 ――あの高さから飛び降りてきても、見たことのない化け物と対峙しても揺るがなかった陛下が?


「一歩間違えばあなたもどうなっていたかわからないのに、何も考えずに飛び込んでくるなんて……どうかしています」


 助けに来てくれたのは嬉しかったが、ラーシュがそこまでする意味があるのか。それよりも彼にはエインヘリア帝国を守るという、大切な使命があるはずだ。ここで簡単にうしなっていい命ではない。


「リンネアより大事なものなどあるものか。たとえこれで命を落としたとしても、生まれ変わってでも俺はお前を探す」

 ラーシュはそう言って腕の力を緩めると、こちらの顔を覗き込んできた。


 そこにいつもの威厳はない。眉尻を下げ、深いアメジストの瞳は潤んで揺れ、引き結んだ唇は溢れる感情を押し殺しているように見えた。


「陛下……」

 本当に彼はあの『冷血皇帝』なのだろうか。子どもみたいに泣きそうな顔を隠すこともなく、まっすぐ見つめる様子に胸がきゅうっと切なくなる。


「ずっと俺のそばにいてくれ」

 希うようなまなざしが心に絡みついて、リンネアは返答にきゅうした。


「私は……」

 そうリンネアが言いかけると、向こう岸で何かがぶつかるような硬い音がした。


 ハッとそちらを見て、何もないことを確認し、目線を上げれば高い崖の上から向こう側に渡ったハルトルたちがこちらを見ている。


 どうやら彼らはリンネアをおとりにしたおかげで無事に逃げおおせたようだ。


 彼らはこちらの視線に気づくと、すぐに森の方へ姿を消す。


 橋は激しく崩れているから、修繕が完了するまでの数ヶ月間はこちらに渡る術はないはずだ。


「ネベルゴンのやつらめ……」

 ラーシュの鋭い視線が、彼らの姿が完全に見えなくなるまで川の向こうを追っている。


「どうしてネベルゴン国の人たちだとわかるんですか?」

 私は恐る恐る彼に尋ねた。


「皇都に来たファルクス村からの使者だが、あの男、自分も流行り病にかかっているかもしれないから長居はできないと宮殿をすぐに去ったらしい。だが、俺の影に追わせたところ、町でこそこそと情報を集め回っていた。捕えて問い詰めると簡単にネベルゴンの者だと白状したのだ」


 影というのはおそらく、皇帝のめいを受けて秘密裏に行動する人間のことだろう。そして簡単に白状したというが、その問い詰め方はきっと並ではなかったのだろうなと推測してリンエアは軽く苦笑する。


「俺は数名の部下と共にお前の後を追ってきた。宿で捕縛され物置に押し込められていた部下も見つけた。なにやら奇襲を受け、強い薬をかがされて昏倒したらしい」


 リンネアの魔力を封じる道具を持っていたくらいだ。きっと他にも何かあやしい道具や薬を持ってきていたのかもしれない。


「『魔女』を連れ戻すと言っていた」

 ラーシュの言葉が私の胸を突く。


「私……」

 今度はごまかすわけにはいかない。彼の目の前で呪文を唱え、ばっちりと魔法を使ってしまった。でも使わなければ二人とも今こうして生きていなかったのだから仕方ない。


「不思議な力があることには薄々気づいていた。だが、お前が話したくなさそうだったから聞かなかっただけだ」

 続けた彼の言葉に、一瞬、何も言えなくなる。


 気づいていたのに、誰にも言わずに秘密にしていてくれたことが、どうしようもなく心に響いた。


「おっしゃる通り、私は魔女です……この力は人を不幸にしてしまうようです。だから、もう一度私は隠れて生きていきます。死ぬまで、どこかで隠れて……」

 次の世代に同じ不安や悲しみを背負わせたくないから、ずっとこの先も一人で。


「隠れて生きる? お前がどれほどの危険にさらされても、この俺がいる。絶対に守る」

 ラーシュの言葉が私の胸に重くのしかかる。


「でも…それでは、陛下まで無事では済まないかもしれません。あなたは帝国になくてはならない存在――」


「絶対に離さない。お前が逃げ出しても地の果てまでも追いかけていく。俺のそばが一番安全に決まっているだろう!」

 ラーシュは力いっぱいリンネアを抱き締める。


「婚約者でいられるのは、聖剣が元の姿に戻るまでという約束でした。私はもう必要ないはずです……」

 そう言って、彼の体を押しのけようとするけれど、彼はまったく力を緩めてくれる気配はない。


「皇妃選定の儀をやり直して――」


「お前の代わりなんてどこにもいない」

 ラーシュは彼女の言葉を遮り、大きな手で愛おしそうに頭を撫でる。


 それ、本当に好きな人に言ってあげて!


「もう完璧な婚約者のふりはしなくていいんですよ。聖剣を持って皇都へ戻って――」

 最後まで言えなかったのは、今度は足元で強い光が放たれたから。


「え?」


 光っていたのは聖剣だ。しかしその光はすぐに消え、河原にあったのは見覚えのある深紅の焔獣のぬいぐるみ。


 きゅるっとした純粋無垢な黒曜石の瞳が、リンエアたちを見上げている。


「な、なんで……」

 リンネアは目をぱちぱちと瞬かせた。


「聖剣を元の姿に戻すまでは婚約者でいてもらう約束、だったな?」

 呆気に取られている彼女に、ラーシュは自信たっぷりに言い放つ。


「で、でも、結婚しなくても竜は倒せましたし、もう婚約者でいる必要はないと思います」

 慌てて言い返すが、ラーシュの硬い表情からは同じ意見を持っていないことは明白だった。


 またしても聖剣がぬいぐるみになってしまった理由がわからない。


 ――ふりだしに戻るってこと?


 リンネアはため息をついたが、初めてラーシュと対峙した時とは真逆の温かさが胸に広がった。その時だ。


「あんな雑魚が竜だといつ思った?」

 突然、聞いたことのない声が私たちの間に響いた。まるで声変わりをしていない少年のような明るく快活な声だ。


 ラーシュの声ではないし、リンネアの口から発せられたものでもない。


「誰だ……?」

 ラーシュも心当たりがないのか、警戒しながら周囲を見回す。


「ここだよ」

 再び声がした方を向けば、そこにはぬいぐるみしかいない。


「やっほー」

 深紅の焔獣が縞々の尻尾でバランスを取りながら二本足で立ちあがり、前足を器用に振ってきた。


 あまりのことに一瞬空気が固まるが、体を駆け巡った驚きがリンネアの口から飛び出す。


「ぬいぐるみがシャベッタァァァ!?」

 

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