第28話 水の魔物

 悪い人間に利用されないために、魔法を使えることを秘密にした――それは本当のことだったのだ。


「長い間……我々ネベルゴン国は裏切り者の魔女を探してきた。そしてついに、先日エインヘリアの聖剣を抜く乙女が現れたと間諜が知らせてくれたのだ。そして不可解な現象をいくつも目の当たりにしたと」


 聖剣の加護ということでみんなは喜んでいたけれど、はじめから魔女だと疑ってかかれば魔法だと見抜くのはたやすかっただろう。


 ――秘密にしておかなきゃいけない理由がよくわかったわ、おばあちゃん。

 リンネアは泣きたくなったと同時に、そんな大切な理由がどこで途切れてしまったのか恨めしく思った。知っていればもう少し慎重になれたのに。


「命が惜しければ我々に従うんだな」

 ハルトルは長い脚を組んで、意地の悪い笑みを浮かべる。


「じゃあ……ファルクス村で病気が蔓延しているというのは……」


「嘘に決まっているだろ。お前のことは調べさせてもらった。ねずみのように隠れながら生きるより、その力の価値を人々に見せつけ恐怖で支配する。その方がずっと楽しいぞ。あのヘリオス十世だって震えあがるだろう」


 ハルトルがそう言ったので、リンネアは思わず噴き出してしまった。


「何がおかしい?」


「あの陛下が……震えあがるわけないでしょう?」

 猛吹雪オーラの彼からは、そんな姿をまったく想像できない。


「あなたは何か誤解していない? 私がこんな首輪をつけられたから魔法が使えないと思っているの?」


「使えばお前も終わりだぞ」

 ハルトルは眉をひそめた。


「私はこの世で最後の魔女――この意味がわかる?」

 いつ、どこで人生を終えたってかまわない。できれば自由にたくさん好きなことをしてから寿命を迎えたかったけれど。


「自棄になってもいいことはないぞ。我が王家に仕えれば存分に褒美を与えてやろう」

 ハルトルが慌てた様子で交渉してきたところで、馬車が大きく揺れる。


 窓から外を見れば大きな川があり、馬車は古びた橋を渡り始めたところだった。だがさらに激しい衝撃が馬車を襲い、リンネアはよろめいて扉に肩を打ちつける。


 何かが馬車を打ち据える音、底から響くような不気味なうなり声が川の方から聞こえてきた。


 橋の石畳が突然、ズシリと下に沈んだかのような感覚に陥る。馬車の御者が何かを叫んだが、風の音とともにその声はかき消された。


 茶色く濁った水面が不気味に揺れ、川の流れが急激に速くなる。馬車を引いていた馬たちが恐怖に駆られ、いななき声を上げてその場で暴れ出した。


「いったい、なんなの……?」

 リンネアは肩の痛みに顔をしかめながら馬車の窓から外を覗き込み、息を呑む。


 川から突き出た巨大な何かが、まるで生き物のように橋の下を滑り出てくるところだった。鋭い鱗で覆われた巨大な体が、水の中からゆっくりと浮かび上がり、その形を明らかにする。蛇のように長い首、鋭い牙、赤い瞳――。その恐ろしい顔が、まるで獲物を狙うかのように橋を見下ろしていた。


「まさか……これが竜なの?」

 リンネアは抱きかかえている深紅の焔獣を見下ろした。ただのもふもふのかわいらしいぬいぐるみだ。もしかしたら竜だって伝説の生き物で、存在しないものかもしれないと思っていた。


 馬車の一部が突然音を立てて崩れ落ちた。石の破片が散らばり、馬車の車輪が半分、崩れた橋に埋もれてしまった。御者が馬を宥めようと必死に手綱を引くが、馬たちは恐怖に支配され、さらに狂乱している。


「なんだ、あの怪物は!」

 ハルトルが怒ったような声を上げた。


「魔女の力であれをなんとかしてもらいましょう!」

 彼の部下らが悲鳴交じりに叫ぶ。


「くっ……鍵をはずさなければ暴発して我々もただでは済まない」

 ハルトルが舌打ちする。


 竜のような魔物はゆっくりと首を持ち上げ、その巨大な口を大きく開けた。その瞬間、橋の上にいた全員が、命の危険を直感的に感じ、逃げだした。


 リンネアも馬車から飛び出して駆けようとしたが、首に巻きついた魔導具のせいなのか体にうまく力が入らなくて、足がもつれて転んでしまう。


 ――魔法を使う?

 だが使ったところで、この首輪が魔力を感知して暴発するというのなら、どちらにせよリンネアの行きつく先は同じだ。


「これで終わりなの?」

 竜を退治するには、聖剣を抜いた乙女の力と、エインヘリアの英雄の力が必要。


「一人じゃ無理……」

 再び魔物が橋にぶつかってきて、一部が崩れ落ち始める。足元がぐらついて、必死に橋の石にしがみついた。


 その時、信じがたい光景が目に飛び込んできて、彼女は自分の目を疑う。


「リンネア!」

 橋の手前で馬の手綱を強く引き、止まった馬から飛び降りてきたのはラーシュだった。


 彼を見つけた途端、リンネアの胸がぎゅっと苦しくなる。

 どうしてここまで来ることができたのだろう。凛々しい姿がこれ以上ないくらい頼もしくて嬉しくて涙が込み上げてきた。


「陛下――」

 歩み寄ろうとした刹那、魔物の尾が橋を叩き、その衝撃風がリンネアの体を橋の外へ吹き飛ばす。


 真っ逆さまに落ちながらリンネアの視界には薄く青い空がどこまでも広がっていて、そこに一人の人影が飛び込んできた。


「嘘でしょう!?」


 ――いったい陛下は何を考えているんですか⁉

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