ダウンジャケットに入れっぱなしのスマホが何度か小刻みに震える感触で、僕はようやく我に返らされた。まだ震える手で画面を開くと、母さんから数件だけ連絡が入っていた。


「そろそろ帰って来いって連絡来た」

「おー。……そういえばリン、兄ちゃんになったんだっけ」

「……五歳になったばっかの妹な」

「すげえなあ、頑張れよお兄ちゃん?」

「うっせえ」


 乾ききった喉で、やっとオースケの言葉に答える。母さんからの連絡の内の一件は、妹が打ったであろう『おにいちゃんごめんなさい』の文字だった。


「愛されてんなあ」

「……ああ、とても」


 薄暗くなった辺りに、もう消えそうなオースケの面影が微かに落ちている。日の入りだ。時間だ。本当の別れだ。前へ進むべき時が来た。僕はゆっくりとベンチから立ち上がる。街灯の少ない周辺では、太陽光以外でまともに僕を照らすものは何もない。僕は、今度こそ最後の別れを彼に告げる。


「じゃあ、オースケ、元気で」


 彼の輪郭はほとんど周囲と溶け込んで、ほぼ見えなくなっていた。僕は、自分でつけた足跡を辿り、元来た道を歩き出す。公園を出る直前、オースケの眠そうな、柔らかく笑う声を聞いた。


「馬鹿だなあ、リン」


 いつにも増して温かい夜だった。溶かされた雪が春の雨として、弱々しく僕の頭を濡らした。公園で、大の大人が一人で泣きじゃくったのが今になって恥ずかしかったが、これでおあいこだ。


「鈴太郎、おかえり」


 玄関のドアはすんなりと開いた。鍵を閉めて振り返ると、母さんの安心した顔が見えた。目を真っ赤に腫らした妹が、母さんのズボンを握りしめながら都合が悪そうにこちらを見ている。


「…ただいま」

「ほらはなちゃん、お兄ちゃんに渡すもの、あるよね?」


 妹──花ちゃんは、ばたばたとリビングに駆け込んだかと思うと、顔ぐらいある大きな画用紙を持って戻ってきた。花ちゃんは僕に押し付けるようにこちらに紙を渡すと、すぐに母さんの後ろへ隠れていく。

 二つ折りのそれを開くとすぐに、カラフルな切り絵やイラストが現れた。立体的に飛び出した画用紙のケーキの上には、『おにいちゃんたんじょう日おめでとう』と、これまた色とりどりの文字が並べられている。


「バースデーカードだって。鈴太郎が花ちゃんの工作片付けたときに、サプライズがバレちゃったと思ったんだって」

「……花ちゃん、そうだったの?」

「……うん、おにいちゃん、たたいてごめんなさい」


 母さんの言葉を噛み締めてから、僕は依然隠れている花ちゃんの方を見た。花ちゃんは、かくんと小さく頷く。温かかった。慌てて靴を脱いで、僕は真っ先に花ちゃんに抱き着きに行く。


「ありがとうなあ花ちゃん、お兄ちゃん嬉しい」


 頭を撫でるたびに、枯れた声できゃあきゃあと笑う花ちゃんが愛おしかった。そんな僕らを横目に、母さんは茶化すように僕に聞く。僕は、宝物を手の内に抱いたままそれに答えた。


「あら、いつもならすぐ謝るのに、今日は言わないんだね」

「……心配させちゃうから。これ、部屋に飾ってくる」


 ゆっくりと立ち上がり、僕は急いで階段を駆け上った。自分の机の上のよく見えるところに、カードを開いて立て掛ける。

 ふと思い出し、机の引き出しを開けた。書類や本が詰め込まれた引き出しの一番奥に手を突っ込むと、ちりめんの懐かしい手触りを感じる。引っ張り出したそれは、あの頃より更に皴の刻まれた、『大丈夫!』のお守りだった。縫いが甘くなった上の糸を切って解き、中からくしゃくしゃの紙切れを取り出す。夕食まで少しだけ時間はありそうだ。僕は早速、彼の書いた字を読むことにした。


 自分が生かされている理由は、きっと簡単には分からない。もし仮に僕の生きる理由がオースケを想うことなら、妹を想うことなら、僕はきっと今に死ぬのだろう。それならばいっそ強く想おうと、僕はそう誓った。もう、悔いのないように生きねばならないと、そう心に刻んだ。

 僕は、僕の人生を想った。

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