四
風が低く叫んだような轟音を覚えていた。椅子から投げ出されかけるほどの激しい揺れを覚えていた。いつも真っ赤になりながらぴりぴりと説教を垂れている高ちゃん先生の、血の気が引いた白い顔を見た。いつもにこにことしている僕たちに甘い教頭の、生徒を急かす怒鳴り声を聞いた。覚えている。あれは帰りの会が終わった頃のことだった。宮城へと出発した打田一家の車を見送ったあと一晩眠り、一人で朝の通学路を抜け一人の休み時間を乗り切り、一人の放課後を迎えるまであと少し、というところだった。鮮やかに変わり果てていく周囲の大人の態度を見て、僕はやっと怖いと思った。
荷解きはどれだけ済んだだろうか。あいつの方は大丈夫だろうか。これだけの揺れなら、そろそろテレビで速報が流れるだろうか。今にオースケから『こっちは大丈夫』とメールの返信が来る。今にオースケから『そっちは大丈夫か』と電話が掛かってくる。机の下で揺れの吐き気に耐えながら、僕はずっと待っていた。下校指示が出されたときも、母さんの車に乗って帰っているときも、暗くて寒いリビングで夜を凌いでいるときも、ずっと待っていた。ずっと待っていた。
「リン、連絡寄越せなくなってごめんな。こっちも大変でさ」
若い声だ。あのときと何も変わらない、オースケの高い声だ。彼はあの瞬間に、時が止まってしまったのだ。
「オースケ、オースケお前、死んでるのか、もう」
涙が目元で煮えて熱かった。声になっているのか分からない音で彼に聞くと、僕の影は小さく揺れた。オースケが、何も言わずに頷いているようだった。
十三年だ。長かった。僕は大人になった。ずっと目を向けないように逃げてきたものを目の前に突き付けられて尚、あの頃のように負けん気を起こせるほど、僕はもう強くなかった。僕は彼なしで大人になった。
「全部僕のせいだ。意地を張らなければよかった。行かないでって言えばよかった。ずっとあの放課後のことを後悔してたんだ。お前を想わないように頭の奥に閉じ込めて思い出せなくなった後も、癖みたいに『全部自分が悪い』って考えてた。あれは、お前を忘れないための空っぽな儀式だった」
始終、嗚咽だった。オースケは真っ暗なままずっと僕を見ている。彼がどんなことを思って、どんな表情でこの話を聞くのか、今ではもう思い出せなくなっていた。
「オースケ、僕は自分が恥をかかないようにするために、お前を殺したんだ。許してもらうだけじゃ足りない。誰よりも大事なお前に恨まれたいんだ。そうでもされないと、僕はお前を殺した責任が取れない。僕だけ生きてる罪を償えないんだ」
視界が滲んでいるのか、影か薄れているのか、もはや区別がつかなかった。涙で濡れた指が冷えていく。僕が生きている証明が痛い。
「俺が死んだときさ、思ったんだ。これを知ったら絶対、リンはリンのこと嫌いになっちゃうべなって。だから、リン、俺が死んだのはお前のせいじゃないって言いたかったんだ」
滲んだオースケは、おもむろに僕に声を掛けた。どこまでも優しい彼の言葉を、僕は素直に飲み込めるはずがなかった。
「……元々さ、三学期が始まる前には引っ越す計画だったんだぜ。それを俺が無理言って三月十日に延ばしたんだ。でもほんとはもっと残ってたかった。お前が頼んだらさ、親も考え直すと思って甘えたんだ。……俺も、素直に『寂しいからもっと残る』って言えばよかったんだべなあ」
「そうだ、僕が勇気を出してれば、お前は絶対に日にちをずらしたんだ。知ってた、お前はそういう奴だった。僕が言ってれば、あの大震災で居なくならずに済んだんだ。僕が死にに行かせたたんだよ、分かってくれよ、オースケ」
懺悔とも呼べない、懇願の言葉だ。僕は必死だった。だから、彼が急に笑い出して可笑し過ぎる慰めの言葉を口にしたとき、僕は全く訳の分からないままだった。質量のない明るい声が、寒空にけらけらと放たれる。
「…うははは!リン、俺、地震でも津波でも死んでねえよ。ただの俺のドジというか、おっちょこちょいみたいな感じなんだぜ?」
「は…?」
「俺さ、地震来た時は車に乗ってたんだよな。ちょっとだけ観光しようぜってなってさ。携帯落としてぶっ壊したから連絡できなくなってさ、めっちゃビビったわ。怖くて全然覚えてないんだけど、結局落ち着くまで県外の親戚ん家で過ごすことに決まったんだ。…まあ、そこで俺がちょっとふざけちゃってこけてさ、頭打って…。まじで恥ずかしいべ、これ」
「……いや、嘘だべ、有り得ない」
「いやいやまじで!打ち所悪いとまじで死ぬんだって!」
失敗談のように自分の死をコミカルに語るオースケを見て、僕は後悔とか恐怖とかをすっかり通り越してしまった。当の本人は、そんな僕など気にも留めていないようだった。
「俺あの時さ、馬鹿やってるとき、お前のこと思い出してたんだ。まだ離れてからちょっとしか経ってなかったのに、面白いべ。こういう遊びリンともやったなーとか、地震大丈夫だったかなーとか、一人で寂しがってねえかな、とか。ずーっとお前のこと想ってた。
目標とかゴールってさ、達成しない限りずっと残り続けるけど、達成したらすぐ終わるじゃん? 俺さ、リンのこと一通り想って心配して、お前はきっと大丈夫だって、そう感じた瞬間に死んだんだ。だったらさ、俺の人生の目標は、一番の親友を想うことだったんじゃねえかなって。……地震が起こって津波が来た時さ、死んでてもおかしくなかったよな、普通。でもあのとき俺が救われたのは、お前をひたすら想うためだったんだ、きっと」
いつの間にか夕暮れ時だった。僕の影がどんどんと濃く伸びていく。オースケの顔がどんどんと遠く離れていく。僕は目線を上げて、必死で彼を追った。
「今考えたら、馬鹿なことして死んだのが悔しくて言い訳してるだけかもしんねえな。でも俺はさ、お前が俺の生きる理由で良かったって、ほんとに思ってるんだぞ。そんなお前が自信なさげだと、何か俺も悲しくなってくるわ」
オースケは確かに笑っていた。何度も僕を救ってきた、この素直さだ。
夕日がやけに熱いのが、消える前の蝋燭のようだった。オースケももうすぐ消えてしまうのだと、そう気づいた。
目標を達成したら、次にするのは反省だ。オースケは命を終えた後も、『全部自分が悪い主義』の僕が気掛かりだったのだろう。幼馴染で、親友で、兄弟の僕らは、ずっと互いを想って自分を縛ってきたのだ。
「ごめん、ごめんオースケ、ごめんな、本当に」
悔いるためでなく、心から想うための言葉だった。何度も何度も吐くように泣いた。出ない声を絞って叫んだ。オースケは止めずに、ただ静かに、少し遠くからずっと僕を見守っていた。
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