面白くない授業と少し面白い授業を交互に経て、あっという間に放課後は訪れた。クラスメイトがばらばらに教室を出ていく中、僕は一人で教室に残り日誌を書いていた。日直の最大の仕事を放課後まで先延ばしにした代償だ。登下校は二人で帰るのがお決まりだったが、今日ばかりは難しいだろう。廊下を徘徊する先生の目を盗み携帯を取り出して、彼宛に『日誌時間かかる』とだけメールを送り、携帯を腹に隠しながら音が鳴らないように蓋を閉じた。

 すっかり静まり返った教室に、紙と黒鉛が擦れる音と僕だけが存在する。今日の時間割と授業内容は無事書き終えたが、一番最後の『今日の記事』の欄で手が止まってしまった。相応しい出来事が全く思い浮かばない。僕はすっかり飽きて日誌を閉じ、窓の向こうの無彩色をぼうっと眺めることにした。雲は少ない。もしかしたら晴れるのかもしれない。


「よう! ……お、もしかして終わった?」


 教室の前方の扉から、よく知る姿が飛び込んできた。既に下校準備を済ませたあいつだった。口振りからして、メールはしっかり読んでくれたのだろう。今日はもう見ないと思っていた人物の登場に、僕は素っ頓狂な声を上げてしまう。


「えっ、え、お前まだ帰ってなかったん」

「こっちのクラスの帰りの会、先生の話でめっちゃ長引いたんだよな。丁度良いから待とうかと思って」


 彼は僕の前の席まで来ると、椅子に逆座りして僕の方を向いた。


「ちなみに日誌は最後だけ終わってない。もうちょい待って」

「リン、自分で考える系の文書くの苦手だもんな。我が代わりに考えてやろう。そうだなあ、今日は──」


 彼は椅子の上でふんぞり返りながら、にやにやと物を言った。僕は彼の口からぽんぽん出てくるエピソードを、次々と記事欄に書き連ねていく。しばらくもしないうちに、あの悩ましい記入スペースが一杯となった。


「すごい、まじで埋まった」

「うはは、天才だべ。次リンに日直回ってきたらさ、電話でまた考えてやるよ」

「……流石にズルじゃね、それは」


 僕が次に日直になるのは、春休みが明けて新学期が始まる頃だろう。その頃にはもう、幼馴染は、親友は、兄弟は近くにいないのだ。

 声色は軽快にしようと努めた。だが顔にはどうしても出てしまった。彼は少し黙った後、ゆっくりと僕に話し始めた。


「……あとちょっとでばらばらになるの、未だに実感ねえんだよな。幼稚園からずっとリンと一緒にいたもん。お前めっちゃ心配性だからさ、俺が居なくなったら泣いちゃうんじゃねえ?」


 彼は僕の思うところを察したのだろう。だがこいつは誰よりも、しんみりした空気が苦手な奴だ。慣れない話題に敢えてふざけたような声を出す彼だったが、顔だけは僕と同じだった。


「お前の誕生日ももうちょっとなのに、直接祝えなくなったしなあ……あっ、そうだ」


 彼は床に置かれた学生鞄から何かを引っ張り出すと、僕に勢い良くそれを差し出した。紐付きの小さな布の袋が、僕の眼前でふらふらと揺れている。


「……お守り?」

「おう。全部手作りだぜ、すげえべ。ちょっと早えけどプレゼントな。寂しくなったら見ればいいよ」

「……おお、ありがと」


 鮮やかな赤のちりめんに、金色の文字の刺繍が良く映える。美しく縫い付けられた『大丈夫!』の文字を何度も目でなぞりながら、僕は口の奥の方で小さくお礼を呟いた。


 彼は誕生日に限らず、気持ちを物で表すのが好きな人間だった。僕はそれを受け取る度に、些細な喜びを感じていた。今は、いつにも増して幸福だった。それと同じくらい悲しくなったのは、きっと、喜びが幸福に昇華してしまっていたことに気付いたからだ。


「……あのさリン、親が言ってた話なんだけど、実は引っ越しの日って今からでも変更できるらしいぜ?」


 急に、俺が一番欲しかった提案が僕に投げかけられる。頭では既にその提案にしがみついて、『遅らせてくれ』と頼み込んでいた。しかし口には出なかった。当の本人が、先程と似たにやにや顔でこちらに身を乗り出しているのだ。

 どちらかと言うと、僕は執着のない人間だ。くれと言われたら譲るし、やれと言われたら引き受ける。そんな人間だ。だが、こいつの前で素直になるには、少し親しくなり過ぎた。彼と話すと、人並みの羞恥心だとか負けず嫌いだとかが、生き生きと胸に巣食うのだ。彼は『遅らせてくれ』の一言を待っている。彼が強くそれを望むほど、僕はそれに逆らいたくて仕方が無くなる。


「……いや、いい。行きなよ」


 僕は答えを選んだ。気を抜けば、照れ隠しだと、反抗だとばれてしまう。これだけは悟られてはならないと、真っ直ぐ彼の目を見た。何か言われる前に、僕はすかさず言葉を選ぶ。


「日程変えるのは迷惑だべ。というか、そこに行くのは初めてなんだべ。せっかくなんだし楽しみにしときなよ」


 耐えきれなくて、掌を強く結んだ。もらったばかりのお守りが、くしゃっと少し音を立てて手の中で縮む。やけに長い睨めっこだったが、先に目を逸らしたのは彼だった。こくこくと小さく頷いたかと思うと、今度は彼からこちらに目を向け僕に笑いかけた。


「そうだな、そうだ。……ちょっと不安だったけど決心付いたわ! ありがとうな」


 カラッとした、割れて剥がれそうな声が僕の耳に届く。取り消さねばならないと、そう咄嗟に思った。だがまた言うには至らなかった。


「おい風間、日誌出してねえべ。もう下校時間だがら、出したら早ぐ帰れよ」


 日誌を回収するため、担任が直々にいらっしゃったようだ。担任は開け放たれた扉の前で、腕を組みながらこちらを睨んでいる。肺に集まった行き場のない空気が、だらしなく口から逃げていく。言わなかったことを後悔はしなかった。してしまえば、次は恥ずかしい思いをしなければならなくなると分かっていた。


「やっべ、たかちゃん先生じゃん……。怖えから苦手なんだよな、さっさと出るべ」


 先生の声を聞くや否や、彼は顔を渋くしながら荷物を背負い始めた。正直、奴が登場したおかげで救われたと思ってしまった。すらすらと愚痴を言う姿を見る限り、彼も同じ気持ちなのだろう。僕らは生返事をしながら、そそくさと教室を後にした。


 いつもより長い廊下を横並びに歩く。窓の外から、三階分まで背を伸ばした桜の木が覗いた。ずるずると流れる白色に差し込む桃色の枝は、やけに鮮やかに映った。


「そういえば桜、いつ頃咲くんだべ」

「予想は四月二十二日らしいぜ。入学式は月の頭だし、間に合んねえなあ」

「……そっちはもう少し早いんだべな、きっと」


 左目の端、左隣の彼がこちらを向くのが見える。ついさっき気まずくなったばかりの話題を僕から出したのだから、相当驚いているのだろう。どんな顔をしているのかは見えないが、いつも通りの声色で彼は答えた。


「あっちは確か、引っ越してから一か月ちょいで咲く予想だったな。十三日だっけなあ」

「一足早く花見できるんか。羨ましいな」

「うはは、行ったら写メ送ったるわ! ……まあ、桜見たくなったらさ、お守りの裏見ろよ」


 彼に言われて僕はやっと手の中の違和感を思い出し、握りっぱなしだった拳を顔の前で開いた。掌の上に、皴の付いたお守りが現れる。そこには『大丈夫!』の文字はなく、代わりに二つ名前が縫われていた。彼は裏面に、粋な演出を残していたようだ。


「ほんとはリンの名前だけ入れる予定だったんだけどさ、俺の名前も入れてまったわ。年中見れる桜だと思えば、なかなか良い感じだべ」

「……はは、まじで器用だよなお前」


 まあな、と彼は得意げに鼻を鳴らす。僕はもう一度、金色の名前に目を移した。

 『打田うちだ桜介おうすけ』の四文字が、『風間鈴太郎』の隣に姿勢良く並んでいる。暗くなりかけた屋外からわずかな光を集めて、痛いほどにきらきらと瞬いていた。


「オースケ、元気でな。宮城でも頑張れよ」

「馬鹿だなあ、まだ一週間あるべや」


 僕の精一杯のエールを合図に、僕らは悲しい話をするのを永久にやめた。

 窓を叩く強風を見た。この短時間ですっかり冷え込んだのだろう、窓の外は吹雪へと変わっていた。風が手伝って雪は威力を増し、桜の蕾をすっぽりと覆い隠している。夕べに僕が見出した晴れの気配は、今になってはもはや見る影もない。

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