第三話『仮初めの慰労』

 狭い、従来型の多床室たしょうしつ

 硬い床のワックスは、あちこち、禿げている。

 天井には、何かが染みた、黒い跡。

 上から垂れるカーテンにより中身が隠された、ベッドの区画が六つ。

 そのうちの一つのとばりが、全開になっている。

 冷たく光る金属のスタンド。

 そこに吊るされた経管けいかん栄養の灌注器イリゲーターから伸びるチューブは、腹部上方、胃瘻いろうのカテーテルへと繋がる。

 動きのない、老人。

 右側臥位うそくがいの体が、訪問者と対峙たいじしている。

 目は開いているが、そばにいる三人を捉えてはいない。


「ほらとおる為男ためおおじいちゃんにご挨拶は?」

「そうだ透、おじいちゃん、きっと喜ぶぞ?」

 金恵かなえ宝助ほうすけが、透に促す。

「あ! そうだおじいちゃん。おじいちゃんにもらった『おとぎぞうし』。まいにちよんでるよ! もうすぐで、よみおわるんだ、ほら!」

 透は、脇に抱えていた『おとぎぞうし』の一ページを開くと、自慢げに、為男の目の前に立てた。すると……


 細長く、白い紙が、ひらりとベッドの上、為男の死んだ魚のような目の前に、落ちた。


 紙の中央には大きく、


 『遺言状』と書かれていた。


 金恵と宝助は、思わず顔を見合わせる。透の方はというと、その極めて重要な紙に、あまり興味がないようだ。むしろ本の続きが気になったようで、『おとぎぞうし』の中の、おじいちゃんによる加筆部分を読み進める。


「ふんふん、あ! またここでもだ! ふんふん、ふんふん……へぇ、おかあさん、おとうさん、うちでのこづちからは、キンピカなのがたーくさん、でてくるんだって!!」

 透は、ページに描かれているおびただしい量の金銀財宝の絵に、目を光らせている。

「……透ちゃん、ちょっとこの本、見せてね?」

 金恵は透から、その古臭い本をそっと取り上げる。

 そして、ページをパラパラとめくると……

 表紙の裏に、やけに達筆の平仮名で、こんなことが書いてあった。


『とおるヘ。このほんは、かならずざいごまで、すみっこまで、よんでね。きっと、とおるのためになるとおもうなあ。ためおおじいちゃんは、とおるがりっぱなおとなになることを、ねがってるよ』


 透が、『おとぎぞうし』と為男を、交互に見比べる。そして、人差し指を唇に当てて、何かを考え込み始めた。

「と、透ちゃん……どうか、したの?」

 金恵が、怪訝な顔で尋ねる。


「ねぇ、ためおおじいちゃんは、うちでのこづち?」

 

 金恵も、宝助も、透の質問には答えられなかった。



 それから数日後、為男は、静かに息を引き取った。

 家庭裁判所による検認の結果、遺言状は有効と認定され、孫である透だけが、法定相続人となった。


〈完〉

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人間よ、打ち出の小槌になるなかれ 加賀倉 創作【ほぼ毎日投稿】 @sousakukagakura

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